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フロマージュと葡萄酒のマリアージュ ―1―

 


 帝都の黄昏時に鳴り響く音。


 遠くから聞こえるのは鐘の音。


 それは祝福か、それとも警鐘か。




「あの?」

「何だい、お玉さん」


 伯爵邸の専属料理長のシェフ、相馬春風は、お玉の目の前で手際よくチーズを切り分けていた。その横で愛染が深紅の葡萄酒を慣れた手つきで脚付きのワイングラスに注いでいる。ここが日本ということを忘れてしまいそうな光景である。


「その、チーズ、カビていますよ」

「うん、そうだね」


 シェフは朗らかに肯定する。


「……あの、カビを食べたらお腹を壊しますよ。私、小さい頃にカビたご飯を拾って食べたことがあるんです」


 あの時の壮絶さといったら……。お玉の告白に、一泊きょとんとしたシェフだったが次の瞬間、お腹を抱えて笑い始めた。愛染は呆れ顔だ。


「お玉さん。このチーズはロックフォールと言ってね、青かびチーズの一種なんだ。お腹は壊さないから大丈夫。それにワインとの相性が抜群なんだ。まさにワインとチーズの結婚(マリアージュ)だね」


 シェフは目尻の涙を拭きながら説明を始めた。


「この青かびチーズ、ロックフォールには面白い逸話があるんだ。フランスの羊飼いの青年が洞窟の中でチーズを食べていた時、近くを美しい娘が通りかかったんだ。青年はその娘の後を追っていった。そして約三カ月後、洞窟に戻ってみると青カビで覆われたチーズは、とても美味しく変化していたって話さ。男のスケベ心が作り出したようなチーズじゃないか!! それとね、もう一つ逸話があるんだ。――痛っ! なんで叩くんですか、伯爵様」

「うるさい、お前はもう引っ込んでいろ」


 後頭部を愛染に叩かれたシェフは、ニヤニヤ笑いながら部屋を去った。


「まったく、あいつはよく喋る」


 呆れたように呟いた愛染は、ロックフォールを一切れ摘まんだ。


「食べてみろ」

「え?」


 愛染は摘んだチーズをお玉の口元に運んだ。


「早く食べろ」

「……毒味ですか?――むぐっ!」

「黙って食え」


 愛染がお玉の口に無理矢理、青かびチーズを押し込んだ。お玉は折角のチーズを吐き出すのはもったいないので恐る恐る租借する。


「味はどうだ?」

「…………しょっぱくて、不思議な味で、なんか、じゃりじゃりします」


 不味い、とは正直に言えない。すみません、貧乏舌で。


「ほら、もう一切れ食え」

「え~と……」


 愛染は再びチーズを摘むと、お玉の口元に運ぶ。お玉は観念したようにチーズを食べようと口を開けた。すると愛染の指がお玉の下唇をギュッと摘む。


「なにひゅるんですか! ひゃなしてくだはい」

「お前の顔に、“不味い”と書いてあるからな。罰だ」

「ひょんな」


 お玉の情けない姿を見て、愛染は朗らかに笑った。その笑みに、お玉の心臓が飛び跳ねる。愛染が声を出して楽しそうに笑っている姿は初めて見たのだ。


「次はこれを飲んでみろ」


 愛染はお玉の前に葡萄酒の入ったグラスを差し出した。


「葡萄酒ですか?」

「そうだ。シャンベルダンというフランス産のワインだ」

「……あの、私、お酒は苦手で」


 お玉は身体を温めたり、社交場の付き合いでどうしても飲まなくていけない時以外、お酒はたしなみたくなかった。


耶蘇教(やそきょう)の教えに反するからか?」

「それも、あります」


 耶蘇教では一夫一妻、禁酒、廃娼を唱えている。

 愛染はグラスの中の葡萄酒をゆっくりと口に含み、お玉の腰に手を回して抱き寄せた。


「愛染様、――っんん!」


 愛染はお玉と口づけを交わし、その口の中に直接、葡萄酒を流し込んだ。


「……この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血」


 キリストの(ことば)を愛染が耳元で囁く。

 葡萄酒がお玉の口から溢れ出て、白い喉を伝う。白い絹の半襟(はんえり)が赤く染まっていく。愛染は白い首筋を伝う、赤い道筋に舌を這わせた。


「あ、愛染様」


 愛染はまさに葡萄酒を創造したいわれる美貌の神、ディオニュソスだ。

 道徳的正当性を与え来世の幸福を約束するキリストに対し、ディオニュソスは強者の享楽と陶酔を肯定して現世の繁栄を謳歌しようとする背徳的なギリシャ神。

 彼の美貌と魅力に誰も逆らえない。


「痛いっ!」


 お玉は首筋に突然走った痛みに身を引いた。愛染がお玉の首筋に歯を立てたのだ。


「愛染様、何を……」


 お玉の鼓動が狂ったように脈打つ。愛染は再びお玉を腕の中に抱え込むと、その耳元に唇を寄せた。


「愛人になれ」

「…………は?」


 お玉は耳元で囁かれた言葉がすぐには呑み込めなかった。


「お玉、私の愛人になれ。一生、苦労はさせない」

「……愛染様」


 お玉の目が見開かれる。愛染はお玉から手を放すと、瑠璃色の瞳でお玉の黒い瞳を覗き込んだ。

 葡萄酒の匂いが立ち込め、退廃的な快楽に酔う。

 愛染の唇がお玉の唇を捕えようとした時――。


「伯爵様、大変です!」


 突如、平静さを失った執事が部屋に飛び込んできた。普段、冷静沈着な執事がここまで動揺する姿は珍しい。


「何事だ」


 愛染は絶好の機会を逃して、苛立った様子で家令を睨んだ。


「伯爵様、申し訳ありません。しかし非常事態でございます。たった葡萄酒の醸造所から火の手が上がったと一報が入りました」


 家令の報告に愛染の顔色が変わった。


「すぐに車の用意をしろ!」

「かしこまりました」


 愛染と家令は、慌ただしく部屋を出て行った

 残されたお玉は、まるで台風が過ぎ去った後のような静けさの中、ぎこちない動きで椅子に腰を下ろした。手足が震えている。

 背徳の甘い囁きで耳が熱い。早鐘のような鼓動。動悸が激しすぎて胸が痛い。愛染に身をゆだねれば、神の教えに反する。

 吸血鬼は十字架が弱点だと世間一般には言われが、それは違う、とお玉は思った。

 人は善だけで出来ているわけではない。甘美な誘惑の前では、聖女さえ陥落して堕落してしまうだろう。

 故に、信仰を盾に己を守らねばならないのだ。十字架は甘美な背徳から己を守る盾なのだ。


(クロスを失くしてしまった私は、もう、誘惑から逃れられないのかしら……)


 お玉は胸元を抑えた。村を出る際、母から譲り受けたクロス。工場長にちぎり取られてしまった。

 何もかも失くし、行く当てもなく彷徨っていいた時に拾ってくれたのが愛染だった。


「愛染様……」


 身体から香る葡萄酒の香り。未だに官能の熱がくすぶっているようだ。お玉は己を守るように、自分自身を抱きしめた。抗うには愛染は魅力的すぎる。

 飲みかけの赤ワイン(シャンベルタン)がグラスの中で微かに揺らぐ。


 青かびチーズ(ロックフォール)のもう一つの逸話。

 色恋に長けたカサノヴァが、難攻不落の姫君を口説き落とし、「ロックフォールとシャンベルタンは芽生えたばかりの恋をたちまち成就させる」と言い残したとされる。



 ※


 翌朝になっても愛染は帰ってこなかった。


 お玉はまだ愛染に会いたくなかったので少しだけほっとした。愛染に会ったら、否応なしに“答え”を出さなければならない。

 それと同時に、顔を見ることが出来なくて心配でもあった。

 醸造所(ワイナリー)の火災の規模はどうだったのだろう。怪我などしていないだろうか、大事になっていなければいいのだが……。

 執事が言うには、ボヤ程度ですんだようだ。ただ、後処理に追われ、愛染の帰宅は夕方以降になるらしい。


 お玉は水玉模様の銘仙の着物を身にまとい青海波模様の帯をしめて、透明感のある金魚の帯留をした。アール・ヌーボー調の蝶々の髪留めで髪をまとめ、レースのショールを羽織った。最後に顔に軽く頬紅を叩く。


「お玉様、どちらにお出かけで?」


 執事がお玉の恰好を見るなり目を張った。


「はい、紡績工場のほうに」

「紡績工場?」

「忘れ物を取りにいきたくて」


 お玉は胸元に手を置いた。愛染と向き合う時、クロスがないと心許ない。


「忘れ物ですか? でしたら、私が後日」

「いえ、今日は火災の後処理などで忙しいのに、ご迷惑をかけたくありません。すぐ帰ってきますから」

「しかし、今は手の空いている者がおりません。お玉様をお一人で外出させるなど――、おや? 誰かがいらっしゃったようですね。お玉様、少々お待ちください」


 執事の言葉の途中で、来客を告げるドアノッカーの音が響いた。伯爵邸を来訪するのは雪乃丞くらいだろう。

 雪乃丞だったら紡績工場に連れて行ってくれるかもしれもしれない。お玉は玄関に急いだ。

 しかし、来客は雪乃丞ではなかった。


「まあ、梅沢男爵」


 そこには和装姿の梅沢男爵がいた。

 羽織袴に中折れ帽子。彼は洋装より和装の方がよく似合う。禁欲的な雰囲気が男の色気を醸し出しているのだ。


「梅沢男爵はどうしてこちらに?」

「伯爵様に折り入ってお話が合ったのですが、おいでにならないようですね。

 おや、お玉殿、どちらへお出かけで?」

「あ、いえ、まあ、あの、十字架(クロス)を……」


 お玉は言葉を濁した。梅沢男爵には紡績工場に行くとは流石に言えない。梅沢男爵はお玉が元工女だと知らないのだから。


「十字架?」

「はい。あの、その、失くしてしまって」

「ああ、買いに行かれるのですね。よろしかったら私もご同行してよろしいでしょうか」

「え?」

「さあ、まいりましょう」

「え、え?」


 梅沢男爵は少々強引にお玉を連れ出し、人力車で帝都に繰り出した。


 ※


 結局、十字架は買わなかった。もとより買うつもりもなかった。

 その代わりに、聖書(バイブル)を見たり、煉瓦造りの教会に足を運んだりと、久しぶりにゆっくりとした時間を過ごした。お陰で、気分が青い空のように清々しい。

 良く晴れた帝都を散策した後、お玉と梅沢男爵は資生堂パーラーに赴いた。

 お玉の前に銀の脚付きの器に入ったアイスクリーム。梅沢男爵はソーダ水で喉を潤す。


「私、アイスクリームは初め食べます。――冷たくて甘い!」


 お玉は初めて食べるアイスクリームに至極ご満悦だ。ほっぺたが落ちそうなくらい美味しい。(はし)が、もといスプーンが止まらない。


「本当に美味しそうに食べますね」

「本当に美味しいいんですもの」


 子供のようにはしゃぐお玉に、梅沢男爵は目を細めて笑った。素直に喜びを表現するお玉は、地位や身分を鼻にかけたような令嬢とはずいぶん違う。一緒に居てホッとできる存在だ。こんな気分になったのはいつ以来だろう?

 梅沢男爵の目が陰りを見せる。



 ――あの日、妻から尽きられた離縁の申したて。


 妻には何不自由させていないと思っていた。

 美しい人。

 名の如く蝶のように美しい令嬢。

 気高い人。

 そして、頑固な人。

 何度、問いただしても離縁したい理由を言ってはくれなかった。

 結婚生活にどんな不満があったのか、今でもわからない。

 ただ“別れて欲しい”と涙ながらに訴えられ、それをしぶしぶ承諾したのだ。

 大切な人だからこそ、彼女の気持ちを尊重した結果。別れることを選んだのだった。



「……男爵様?」


 お玉の声に、梅沢男爵は現実の世界に引き戻された。梅沢男爵の目の前にはスプーンに乗った溶けかけのアイスクリーム。お玉が梅沢男爵の口元にアイスリームを差し出しているのだ。


「お玉殿?」

「ごめんなさい」


 突然謝られて、梅沢男爵は何事かと思った。


「私、一人で美味しいモノを食べてしまって……」


 過去を迷走していた梅沢男爵は、うつろな瞳でアイスリームをぼんやり眺めていたのだった。その視線にお玉は


(男爵様もアイスクリームが食べたいんだわ!)


 と、勘違いしたのである。

 梅沢男爵はアイスクリームを眺めているつもりは毛頭なかった。もちろんアイスクリームを食べたかったわけでもない。それなのにお玉は本気で心配しているのだ。

 軍隊では鬼と恐れられる梅沢男爵を捕まえて、アイスクリームひとつで思い悩んでいると思っているのだ。いや、食べ物の恨みは何とやらというが……。

 梅沢男爵はうつむくと、肩を小刻みに震わせ始めた。


「まあ、男爵様、どうかされましたか!?」


 お腹痛いのかしら? と、心配になる。しかし、梅沢男爵は顔を仰け反らせて大笑いし始めた。


「あーはっはっは、くっくく、は、腹がよじれる」

「……あの?」

「も、申し訳ありません」


 男爵は目尻の涙を拭いながら、おろおろと戸惑うお玉に謝った。その肩は未だに痙攣したようにひくひく動いている。


「お玉殿といると、心が和みます」

「そ、そうですか?」


 大爆笑された後に、和むといわれても、すんなり納得できない。


「お玉殿のような方には初めてお会いしました」


 彼女となら、鬱屈した日々から抜け出し、新たな生活に踏み出せるかもしれない。男爵の顔が急に引き締まり、真剣な目つきなる。


「お玉殿、私の妻になっていただけませんか?」

「え!?」


 スプーンからアイスクリームがボトッと落ちた。


「唐突で驚かれるのも十分承知の上です。今日、伯爵邸に伺ったのも、平松伯爵にお玉殿と結婚を前提にお付き合いさせてほしいとお伝えするためだったのです」

「それは……」


 男爵はお玉の手を取った。


 ――私と結婚して下さい。


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