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ヴィアンドゥと薔薇色の円舞曲 ―2―

 

 梅沢正義(うめざわまさよし)男爵は軍人の家系。戦争で武勲を挙げた“勲功華族”だ。勲功華族(くんこうかぞく)は新華族ともよばれ、本来ならば華族とはされない家柄の者が勲功を立てて褒美として華族に加えられる。その際、もともとの華族を旧華族と呼び、彼らは新華族と蔑視していた。

 戦線を潜り抜けてきた梅沢男爵は、華やかな華族同士の派手なパーティーを苦手とした。正装の軍服も窮屈のうえ、旧華族の見下した態度にもうんざりだ。

 梅沢男爵は一息つくため、人気のない場所まで来ていた。一服しようと巻きタバコをポケットから取り出す。すると何やら二階が騒がしい。

 硝子(ガラス)の割れる音? 上を見やると、吃驚仰天、女性が降ってきたではないか。


「おっと」

「きゃあ」


 梅沢男爵はとっさに落下してきた女性を受け止めた、いくら小柄で軽い女性とはいえ、二階からの落下速度もあいまってかなりの重みを感じた。しかし、そこは日々鍛錬を怠らない軍人。転びそうになるところを何とか踏みとどまる。

 無事に女性を受け止めて安堵したのも束の間、二階の窓を見上げると書生姿の男と目が合った。その虚ろな瞳には後悔も焦りもなく淡々としていた。薄気味悪い。


 ――女性を突き落としたのか?


 幽鬼のような男は音もなく部屋の奥に姿を消した。何者だ?


「……うっ」


 小さなうめき声が聞こえ、梅沢男爵は腕の中の女性に目を転じた。


「お嬢さん、お怪我は?」

「だ、大丈夫です」


 顔色は悪いものの、怪我はなさそうだ。

 梅沢男爵は女性を腕から降ろすと、女性はしっかりと自分の足で立ち上がった。


「何があったのですか?」


 梅沢男爵はあの男を追いかけたかったが、今はこの淑女をひとりには出来ない。


「あの者に狼藉を受けそうになったので、花瓶を投げつけて逃げてきました。たまたま貴方様がこの窓の下におられて……。お怪我はございませんか?」


 梅沢男爵は目を(しばた)いた。今しがた手篭めにされそうになった淑女から逆に心配されるとは思わなかったのだ。普通なら泣きわめくのではないだろうか。

 花瓶を投げつけて二階の窓から飛び降りて逃げる辺り、普通の淑女とは思えない。


「ええ、怪我ひとつありません。お気遣い感謝いたします」


 お玉は「良かったわ」と微笑んだ。人好きのする笑顔だ。普段は鉄皮面の梅沢男爵もお玉の笑顔に釣られて微笑み返していた。

 その時、梅沢男爵はふとある事に気が付いた。


「おや、君、どこかで見た顔だと思ったら、あの時のミルクホールの近くで」

「あっ!」


 お玉もはっとした。思い出したのだ。彼はあの時、泥棒を捕まえた軍服の男だ。鍛えられた強靭な身体、オオカミのような容貌。


「驚きました。再びお会いできるとは……」


 男はポケットから何やら取り出す。それは瑠璃色の蜻蛉玉(とんぼだま)の付いた(かんざし)だった。


「……それ」


 もう手元には戻ってこないと思っていた簪。瑠璃色の蜻蛉玉がきらきら煌いている。


「貴女の物でしょ」


 お玉は頭を激しく上下に振った。無作法な態度だが、感激のあまり声が出てこなかったのだ。


「よかった。さあ挿してあげます」


 男はお玉の髪にそっと簪を挿す。

 真っ赤な薔薇の代わりに、瑠璃色の蜻蛉玉の簪。


「さて、これで何処からどう見ても深層のご令嬢です。中身はどうかわかりませんけどね」


 正義がニヤッと笑った。


「えっ!?」


 ――中身はどうかわかりませんけどね

 お玉はその言葉に、ドキッとした。


(わたしが本当は工女だってばれたの!?)


 不安で鼓動が激しく脈打つ。

 お玉の正体がばれて一番困るのは愛染だ。


「よかったらお名前を――あっ! お嬢さん!?」


 お玉は駆け出していた。背中に呼びかけられる声を振り切るように無我夢中で走った。

 何処をどう走ったかはあまり覚えていない。気がづいた時には、パーティーの喧噪の中にいた。

 ピアノにヴァイオリンの演奏で優雅に踊る人々。

 舶来品のドレスで着飾った淑女、タキシードを着た紳士。誰も彼もが、お玉を見透かしているような気がしてきた。

 人々の視線が怖い。

 不安でたまらなくなる。

 呼吸が浅く、早くなる。

 ぐるぐる地面が周り始めた。

 気持ち悪い、吐きそう。


「――お玉!」


 不意に、誰かがお玉の手首を掴んだ。あの男が追いかけてきた?


「ひっ!!」


 お玉が戦きながら振り向いた。しかし、そこに立っていたのは愛染だった。


「お玉、何処に行っていたんだ?」


 愛染は、むっつりと訊いた。


「……あ、愛染様?」


 お玉は愛染の顔を見ただけで不安がゆるみ、足の力がへなへなと抜けた。


「おい、お玉!?」


 愛染がお玉の体を支えると、必然的に二人は抱き合うような格好になる。

 二人にチラチラと投げられる視線。

 いくら男女の織りなすダンス会場のど真ん中でも、抱き合ったまま動かない二人は目立つ。しかも一方は、かの“吸血鬼伯爵”だ。

 好奇心と羨望、嫉妬の眼差しが二人に突き刺さる。


「お二人さん。ダンスホールの真っただ中で抱き合ったまま突っ立っていたら、余計に目立つよ」


 雪乃丞が妹の彰子のパートナーを務め、踊りながら愛染とお玉に近づいてきた。


「早く踊れよ。このままじゃ君らは注目を集めるだけだぞ」


 たしかに、雪乃丞の言うとおりだ。愛染はサッと辺りを見渡した。円舞曲(ワルツ)を踊りながら、誰もが興味津々でこちらをうかがっている。


「……まったく、面倒くさい」


 愛染は口の中で悪態をつくと、左手をお玉の背中に回し、曲に合わせるように踊り始めた。


「お玉、背筋を伸ばせ、頭を上げろ」

「え、あ、っと」


 愛染はお玉を上手くリードしていく。彼がこんなにもダンスが上手いとは驚きだ。

 お玉は愛染の白い手袋に包まれた大きな手を握り、彼のリードに身を任せた。愛染の逞しい腕に包み込まれていると、守られていると感じて安心できる。


「お似合いだよ、二人とも」


 雪乃丞が傍を踊りながら、愛染に向かって片目を瞑った。


「気持ち悪いことをするな」


 愛染は今にも砂を吐きそうな顔だ。雪乃丞は喉の奥でクックと笑う。


「愛染が女性をエスコートして踊る日が来るとは思いもよらなかったよ。“娘を嫁がせたい男”に名乗り出たようなものだな、適齢期の娘を持った母親が肉食獣の目でお前を見ているぞ」

「止めてくれ、ライオンの檻に入れられた肉料理(ヴィアンドゥ)の気分だ」

「愛染の弱点は、ニンニクでも十字架でもない。適齢期の娘を持った母親だな」


 雪乃丞の言葉に愛染はゾッとした。女は今、腕の中に居る一人で十分だ。愛染が見下ろすと、お玉は頬を薔薇色に染めて愛染を見つめていた。愛染はその唇に口づけを落したくなるのをこらえると、口角を上げて小さく微笑んだ。


 美貌の“吸血鬼伯爵”と、幸せそうに頬を薔薇色に染めた乙女の円舞曲(ワルツ)は、人々に羨望と絶賛の眼差しで温かく迎え入れられた。


 ※


「ここが帝国劇場……」


 翌日、お玉は帝国劇場に居た。

 明治四十四年に開業した帝国劇場。ルネッサンス様式の白亜の殿堂は“今日は帝劇、明日は三越”と謳われるほど、大正文化の華であった。

 シャンデリアに照らされたロビーに、大理石の柱、内装は金に統一され、天井画として天女が羽衣をまとって昇天する場面が描かれている。まさに、非現実的な空間だ。

 どこもかしこも煌びやかで目がチカチカする。


「あまりキョロキョロするな」


 愛染の声が近くから降ってきた。愛染は相変わらず憮然とした態度ながら、舶来品のドレスを着たお玉をエスコートする。

 ハイヒールとコルセット、乳バンドなるものは拷問具だと思う。お玉は着慣れないドレスに四苦八苦しながら席に座った。


「伯爵様」


 横から鼻にかかった甘い声が聞こえ、彰子が愛染の横から姿を現した。丹念に施された化粧、舶来品の上品なドレス、複雑に結い上げた束髪(そくはつ)は芸術といえよう。優雅な物腰の彰子は癇癪(ヒステリー)さえ起こさなければ艶やかで麗しい令嬢なのだ。

 愛染と彰子は傍目から見ると、似合いの男女に見える。それは帝国劇場に来ていたほかの客の目にもそのように映った。


「ご婚約間近」

「伯爵家と男爵家でよりよい結びつき」

「家柄も申し分ない」


 そんな噂話がお玉の耳に届く。噂のほとんどは子爵が根回ししたモノだが、そんな事、お玉が知る由もない。

 愛染と彰子は本当に結婚するのだろうか。胸がモヤモヤしてせっかくのオペラも楽しめない。


(彰子様と結婚なんてしないで欲しい)


 お玉はぐっと気持ちを抑えた。

 雲の上の存在である華族同士の結婚話に、元工女がしゃしゃり出るだなんておこがましいにもほどがある。士農工商が撤廃され自由恋愛を謳われる世の中でも身分や差別は消えない。

 悩んでいるうちにオペラも終わってしまった。

 滅入った気分のまま人の波に乗って帝国劇場から出ようとすると、呼び止められるような男性の声が聞こえた。お玉は顔を上げて辺りを見渡すと、そこに見覚えのある顔を見つけた。


「――あっ」


 オオカミのような精悍な顔つきをした男、梅沢正義だ。


「奇遇ですね、お嬢さん。二度あることは三度あるとはこの事だ」


 一度目は強盗事件。二度目は二階から転落事件。三度目は帝国劇場。天からの采配(さいはい)のように二人は偶然に偶然を重ねている。


「あ、あの、その」


 偶然の再会にお玉は慌てた。出来ることなら二度と会いたくないと思っていた人物なのだから。


「大丈夫ですよ。親御さんには強盗を追いかけたとか、二階から飛び降りたなどとお転婆ぶりを報告するつもりはありませんから」

「え?」


 梅沢男爵は、ひどく狼狽(うろた)えるお玉を見て勘違いしたようだ。


「華族のご令嬢は結婚に命をかけていますからね。お転婆だとばれたら貰い手がいなくなるでしょ」


 梅沢男爵は辺りに視線を走らせ、共犯者と話すかのように声を落とした。


「男でも強盗を追いかけるなんて豪傑はあまりお見かけしませんよ。見かけは淑やかなご令嬢だが、中身はとんだじゃじゃ馬だ」


 梅沢男爵の言葉を、お玉はゆっくり租借した。じゃじゃ馬……。そう、中身がじゃじゃ馬だと言った。

 

 ――中身はどうかわかりませんけどね。


 昨夜の梅沢男爵の言葉が蘇る。

 梅沢男爵は淑やかに装うお玉の中身を“じゃじゃ馬”だと言いたかったのだ。


(……じゃあ、私が工女だとばれているわけではなかったのね)


 安堵と同時に勘違いしていた自分が恥ずかしくなる。顔が赤らむのを感じた。


「あ、あの、私、何度も助けて頂いたのに、きちんとお礼をしていませんでした」


 お玉は勢いよく、ぺこりっと頭を下げた。


「貴女が元気そうで何よりです。こちらもじゃじゃ馬だなんて失言でした。しかし私は小鳥のような小食の淑女たちはどうも苦手でして、お嬢さんのように元気いっぱいのお転婆娘の方が好ましいと思いますよ」


 梅沢男爵はオオカミのような精悍な顔を綻ばせた。笑った顔は意外と可愛らしく見える。


「では、改めまして自己紹介を。私の名前は、梅沢正義。しがない軍人ですよ」


 そう言って握手を求めた梅沢男爵の手は、大きくて日に焼けていてごつごつしていた。正装しているときには白い手袋をはめるのだが、彼はそういった物が嫌いなのだ。


「どうです、お嬢さん。今度、動物園でもご一緒に――」

「駄目だ」


 にべもしゃしゃりもない愛染の声が、お玉と梅沢男爵の間に割って入ってきた。握手していたお玉の手を愛染がもぎ取り痛いほど握りしめる。


「伯爵様!」


 お玉は驚いて、振り向いた。


「……松平伯爵」


 お玉の頭上で愛染と梅沢男爵が睨み合う。一種、異様な雰囲気があたりを包み込んだ。恐ろしいほど張りつめたこう着状態。先に動いたのは愛染だった。

 

「行くぞ、お玉」


 愛染はお玉の手首を痛いほど掴み、賑わう帝国劇場を足早に後にした。有無を言わせず自動車の後部座席にお玉を乱暴に押し込み、愛染もすぐに乗り込んできた。


「愛染様?」


 愛染の長身がお玉に覆いかぶさる。お玉は自動車の隅っこに追いやられて縮こまった。


「いいな、他の男を触るな! しゃべるな! 目を合わせるな!」

「でもっ」

「言い訳は聞かない」


 愛染は頭ごなしに言うと、腕を組み前方を睨んだ。声をかける雰囲気ではない。お玉は開きかけた口をつぐんだ。

 愛染の執着心がますます酷くなっていく。それはすでに妄執と言ってもいいほどだ。

 

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