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ヴィアンドゥと薔薇色の円舞曲 ―3―

 

「梅沢義正。爵位は男爵、勲功華族。三十歳。離婚歴有り。努力家、誠実、実直な性格。部下にも慕われ、上司からも頼られる存在。親孝行者。酒も賭け事もしない。ふ~ん、私とは正反対だね」


 雪乃丞が朗々と読み上げるのは梅沢男爵の経歴。愛染は帝国劇場で遭遇した不遜な男を、早速調べ上げたのだ。


「……離婚歴有り」


 愛染が気になったのはその一点だ。逆に言えばソレしか汚点のない人生に見える。


「懐かしいな、あれは三年前だったかな」


 と、雪乃丞が言ったので、愛染は「三年前?」と聞き返した。


「愛染は覚えていないかい? 当時は世間を賑わせたんだよ。なんていったて妻のほうから離婚を請求したんだから」


 雪乃丞は顎をさすって記憶を思い起こした。

 妻からの離婚請求。それは華族の一大醜聞として世間を騒がせたものだ。

 ひと昔前まで離婚は夫から一方的に突き付けられるもので、妻からの離婚は認められていなかった。

 時は移ろい明治六年、妻からの離婚請求権が認められるようになる。しかし、男尊女卑の風潮はいまだ根強く、妻の方から離婚を請求する事は世間的にはばかれるものがあった。家にあっては父に、嫁しては夫に、老いては子に従うのが婦人の道という考えが浸透していたのだ。

 そんな風潮の中、梅沢男爵は妻から離婚を叩き付けられたのだった。


「妻の方から……」


 愛染は口の中で呟いた。それは一重に妻が結婚生活に堪えるに耐えられない状況だったのだろう。女狂いか? 家庭内暴力か? 何にせよ、妻からの離婚請求はよほどの理由からだろう。


「離婚請求の理由は?」


 愛染の問いに、雪乃丞は西洋人のように両肩を上げた。


「残念だが理由までは知らない。青鞜(フェミニズム)かぶれの奥方だから、嫁しては夫に従うのが嫌だったんだろう」

「奥方を知っているような口振りだな」

「まあね。当時は写真入りで新聞を騒がせていたから。で、そんな事を調べてどうするんだい?」

「お前には関係ない」


 愛染の取りつく島もない態度に、雪乃丞は帝国劇場での出来事を思い出した。梅沢男爵はお玉を気に入った様子だった。

 お玉を愛染から奪う人間は抹消するつもりか? 本気か愛染。お気に入りの玩具(おもちゃ)を取られそうで怯えている子供のように見える。しかし、愛染は小さな子供ではない、地位と財産ある人間だからこそ厄介だ。

 愛染、君は――。


「――君は、梅沢男爵を潰すつもりかい?」

「……」


 愛染は無言で梅沢男爵の経歴を暖炉の火にくべた。それが答えだった。梅沢男爵を社会的に抹殺するつもりだ。


 ――お玉は私のモノだ。誰にも渡さない。


「なるほど、伯爵と男爵が、拾った子猫を取り合って喧嘩をするとはね」


 雪乃丞が不敵な笑みを漏らした。拾った子猫とはもちろんお玉の事だ。

 愛染は射ぬくような目で雪乃丞を睨みつけた。


「普段は何事にも冷淡な君がここまで独占欲の強い男だとは思いもよらなかった。お玉ちゃんも可哀想に」


 可哀そうだと? お玉は贅沢を満喫し、飢えることさえないのだ。そのどこが可哀そうだというのだ? 愛染には理解することが出来なかった。


「愛染、君はいつまでも過去に囚われているべきではない」


 もし、お玉が愛染のもとを去ると言い出したらどうなるだろう。考えただけども恐ろしい。愛染はお玉を道ずれに地獄にでも落ちてしまうのではないだろうか。


「……私は囚われてなどいない」


 愛染の声は自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。


「本当にそう思っているのか? 自分自身と向き合う時期に来たんだよ。辛いかも知らないが君はご両親の問題と向き合うべきだよ」


 愛染の顔が一瞬で固まった。両親の話をされると心が凍りつく。孤独の闇がぽっかりと穴をあけて愛染を待ち受けているような錯覚におちいる。

 雪乃丞はゆっくりと愛染の肩に手を置いた。


「愛染、君の心に深い傷があるのは知っているつもりだ――」

「つもり? お前に何がわかる? 髪は黒くて、肌も黄色い、日本に生れ日本で育だった放蕩者に何がわかる」


 愛染は雪乃丞の手を不快な物でもあるかのように払いのけた。

 幼い頃から自分の容貌が嫌いだった。金色の髪に白い肌、そしてぞっとするほど青い目。幼少期に祖父母に愛されたくて、金髪を墨汁で染めたことがあった。しかし、髪は染まらず服を汚した罪で折檻(せっかん)された。帝都を歩けば石を投げられ唾を吐きかけられ、夜は一人で声を殺して泣いていた。いつからだろう、泣かなくなったのは。


「すまない。確かに君の気持はわからない。そう言えば少しは心を開いてくれると思ったんだ。どうだい私の胸で泣いてみないかい?」

「……」


 雪乃丞の飄々とした口調に、愛染は真剣に会話することさえバカバカしく思えてきた。そうだった、雪乃丞とはそういう奴だ。物事を真剣にはとらえず、淡々と生きるような男だ。てっとり早く黙らせる方法は一つ。

 愛染は拳に力を入れた。


「おいおい、そんなに睨まないでくれ。石になりそうだ」

「お前が石になったら“口は災いの元”という題名で庭にでも飾っといてやろう」

「……嬉しいよ。でもせめて屋内にしてくれるともっと嬉しい」


 雪乃丞はその場の雰囲気を和らげようと剽軽に言った。しかし、愛染は相変わらず眉を潜め、機嫌はそう簡単に直りそうにない。これはさっさと退却しほうが身のためだ。


「じゃあ、私は石になる前に退散するよ」


 雪乃丞は帽子をかぶると、扉の前で立ち止まった。


「放蕩者から一言助言させてもらうならば、梅沢男爵の事は放っておいて、さっさとお玉ちゃんをものにしてしまえ。ああ、それと――」


 雪乃丞は肩越しに振り返ると、ニヤッと笑った。


「梅沢男爵の元奥さん。私たちのよく知っている人物だよ」


 ※


 お玉はミルクホールの改装開店祝いに来ていた。

 鈴蘭型のランプに壁には大きな振り子時計、蓄音機の針がレコードの上を走る。籐椅子に真っ白のテーブルクロスをかけられたテーブル。雑誌や書籍が備え付けられ自由に読むことが出来る。モダンでお洒落なミルクホールだ。

 縞格子の銘仙(めいせん)の着物にフリルの付いたエプロンを着た女主人蝶子は、お玉がミルクホールを訪ねると笑顔で出迎えてくれた。


「はいミルクセーキよ」


 テーブルに置かれたおいしそうなミルクセーキに、お玉は相好を崩した。


「ふふふ、元気にしていた?」

「はい蝶子さんもお元気そうで」

「お玉さんはすっかり時の人ね。噂はいろいろ聞いているわ。かの松平伯爵様の人間らしい噂も耳に入ってきてわたくしもうれしいわ」

「人間らしいって……」


 今までは人間じゃなかったのかと訊きたい。


「でも、これからどうなさるおつもり?」


 蝶子は顔を曇らせると、話題を変えた。


「どうするとは?」

「伯爵様の目的は達成したのでしょ。吸血鬼から人間に戻ったのだし。このままお玉さんが伯爵邸にずっといるわけにはいかないでしょ」


 愛染の目的は、お玉を淑女に仕立て上げ、気味の悪い噂を払拭することだった。目的を達成したら、お玉は用無しだ。


「私はこのまま、伯爵邸で女中として雇っていただけたらと思っています。千代さんもお年ですし、代わりの者が必要ではないかと思うんです……」

「お玉さんは伯爵様を懸想しているでしょ」


 蝶子の言葉に、お玉はミルクセーキを吹き出しかけた。


「見ていればわかりますわ。伯爵様は気付いておられないようだけど……」


 野暮天だからかしら……。蝶子は言葉を切ると、悲しそうに笑った。


「わたくし、お玉さんの事が心配なの」

「どうしてですか? 私は幸せ者ですよ……」


 甘くておいしかったミルクセーキが急に酸っぱく感じた。


「お玉さん。わたくし、昔からとってもお慕い申し上げていた殿方がいらしたの」


 突然、蝶子の話が変わり、お玉は訝しがったが、そのまま蝶子の話に耳を傾けた。胸が不安で脈打っている。好きで傍にいるだけでも罪なのですか?


「幼い頃より想いを寄せていたあの方に十八歳で嫁いだ時は幸せの絶頂でしたわ。でも嫁して三年、子宝に恵まれず、あの方に妾を囲うようにと周りの方々が進言なさったのです。男子を設けなければ爵位は潰 (ついえ)てしまう。かといってあの方が他の女性と睦み合うのが耐えられませんでした。わたくしは自ら離婚をきりだしたのです」


 蝶子は小さな溜息をついた。妻からの離婚申請。それは世間を騒がせ、想像を絶すほどの非難を必死に耐えた。


「母は顔に泥を塗ったと未だにわたくしを許してくれませんの。今でも華族の娘ともあろうものが庶民のようにあくせく働くなんてみっともない、と小言が耐えませんことよ。母は結婚こそが女の幸せだと信じているの」


 娘を心配してくれる母の気持ちは痛いほど分かる、でも……。蝶子は自らの経営するミルクホールを見渡してから満足そうに頷いた。


「わたくし後悔はしていませんの。人生いろいろですわ。自らの足で歩くのは辛く険しい事ですが、喜びもひとしおなのです。あのまま、あの方の傍にいたらきっと嫉妬に狂う嫌な女になってしまっていたと思いますもの」


 蝶子はあの人を愛し、幸せだった頃の感情をすべて締め出し、死に物狂いで生活を立て直していた時代を懐かしく感じた。何度、あの人の所に駆け戻りたいと思ったか。


「伯爵様もいずれはご結婚されることでしょう。爵位の継承は華族にとって義務ですもの。その時お玉さんは耐えられて?」


 伯爵である愛染は、いずれ家柄のよい娘と結婚することだろう。その筆頭が彰子だ。愛染と彰子が結婚することを考えるだけで胸が痛い。張り裂けそうだ。


「お玉さん……」


 お玉の顔は今にも泣きだしそうだった。傍に居たいけど、傍に居れば辛い。どうしたらいいのだろう。


「だけど今は、せめて愛染様が結婚されるまでは、傍に居させて下さい」

「ええ、何かあったらこのお店にいらしゃい。給女ひとりくらいは雇えるわ」


 蝶子の温かい手がお玉の手にそっと添えられた。



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