ポワソン咥えた野良猫 ―3―
『ポワソン咥えた野良猫』
「コレはどういうことだ」
愛染は美しい顔をしかめた。
目の前のお玉は、近所の子供と喧嘩でもしてきたかのような恰好だったからだ。
服は泥だらけ、髪は乱れ、手のひらには擦り傷をこさえている。
さらに愛染の目を引いたのは、お玉の腰まで届く長い黒髪だった。伯爵邸に来た頃は不衛生と不摂生で酷く傷んでいたが、ここ最近、流れるような美しさに戻っていた。
その髪が、頬の辺りからひと房ほど、ばっさり切れている。
――黒髪は女の命。
その美しい黒髪を自分の指に絡めたいと、何度となく思い描いたか。
「伯爵様、お玉さんを叱らないでやって下さいまし。短くなってしまった所は髢を使って――」
「何故、髪を切ってしまったのだ?」
固く冷たい声。愛染の押し殺した怒りが蝶子の肌を刺す。身も凍る思いだ。
「それは……」
蝶子から事のあらましを聞き、愛染は寒気と同時に怒りを覚えた。もし、助けが来なかったらお玉はどうなっていただろう。その泥棒に凌辱されていたかもしれないのだ。想像するだけで悪寒が走る。
「お玉、お前はなんと愚かで浅はかなのだ」
愛染の奥歯を噛みしめたような低い声に、お玉は肩を落とした。
「申し訳ありません。高価なお召し物を汚してしまって……」
「そういう事ではない!」
お玉の的外れな謝罪に、愛染の怒りが火を噴いた。服の事などどうでもいい。洗えば良いのだから。自分の命が危険にさらされたのに、お玉は服の事ばかり心配している。
「お前は自ら危険に首を突っ込み、周りに迷惑を掛け、あまつさえ殺されかけたのだぞ! 自覚が足りない」
愛染の怒りは収まらない。お玉はさらに肩を落として、身を縮めた。
「伯爵様、お玉さんは――」
「蝶子、お前も何をしていた、なぜお玉を見張っていない。なぜ一人にした」
お玉を庇おうとした蝶子に愛染の怒りが向く。愛染の鋭い眼光に睨まれ、蝶子の背筋に冷たい汗が伝い落ちる。凍てつくような藍色の瞳は、まさに人を凍らせる威力がありそうだ。
「だいたい、淑女の稽古の度にお玉に傷が増えるのは何故だ?」
「え? あ、それは……」
蝶子がたじろいだ。
釜の湯で火傷をしたり、お裁縫針で指をさしたり、鋏で指を切ったりと、お玉は淑女レッスン中に数えきれないほどの怪我をしてきた。それは偏にお玉のドジな性格が元であって……。蝶子は答えに窮した。
「そ、それはですね……」
このままだと、蝶子が辞めさせられる。そう感じたお玉は蝶子を庇うように彼女の前に躍り出た。
「蝶子さんは、悪ぐありません! 怪我は私がドジだがらです。泥棒を追いかげたのも私です」
「いえ、お玉さん。あの時、わたくしがお玉さんんを一人にすべきではなかったのです。ミルクホールになんて寄らなければよかった」
「いいえ、私が勝手に追いかげたのです。蝶子さんには何の責任もありません」
「お待ちくださいお玉さん、そもそもわたくしが――」
愛染の目の前で繰り広げられる美しい庇い合い。こうなってくると愛染ひとり、悪者のようである。
「二人ともいい加減にしろ」
愛染は、手を取り合う蝶子とお玉を見て腹が立った。この二人はいつの間にこんなに仲良くなったのだろう。お玉の一番は自分ではなかったのではないか? その感情がまるで子供みたいだと感じ、さらに怒りが募る。
「お玉」
「は、はい」
愛染はお玉を見据えてゆっくりと口を開いた。
「――お前には失望した」
その言葉を言い放つと、愛染は踵を返して部屋から去って行った。
※
――失望した。
愛染の言葉はお玉を奈落の底に突き落としていた。愛染に見限られたら、お玉は終わりだ。そう、終わり。涙さえ出てこない。
愛染に不必要な自分は、この伯爵邸を去るべきなのだろ。でも、どうしたらいい、何処に行ったらいいのだろう。行くところなんて何処にもない。
「……お玉さん」
蝶子の手がお玉の背中に添えられる。
「きっと、伯爵様は心配のあまり失言をしてしまったのですわ」
違う。とお玉は思った。ここ最近ずっと避けられていたし、今日の事件でついに見限られたのだ。泥棒を追いかける大和撫子なんて何処を探してもいないはずだ。
「……お玉さん、明日になれば伯爵様のお怒りも解けますわ」
お玉は泣き出しそうな顔で笑った。明日は来るのだろうか? 今晩中に荷物をまとめて出て行けと言われるのではないだろうか。いや、そうなる前に出て行こう。愛染様を煩わせる必要などない。
(そうだ、雪乃丞様の所へ行ごう。下働きか何かに雇ってもらえるがもしれない)
そう決めたお玉は、部屋に戻り外出着の錦紗の着物から、普段着の銘仙の着物に着替えた。髪をおろし、右肩にかけて櫛で丁寧に梳く。
開け放たれた窓から花の甘い香りが風に乗って漂ってくる。どこかで紫丁香花が咲いているのだろう。
「お玉、ここに居たのか」
突然の愛染の声に、お玉は肩をびくっと揺らした。出て行けと通告しに来たのだろうか。お玉は恐ろしくなり、愛染の顔を見ることが出来なくて顔を伏せた。
「お玉?」
先ほどより、ずっと近くで聞こえる愛染の深い声。俯いたお玉の視界に愛染のよく磨かれた革の靴が入ってきた。
「お玉、こっちを見ろ。私を見るんだ」
愛染はお玉の顎を掴むと、無理矢理顔を仰向かせた。藍色の瞳と黒い瞳がぶつかる。
窓から差し込む夕日が愛染の黄金色の髪を染め上げ、瑠璃の宝石のような瞳が鮮やかに光る。彫りが深く整い過ぎた顔立ち。見ているだけで心を奪われそうだ。お玉は胸が痛くなって、サッと顔をそむけた。
愛染はお玉に視線を外され、かっとなった。
「お玉、私を見ろ!」
愛染はお玉の視線を逃さないように、顔を両手で挟み込み、覆いかぶさるようにして目と目を合わせた。
お玉の驚愕に見開いた目が、みるみる涙で潤む。
「あ、愛染様、ご、ごめんなさい」
堪え切れずお玉の涙が零れ落ちる。
「い、今すぐ、で、出て行きます。愛染様を、わ、煩わせたりいたしません」
お玉の涙が堰を切ったように流れ始めた。涙は愛染の大きな手も濡らしていく。
「どういうことだ?」
愛染はお玉の意図が掴めなかった。
「わ、私は、雪乃丞様のお屋敷に、行きます。もう、愛染様に、ご迷惑は――」
「雪だと!?」
愛染はお玉の口から雪乃丞の名前が出ただけで、お腹を殴られたような衝撃を受けた。
「はい、私は――」
「ダメだ!」
「え?」
「お前を他の男の所に行かせる気はない」
「でも――」
「聞くんだ!」
愛染はお玉の顔に鼻がくっつきそうになるくらい顔を近づけた。
「お前は何処にも行かない、行かせない。屋根裏部屋に監禁してでも何処にも行かせはしない」
愛染の瞳が剣呑に光る。お玉がどんなに嫌がろうとも手放す気にはならない。
「でも、愛染様は、私に、し、失望したと……」
「だから出ていくつもりだったのか? 雪のところに?」
「他に、行ぐところ、思いつがなくて……」
愛染はこの時、ようやく合点がいった。お玉は愛染に見限られた思い込み、伯爵邸から追い出されるのだと勘違いしているのだと。
馬鹿者め! 愛染はお玉を抱きしめた。栄養不足で小柄で華奢な身体は、愛染の身体にすっぽりと包まれる。
「阿呆、お前の早とちりだ。追い出すつもりなど毛頭ない」
愛染はお玉の頭に顎を乗せ、溜息を落とした。
「は、早とちり、ですか?」
「ああ、そうだ」
愛染はお玉の背中をゆっくりとなでてやり、黒髪を指で梳いた。愛染はお玉の黒髪を持て遊び指に絡ませ、その甘い香りを吸い込んだ。
「私、愛染様の望まれるような淑女になるべく、もっともっと努力します。だから――」
だから、傍に居てもいいですか? お玉はその言葉を飲み込んだ。自分の内にある気持ちに気づいてしまったからだ。
――恋。
決して報われない想い。伝えてはいけない想い。
(元女工の田舎娘に慕われても、伯爵である愛染様はいい迷惑だわ)
愛染は雲の上の人。これ以上、負担をかけたくない。だから決してこの想いは口にしない。
紫丁香花の香が仄かに部屋に漂う。純真な初恋の香りが……。