ヴィアンドゥと薔薇色の円舞曲 ―1―
――ついに、その日が来た。
竹光子爵の夜会。淑女となったお玉のお披露目の日だ。
「さあ、お玉さん。仕上げにこの扇子をお持ちになって」
蝶子が最後の仕上げに、朱い房の付いた振袖用の金蒔絵扇子を渡すと、お玉の頭から足の先まで眺めた。
庇髪にはビロードのリボン。紅玉をあしらった半襟に、牡丹柄の深紅の振袖、吉祥模様の丸帯を締めて、紫水晶と金で出来た葡萄型の帯留を付けている。陶器のように白い肌に赤い口紅が良く映え、日本人形のような楚々(そそ)とした美しさだ。
どこからどう見ても大正浪漫の完璧な淑女に見える。元工女だと誰も気づきはしないだろう。
「完璧ですわ」
蝶子が太鼓判を押した。その横に控える家政婦の千代も頷いている。普段は手厳しい千代と蝶子に太鼓判を貰えると、恥ずかしいような嬉しいような、こそばゆい気持ちで一杯だ。
お玉は背筋を伸ばして奥ゆかしく微笑んで見せた。その様子に蝶子は目を細める。強盗事件以来、お玉は人が変わったように稽古の失敗が少なくなったのだった。おっちょこちょいのお玉が鳴りを潜めた事に、いくばくか残念だと感じたのは自分だけではない、と蝶子は確信していた。
「さあ、お玉さん。皆さんがお待ちですわ。下へ参りましょう」
蝶子はお玉の前に手を差し出した。その手にお玉の手が重ねられる。
下の階では愛染達が待っている。お玉の緊張がより一層高まった。手足が冷たくなり、お腹に力が入らない。しかし、今日は失敗が許されない日だ。
お玉はゆっくり優雅に歩いた。足の先から頭のてっぺんまで、そして指の先まで美しく見えるように気を配る。視線は控えめに伏し目がちで、たおやかさを演出。
静々(しずしず)と階段を降りていくお玉を待っていたのは、雪乃丞の賛美の声だった。
「すごい、この子が本当にあの小汚い野良猫ちゃんかい!?」
フロックコートを着た雪乃丞が、驚嘆している。
「本当に吃驚したよ。見違えるほど、美人になったね、お玉ちゃん」
お玉は小さく微笑んでから、頭を軽く下げて会釈した。そのようすに雪乃丞は満足そうに微笑んでいる。
「お玉様、本当に美しくなられて」
と、執事が涙ぐみ。
「僕の健康メニューが良かったんだよ」
と、嬉しそうにはしゃぐシェフ。
「コレを髪に挿していきな」
と、丹精込めて育てた美しい深紅の薔薇を差し出した庭師。
蝶子も家政婦もみんなが一様に、喜々とお玉の変貌ぶりを絶賛している。ひとりを除いて。
「愛染」
雪乃丞が愛染の脇を突いた。愛染は金の懐中時計を持ったまま、唖然とお玉を見つめている。金髪を後ろに撫でつけ、長身にフィットした正装姿の愛染は息を飲むほどの美男子だ。
「……ん? ああ、準備が出来たら出発だ」
愛染は懐中時計を内ポケットにしまい、颯爽と歩き出した。
雪乃丞が呆れたように肩をすくめると、野暮天、と愛染の背中に向かって呟いた。
※
夜会は雪乃丞の父親、竹光子爵の還暦を祝うパーティーだけあって。名だたる華族の揃い踏みだ。屋敷の前には客人たちの乗ってきた自動車や人力車、馬車が停まっている。
「これは、これは、松平伯爵! よくいらして下さった」
主人の竹光子爵が、紋付袴で愛染を出迎える。その横には日本髪を結ったあだっぽい若妻、夢乃。めったに夜会に現れない愛染が姿を現したので子爵は大いに喜んだ。
「そちらのお方は?」
お玉に視線を向けた夢乃が尋ねてきた。
「愛染の祖母方のいとこ殿だよ。わけあって愛染が後見人なんだ」
愛染の代わりに、雪乃丞が答える。もちろん前もって用意していた建前だ。元工女が竹光子爵の夜会に潜入した事が発覚すれば、何らかの刑罰を覚悟しなければならないだろう。もちろん愛染や雪乃丞にも火の粉が及ぶ。
「雪乃丞! お前はいったいどこに居たんだ!?」
子爵が顔をしかめる。本来なら子爵の跡継ぎとして賓客を迎える立場の雪乃丞が客と一緒に現れるとは前代未聞。ますます放蕩息子として、ひんしゅくを買う。
「まあまあ、せっかく愛染を連れてきたのに、そう怒らないで下さい。父上」
せっかく、を強調する雪乃丞。確かに夜会嫌いの愛染を連れてきた功績は褒められるモノだ。しかも、大勢の客の手前、おおっぴらに叱るわけにはいかない。
「舌だけは器用に回る息子だ。さっさと他のお客様に挨拶回りしてこい、でないと――」
そこまで言うと、子爵は相好を崩し、夢乃の腹を愛おしそうに撫でる。
「この子に家督を継がせるかもしれんぞ」
家督を継ぐことが出来るのは男子のみ。お腹の子供が男どうか決まったわけではない。それなのに、子爵も夢乃も、お腹の子は男だと思い込んでいるようだ。少し薄気味悪い。胡散臭い事を企んでいなければいいのだが、と雪乃丞は危惧した。
「では、私はお客様に挨拶回りに行ってきます。愛染、お玉ちゃん、また後で会おう」
雪乃丞は飄々と笑うと、お玉に片目を瞑ってみせた。頑張れ、彼なりの応援の旨を伝えてきたのだろう。お玉はそんな心使いが嬉しかった。
「まったく、出来損ないの息子で困ります。――して、お嬢さん、お名前をお訊きしてよろしいでしょうか?」
雪乃丞がその場を去ると、早速お玉に声がかけられた。
「お初におめもじいたします。わたくし松平伯爵のいとこにあたり、名を玉子と申します。ふつつか者でございますが、どうぞよろしくお願いいたします」
ゆっくり丁寧な挨拶。名前が“玉”では庶民的すぎるため、あえて“玉子”と名乗った。華族の子女には『子』を名前につけることが義務付けられていたからだ。
子爵は髭をいじりながら「うむ」と満足げに頷いた。
「玉子様。今日はゆっくりしていらして下さいまし」
そう言った夢乃の目が異様にギラついていたのを、お玉は見逃さなかった。欲望をむき出しのその瞳にお玉は恐怖すら覚えた。
お玉はエスコートする愛染の腕にしっかりつかまり震える身体を鼓舞して、背筋を伸ばして歩いた。
愛染の手が、お玉の手を強く握る。大丈夫。その握り締めた手がそう語っているように感じられた。
――幕は開けた。喜劇となるか、はたまた悲劇となるか。
※
和洋折衷を好む竹光子爵のパーティーはまるで万国博覧会のようだ。提灯にダンスホール、和装の人物も居れば、洋装の人物も居る。それぞれ和気藹々(わきあいあい)と贅を尽くしたパーティーを楽しんでいるようだ。
その中でも愛染の正装姿は抜きん出て輝いて見えた。周りの人物より頭ひとつ高い長身に、ここに居る誰よりも美しい顔立ち。ご婦人方が垂涎の眼差しを向けている。
お玉はそんな愛染の傍で、奥ゆかしく微笑んでいた。誰もが「あのご令嬢はどなただ?」と噂しているのが愛染の耳にも入ってくる。
そう、今のお玉は愛染が拾ってきた小汚い野良猫ではない。お玉は立派な淑女に見える。愛染は誇らしい想いでお玉に微笑みかけた。周りで淑女たちが薔薇色のため息を零していたことには野暮天の愛染は気づくはずもない。
計画は成功したかのように思われた。
しかし、そう簡単にいかないのが世の常である。
「伯爵様、楽しんでおられますかな」
子爵がご自慢の髭をいじりながら、愛染の元に近づいてきた。その横には子爵夫人夢乃と子爵令嬢彰子が居る。
彰子はマアガレットという髪型に舶来品のドレスを着て、優雅に微笑んでいた。その目はしっかりと愛染を捉えている。
「今日は伯爵様のために、葡萄酒を用意させてもらった」
子爵の言葉を合図に、給仕人が姿を見せる。その手には細身のシャンパングラスに入った薔薇色のシャンパーニュ。煌びやかに立ち昇る泡は真珠の首飾りにも称えられるほど、 繊細で美しい。
「ロゼシャンパンか」
愛染が興味深そうに呟く。
「美しい色だと思いませんかな。薔薇とは。そちらのお嬢さんが頭に挿している薔薇のようだ」
子爵の視線がお玉に移る。目踏みするような視線だ。
「こちらのお嬢さんは、玉子殿と申されたな」
お玉は唾をごくりと飲み込むと、何度も繰り返した台詞を心を込めて口にした。ここで失敗は許されない。淑やかに、奥ゆかしく。
「はい、子爵様。この度はお招き頂きありがとうございます。謹んで還暦のお祝いを申し上げますと共に、益々のご健勝、ご活躍をお祈りいたします」
子爵が、うむと満足そうに髭をいじると、お玉はほっと胸を撫で下ろした。
「玉子殿は帝国劇場などいかれましたかな?」
「いいえ」
帝国劇場、浅草オペラなど華々しい世界は、女工であったお玉にはとんと縁のない世界だ。
「それはいかん、明日に是非行くべきだ」
「明日?」
それはまた急なお話だ。お玉は驚きを隠しきれなかった。
「明日は彰子と雪乃丞が行く予定になっておってな。いい機会だ、一緒に行きなさい」
それは、命令とも言えるお誘い。子爵は未だに娘の彰子を伯爵に嫁がせる事を諦めていない。体よく愛染と彰子のお膳だけをしたのだった。詰まる所、お玉をダシに使ったのだ。
そんな計略にお玉は気がつくことはなく、華やかな世界に胸を躍らせていた。
「さあ、せっかくのロゼだ。玉子殿も飲みたまえ」
子爵の言葉を合図に、夢乃が給仕人からグラスを受けとり、お玉の前に差し出した。断るのは失礼なので、お玉は進められるままにグラスに手を伸ばす。
「――あっ!」
お玉がグラスを受け取るより早く夢乃の手がグラスから離れ、中身がお玉の着物にかかった。
「まあ、大変! すぐに拭かなくては。伯爵様、玉子様をお化粧室にお連れいたしますわ」
夢乃は何度も謝りながら、お玉の手を優しく引き、人並みから離れていった。人気が少なくなるにつれ、お玉の柔肌に夢乃の爪が食い込んでくる。痛くて耐えられなくなった時、夢乃は重厚な扉を開き、お玉の背中を勢いよく押して誰も居ない静かな部屋に押し込んだ。
お玉は押された勢いで、部屋に転がり込んだ。何事かと振り向くと、夢乃が後ろ手で扉を閉めている。その顔は残忍な笑みが浮かんでいた。
「あなた、伯爵様とはどこまで進んでいるの?」
突如、貞淑な妻から悪女へと豹変した夢乃がせせら笑う。
「……ススム?」
お玉は夢乃の豹変振りにたじろいだ。まるで狐にでもつままれているような気分だ。
「嫌ね、純情ぶっちゃって。あなた、あの妖艶な吸血鬼の糧でしょ」
「吸血鬼?」
「血肉を啜る、美しき西洋の鬼」
夢乃は舌で唇をチロッと舐めた。その蛇のような真っ赤な舌にお玉の背筋が冷たくなる。
「わたくしもあの方に味わっていただきたいわ。……嗚呼、あの方に壊れるほど抱きしめてもらいたい」
身悶えし、恍惚な表情を浮かべ切なげな吐息を漏らす夢乃。お玉は異様な光景に後ずさりした。
「そ、そんなの不謹慎です。伯爵様は立派な紳士です。あなたは人妻でありながらなんと、なんと……」
お玉は顔を真っ赤に染めて言葉に詰まった、その後を夢乃が次ぐ。
「いやらしい、淫ら、背徳的。ふふふ、そそる言葉だわ。わたくしはこの身体ひとつでここまでのし上がってきたの。伯爵様だって一人の男、わたくしの身体には抗いきれないわ」
艶冶に微笑む夢乃にお玉はカチンときた。愛染様はそんなお方じゃない! 高潔なお人だわ。お玉は夢乃を睨みつけた。
「いかがわしいです。子爵夫人ともあろうお方が――」
お玉の言葉は、夢乃の盛大な溜息で遮られた。
夢乃は「話にならない」とぞんざいに左手を振る。
「まったく、どうやら貴女は馬鹿なおぼこのようね。大人の世界を教えてあげるわ。――入ってらっしゃい」
夢乃が扉に向かって声をかけたと思ったら、部屋の中に書生姿の男が入ってきた。見たこともない顔だ。痩身長躯、やつれた頬、黄ばんだ目は虚ろに宙を泳いでいる。不健康そうな若い男は、健康を害する前はさぞ美男子だったであろうと思う面影を残していた。
男は遠慮なしに夢乃を抱きしめ、熱い抱擁と接吻を交わす。淫靡な空気にお玉は嫌な汗をかく。これは姦通罪だ。
「わ、私このことを子爵様にお伝えします」
「あっはっはっは、馬鹿な小娘だこと。子爵様が貞淑な妻を演じる私と今日会ったばかりの小娘、どちらを信じると思うの?」
夢乃がほくそ笑み“もちろん私よ”と狡猾な蛇のように囁く。
お玉は悔しくて、唇を噛んだ。子爵に見たことすべてを暴露しても、証拠がないため信じてはもらえないだろう。
「ねえ、ケツの青いお嬢ちゃん。人を脅すときはもっと賢くしなきゃ」
雪乃は男の顔をお玉に向けさせた。
「あの小娘を手籠めにしておしまい。ただし、顔に傷を作らないでちょうだい」
男は命令通りに動く人形のように、お玉の顔を見つめた。
「お嬢ちゃん。凌辱されたことが世間にばれたらどうなると思う? 世間は女に厳しいですもの、隙を作った貴女が悪いと言うでしょうね」
夢乃は手櫛で鬢を整えると、奥ゆかしい妻の微笑を張り付かせた。
「これで秘密を分かち合う同志だわ。わたくしも黙っておいてあげるから、貴女も子爵様を脅そうなんて努々考えないことね」
それだけ言うと、夢乃は部屋の扉が閉め外から錠を下ろしたため、お玉は男と対峙せねばならなくなった。その男はあまりに生気がなく、幽霊のように不気味だ。なぜ、夢乃はこんな事をするのだろう。わけが分からない。
「止めて、お願い、こっちに来ないで」
男がじりじりとお玉に近づいてくる。この男に何を言っても無駄だ。まるで聞く耳を持たない。
出口はひとつ。窓だけだ。しかし、ここは二階の部屋。骨折覚悟で飛び降りなければならない。
「……」
男は次第に近づいてくる。もう迷っている暇はない。
「田舎育ちを舐めないでちょうだい!」
お玉は手近にあった花瓶を男めがけて投げつけた。男は今にも折れそうなたおやかな淑女に歯向かわれることなど想定してなかったのだろう。その隙にお玉は窓にめがけて走り出す。男も逃がすものかと手を伸ばした。
「神様、お助け下さい」
お玉は躊躇することなく、窓から飛び降りた。男の伸ばした手には、お玉の髪に挿された薔薇が虚しく握り締められていた。