ポワソン咥えた野良猫 ―2―
「お玉さん、どうされたの?」
「え?」
お玉は朝食のパンをちぎる手を止め、蝶子を見た。相変わらず化粧をばっちりと決めたモダンガール蝶子は、朝日を浴びて活力に満ちている。
朝食の席にはお玉と蝶子しか居ない。白いテーブルクロスの上には焼きたてのパンに苺ジャム、珈琲にバナナと庶民はなかなか手が出せない贅沢な食事だ。しかし、お玉の食が進まない。
「なんだか元気がないようですわ」
「そ、そうですか?」
見透かされたことに内心ドキッとしながら、お玉は笑顔を取り繕う。
「何か悩み事?」
蝶子には隠し事が出来ない。というより、お玉の表情が雄弁なのだ。蝶子の聡い視線にお玉も観念し、ゆっくり口を開く。
「……最近、あ、伯爵様が私を避けておられる気がして」
お玉は愛染様と言いかけて伯爵様と言い直した。人前では伯爵様と呼ぶようにしているのだ。その愛染はここ二、三日お玉と目を合わせようともしない。
「私があまりにもドジで、飽きられてしまったのかもしれませんね……」
自分で言っても泣きたくなる台詞だ。
お玉の淑女レッスンは始まったばかり。まだまだ大和撫子と言うには程遠い。それどころか、ありえないような失態の数々に、愛染も早々と見切りをつけしまったのかもしれない。そう考えるとお玉はがっくりと肩を落とした。期待に応えようとすればするほど、焦って上手くいかない。まさに悪循環。
「お玉さん……」
なるほど、と蝶子は一人で納得した。
お玉は淑女レッスンに心血を注いでいる。周りからかけられる期待に応えたいがため、知らず、知らず肩に力が入り過ぎているのだ。肩の力を抜く必要がある。そこで蝶子は一つ提案してみることにしてみた。
「ねえ、お玉さん。今日はレッスンをお休みして。気晴らしに少しお出かけしてみませんこと?」
「お出かけ、ですか?」
「ええ、そうと決まれば早速出発ですわ!」
蝶子はナプキンで口元を拭くと、にっこり笑って立ち上がった。
「ま、待って下さい!」
お玉はパンを口に詰め込むと急いで蝶子の後を追った。
※
「やっぱりお買い物は“三越”ですわよね」
白煉瓦で造られたルネッサンス式鉄筋五階、地下一階建てのデパートメントストア“三越”。全館暖房、日本初のエスカレーターが設置されるなど時代の最先端を行く高級デパート。
日本髪の女性たちや、羽織袴の男性たち、モダンガールにモダンボーイが行き交い、陳列棚には美しい着物はもちろん、紳士服に子供服、舶来品のバッグや煌びやかな貴金属各種、靴に帽子に髪飾り、硝子瓶に入った化粧品、文房具に懐中時計などなど。まるで万華鏡のようにキラキラと艶やかだ。
「お玉さん、お口」
蝶子の指摘に、お玉はぽかんと開けていた口を急いで閉じた。
「あら、ありましたわ」
蝶子は目当ての物を見つけると、嬉々とお玉の手を引いた。
「お玉さん、このパラソルがよろしくなくて? 小さくてお玉さんに似合いますわ」
蝶子は白いレースの日傘を手に取った。お洒落好きな蝶子の顔が嬉々とほころぶ。
「傘、ですか? 雨は降っていませんよ」
今日は見事な晴天だ。傘など必要ないだろうにと、お玉は首を傾げた。お玉の言葉に蝶子は鈴を鳴らしたようにコロコロと笑う。
「そうね。でもこの傘は天気のいい時に使うものなのよ」
「傘、なのにですか?」
「ええ、そうですわ。傘は淑女にとってお洒落の小道具ですもの」
「小道具?」
「ええ、素敵でしょ」
蝶子は傘を開いて肩に乗せてくるくる回した。若草色のワンピースに白いレースの傘が良く似合う。
「ふふ、もっと他の物も見てみます? あら、こちらの刺しゅう入りのパラソルも素敵だわ、この黒いレースのパラソルは取っ手が琥珀だわ。まあ、見て下さいましお玉さん。このモダンなパラソル、ああ、目移りしてしまいますわ」
「ちょ、蝶子さん」
蝶子は水を得た魚のように活き活きと傘選びに没頭する。そんな蝶子をしり目に、お玉の目にひとつの商品が飛び込んできた。
――瑠璃色の蜻蛉玉。
透き通ったギヤマンの蜻蛉玉をあしらった簪だ。お玉の目に留まったのはその色。
(愛染様の瞳の色みたい)
深く透き通った瑠璃色。愛染の目の色を彷彿させる澄んだ藍色。
「……奇麗」
「あら、お玉さんこの簪が気に入ったの」
いつの間にか横に並んでいた蝶子が店員を呼び、傘と一緒に簪も購入した。
「蝶子さん! そんな高価なものを!」
「淑女になるにはお金だって必要ですのよ。一流品を見て、触り、身に付け、その価値が分かるってモノですの。第一、伯爵様からお給金はたっぷり頂いていますし、淑女が貧相な格好で出歩いたら恥さらしですわ。伯爵様の顔に泥を塗るようなものです。
現に今のお玉さんの姿を御覧なさいまし」
「今?」
お玉は鏡に映った自分の格好を見つめ返した。ワインレッドのビロード半襟に、着物は紫色の錦紗でアール・ヌーボー調の葡萄柄、金糸銀糸が織り込まれた帯を初々しく胸高々と締めている。庇髪にはビロードの大きなリボン、後ろ髪は背中に流している。
「今のお玉さんはどこからどう見ても、華族のご令嬢だわ。仕草もどことなく気品に満ちていますわよ」
まさに馬子にも衣装。恰好ひとつで人の外見はいとも簡単に変われるものだ。さらに、格式の高い着物を着ると、心構えも違ってくる。汚してはいけないと思い、と行動が慎重になるのだ。
「お玉さんに必要なのは、自信ですわ。あなたは記憶力と集中力がいいわ。ただ、あがり症なだけ、落ち着けばちゃんと出来るわ。大丈夫よ、貴女は努力家ですもの」
蝶子に褒められると、お玉は頬がほんのりと色づく。褒められるなんて何年振りだろう。嬉しいと同時に気恥ずかしさを感じた
「それにね――」
と簪をお玉に渡して蝶子が続ける。
「簪を見つめるお玉さんの顔が、魚料理を見つめる猫ちゃんみたいなんですもの」
※
お玉と蝶子は銀ブラをしてから改装中のミルクホールに寄った。
小さな店の前で人力車から降りると、蝶子は少し待っていて欲しいと、店の中に消えていった。
お玉も人力車から降り立ち、パラソルを広げてクルクル回した。初めての買い物に心が躍る。蜻蛉玉の簪も黒髪に挿した。嬉しくてついつい頬が緩んでしまう。優しい人たちに囲まれ、空腹でひもじい思いをすることも、寒さに震えることもない。
――幸運過ぎて、少し怖い。
その時、蝶子のいるミルクホールから硝子の割れる音が聞こえた。
「蝶子さん?」
お玉がミルクホールの中に入ろうとすると、ひとりの男がお玉をはねのけて飛び出してきた。
「泥棒よ!」
蝶子が叫ぶ。
「ど、泥棒!?」
捕まえなきゃ。お玉が思った時には、泥棒はお玉の蜻蛉玉の簪を引ったくり、瞬く間に逃げ出していた。
「簪がっ!」
簪、瑠璃色の大切な簪。お玉の足は男の後を追うように駆け出していた。
※
貧困窟は華の銀座の陰。
明治期、働き口を求めた人々が活気に溢れる帝都に押し寄せ、過剰に人口密集した。職にあぶれた人々は、屑拾い、物乞い、街娼、男娼、芸人などで生活することになり、人口の過密はコレラなどの伝染病や、スリ、人身売買などの犯罪の温床となっていった。
その中をお玉は泥棒を追いかけて走った。簪だけはどうしても返して欲しい。愛染の瞳と同じ色をした蜻蛉玉の簪。
「ちくしょう、しつこいアマだっ!」
泥棒にとっての誤算は、改装中で何もないミルクホールに強盗として押し入った事と、乳母日傘のひ弱な令嬢と思った女にしつこく追い掛け回される事だった。しかも足が速い。
ついに泥棒は逃げるのを辞めた。たかが女、逃げ惑う必要などない。しかもここは貧困窟、手篭めにしても誰も文句を言わない。助けんなんてきやしない。災い転じて福となす。上玉が転がりこんできたのだ。泥棒は舌なめずりをして、お玉と向き合った。
「簪を返して下さい!」
「……いいぜ」
泥棒はニヤッと笑うと、お玉に一歩一歩近づき、懐から匕首を取り出してお玉に向けた。お玉は目を見開き、男から間合いを取るため、一歩一歩後退する。
「後ろは壁だぜ、怖いもん知らずの愚かなお嬢さん」
お玉は壁に遮られ、逃げ場を失った。泥棒の顔が目と鼻の先に近づき、臭い息がかかり、冷たい匕首の刃が頬を撫でる。
「いい匂いだ」
泥棒はお玉の髪をひと房握ると、鼻に近づけて匂いを吸い込んだ。
「か、簪を返して下さい」
「はっ、そんなにこの簪が大切かい?」
泥棒は袂から簪を取り出し、お玉の目の前で振って見せた。お玉はこの時を待っていましたと言わんばかりに、渾身の力をこめて泥棒の股間を蹴り上げた。
「ぐぅっ!」
泥棒は激痛に目を白黒させている。その隙にお玉は急いで簪を取り返そうとした。その時、泥棒の匕首が煌き、お玉の髪のひと房、宙を舞う。
泥棒は憤怒し目は血走っている。鬼の形相だ。
――逃げなくては!
命の危機を感じたお玉は、その場を逃げ出そうと踵を返す。しかし、着物の裾を泥棒につかまれて転んでしまった。
その瞬間。
「そこで何をしているっ!」
威圧的な大声が響き渡った。
突然、軍服姿の男がお玉と泥棒の間に割って入ってきたのだ。泥棒は瞬く間に軍服姿の男に取り押さえられている。
「お嬢さん、大丈夫ですか?」
「は、はい」
軍服の男は、肩幅の広い逞しい肢体に、短く切り込まれた髪、精悍な顔立ち、まさに野性的な風体だ。愛染と同じ位の身長は純日本人には珍しい。印象的な瞳はオオカミのように鋭い。
軍服の男はお玉の無事を確かめると、しかめっ面で「人通りの多いところまでお送りいたしましょう」と申し出でくれた。
軍服の男は、お玉の歩調に合わせて歩き始めた。二人の間に会話も和やかな空気もない。軍服の男の表情は相変わらず不機嫌そのものだが、お玉はこの軍服の男に好感をもてた。
武骨で近寄りがたい雰囲気なのに面倒見のいい所は、どことなく愛染に似ているような気がしたからだ。
軍服の男は蝶子のミルクホール近くまで送り届けてくれた。
ミルクホールの前には遠くから見ても顔面蒼白の蝶子が居た。心配させてしまった、とお玉は深く反省する。
「あ、お玉さん!」
蝶子がお玉を見つけると、急ぎお玉の元へ駆けつけ無事を確かめた。
「大丈夫? 服が泥だらけだわ。あら、やだ、この髪どうしたの!? 嗚呼、何てこと、ばっさり切られてしまったのね! 可哀想に、恐ろしい思いをしたのね」
「蝶子さん、私は傷ひとつありません。こちらの方が助けてくださったのです」
と、後方を振り返る。しかし、そこには軍服の男の姿はなかった。
「あら?」
軍服の男はどこへいってしまったのだろう。否、そもそも軍服の男は本当に居たのだろうか、そう思ってしまうほど、その男は音もなく消えていた。
後に、この軍服の男と風変わりな再会しようとは、この時のお玉は思いもよらなかった。