ポワソン咥えた野良猫 ―1―
上流階級のお嬢様には、必ず身に着ける三つの“たしなみ”がある。
書道、和歌、琴、である。
匂い立つような筆跡で和歌を詠むのは、絶世の美女と謳われた女流歌人、小野小町を始め、やんごとなき乙女の美徳とされた。
さらに、裁縫、花道、茶道などは出来て当たり前。
礼儀正しく、物静かで控えめで、歩く姿から寝る姿まで、品良く美しくあらねばならない。
「ね、寝でいる姿も、ですか!?」
お玉は“信じられない”といった表情で蝶子に訊いた。
「そうですわ。寝ている時も美しくあれ、というのが淑女なのですのよ」
お玉は開いた口がふさがらなかった。蝶子の言う『完璧な淑女』とやらは人間じゃない。寝ている姿まで美しくあれと言われても、まず無理だ。工女仲間にも、お玉ちゃんは寝相が悪いね、と言われた経験がるお玉にとって、淑女レッスンを始める前から不安を感じる。
「さて、お玉さん」
モダンガールの蝶子は色鮮やかな洋装姿でお玉の前に立った。化粧もばっちり決めている。ハイヒールを履いて仁王立ちする姿は、それなりに迫力があった。
「華族のご令嬢方は幼い頃より一流の師匠を招き、徹底的に教育されますのよ」
蝶子はお玉の頭のてっぺんに本を置いた。廊下にはまっすぐな線が引かれている。
「正直なところ、お玉さんが今から完璧な淑女になろうとしても土台無理なお話なのです。しかし、引き受けた以上、わたくしは全力を尽くさせていただきますので、よろしくて?」
蝶子はお玉の背中を押して、線の上をまっすぐ歩くように促した。もちろん本を頭に乗せたまま。
お玉は本を落とさないようにバランスをとるのに精一杯だ。しかし蝶子は妥協を許さない。
「背筋を伸ばして、まっすぐ前を見て、顎を引く。足を一歩一歩進めて下さいまし。和服の時は内股でつま先から歩くように、洋装の時は優雅に踵から地につけます」
「は、はい」
お玉は頭の上に載った本を落とさないように、慎重に足を前に出す。その歩みは蝸牛のごとく遅く、足腰は生まれたばかりの小鹿のように小刻みに震えている。優雅とはかけ離れた珍妙な歩き方だ。
「お玉さん! そんなへっぴり腰では、一生かかっても淑女にはなれませんことよ」
鬼教官、蝶子の言葉の鞭が鋭く跳ぶ。
お玉は優雅に歩かねば、と焦れば焦るほど、おぼつかない足取りになる。本がゆらゆら、足ががくがく、“優雅に歩く事”は思いのほか難しい。
「お玉さん、一本の線の上をまっすぐ歩くのです!」
「は、はい。――ッア!」
案の定、お玉の足がもつれて大きくバランスを崩す。
「危ない!」
蝶子が手を差し出したが間に合わず、お玉は見事に素っ転んだ。しかも、転んだ先が悪い。アール・ヌーボーの硝子製の花瓶に頭から突っ込んでしまったのだ。言わずと知れた高価な花瓶。
――割れる!!
蝶子は思わず目を瞑る。しかし、硝子の割れるけたたましい音はいつまでたっても聞こえてこない。恐る恐る片目を開けると、お玉が必死な形相で花瓶を受け止めていた。
お玉は花瓶に活けられていた薔薇で顔に無数の擦り傷を作り、着物はずぶ濡れだったが、花瓶の無事を見ると、安堵の笑顔を浮かべた。
「大丈夫、お玉さん?」
「はい、花瓶が無事でよがっだです」
「本当ね。これを割っていたら、わたくしたち責任をとって井戸に身投げしなくてはいけない所でしたわ。さながらモダン番町皿屋敷ね」
幽霊のマネをする蝶子の冗談に、お玉の笑顔が引きつった。笑っていいところなのかしら?
「気を取り直して、続いては“茶道”です」
「はい」
矢絣柄の綸子の着物に着替えたお玉は、庭の一角に建てられた趣のある茶室に居た。蝶子も落ち着いた色合いの小紋に着替え、凛と背筋を伸ばして座っている。
「茶道は皆伝するまで何年も時間がかかるものです。ゆえにお玉さんには基礎をお教えいたします」
「よろしぐ、おねがいいだします」
お玉は三ツ指を突き、頭を深く下げてお辞儀をした。お辞儀にも真、行、草の三種類があり、場合によって使い分けると蝶子に教わった。お辞儀はその人の心を表すものであり、相手に敬意と真心を伝える手段でもある。
「では、まずは袱紗で釜を清めます。ゆっくり丁寧にして下さい」
「はい」
お玉は帯から袱紗を取り、丁寧に釜を清める。釜はシュンシュンと音を立てて湯気を立ち上らせ、庭からししおどしの音が聞こえてくる。
茶室はゆったりとした時間の流れの中に、凛とした緊張感が走る不思議な空間だ。
「続いて、柄杓を持ち、釜から湯を汲み、茶碗に移します」
茶碗は深緑色の織部焼きだ。稽古用という事で、あまり高価な物ではないにしろ、庶民のお玉にとっては手の届かない品だ。
『これを割っていたら、わたくしたち井戸に身投げしなくてはいけない所でしたわ』
先ほどの蝶子の言葉が甦り、お玉の緊張が高まる。柄杓を持つ手が震え、つるっと取り落としてしまった。アッと思った時はすでに遅し。
煮えたぎるお湯を釜にぶちまけてしまっていた。
ジュワっと音を立てて炭火が消え、モウモウと湯気と灰が舞い上がる。
こりゃたまらん、とばかりにお玉も蝶子もにじり口から脱出。
「ごほごほっ、お玉さんご無事?」
「あ、足がぁ、ジンジンします」
長い時間、正座をしていた足は痺れを切らしていた。何とも情けない。
お玉は足の痺れに悶えながら、モウモウと湯気と灰が立ち上る茶室を見つめた。少しだけ、泣きたい気分だ。
その後のお玉ときたら……。
琴をすれば、弦が切れ。
花道をすれば、剣山で指を刺し。
書道をすれば、墨を飛ばしてしまった。
日も落ち、散々たる淑女レッスンの初日が終わりを告げようとしている。
「しょ、初日は、こんなところですわ」
蝶子は顔に飛んできた墨を手拭いで拭きながら言った。その口の端が引きつっているのをお玉は見逃さなかった。
お玉は溜息を呑み込んで深々とお辞儀をした。大丈夫、明日は今日よりましになるはず。と自分自身に言い聞かせる。
「今日はありがとうございました」
「ええ、明日も頑張りましょうね。努力に勝るものはございません。今日の失敗を明日に引きずらないようにするのが大切ですわ」
蝶子の優しい言葉に、涙腺が緩みそうだ。
お玉を厳しく叩き上げる蝶子だが、無下に怒らないし、決して諦めない。蝶子は師匠というより、頼りがいのある姉のような存在だ。茶道、花道、書道、琴、どれをとってもそつが無くこなすうえに物腰も優雅で柔らかい。知的で驕ることがなく、凛とした佇まいに、懐の深い女。まさに『完璧な淑女』だ。
「さあ、疲れたでしょう。もうお休み下さいな。ああ、それから、お国言葉は直した方がよろしいわよ」
蝶子が部屋を去ると、お玉は豪華な部屋に一人残された。今日の鍛錬は絶対に夢に出てくる。うなされること間違いないだろう。寝ている姿も美しくあれだなんて、世間の目は淑女対して厳しすぎる。
しかし、投げ出すことは許されない。
「明日はもっと、もっと頑張ります」
お玉は誰に言うでもなく、独りごちた。
※
愛染は革張りの椅子に深く座り、葡萄酒を嗜んでいた。乱れた前髪は額に落ち、上着もベストも脱ぎ、シャツは胸までボタンを外している。長い足を組み、ワイングラスをゆっくりと回す。
昨夜、薄暗い地下室でお玉を凌辱しかけた。自分はいったいどうしてしまったのだろう。
無垢な女性を手篭めにするなど、愛染とって考えられない事だった。地位と財産と、その美貌で女に不自由したことはない。
しかし、お玉の事になると自分の気持ちが制御できなくなり、心が掻き乱れる。
愛染は葡萄酒を一気に飲み干した。
確か、お玉を拾った日は人肌が恋しく、花柳界に向かおうとしていた。結局はお玉を拾った事で、その目的は果たせないままだ。
そうだ、自分は欲求不満なのだ。欲望さえ満たしてしまえば、お玉に対する執着も消えるだろう。そう考えた愛染は早速行動に移った。
「運転手を呼べ」
愛染は執事に告げると、上着を羽織り玄関に向かった。
「あら、伯爵様、どちらにお出かけで?」
そう訊いたのは、たまたま通りかかった蝶子だ。
「……」
愛染が答えるはずもない。ただ五月蝿い虫でも見るように、蝶子を見下ろしている。
「よろしかったら、わたくしの家に寄っていただけませんか?」
蝶子は不躾な愛染の態度など気にする事はない。“吸血鬼伯爵”に向かってにっこりとほほ笑むだけの図太い神経の持ち主だ。
「昔読んだ礼儀作法の本が家にありますの。よろしかったらお玉さんにも読んでもらおうと思っていますのよ」
ついでにいろいろと、取って来たい物もある。母の様子も見たいし……。蝶子は再びお願いします、と申し出た。
「……ついて来い。運転手に送らせよう」
愛染はあからさまにため息を落として、むっつりしたまま歩き出した。蝶子は急いで愛染の後を追いかけ、自動車に乗り込んだ。お玉さんの淑女レッスンだけではなくて、伯爵様は紳士のレッスンも必要だわ。とは口が裂けても言えない。
お玉は自動車に乗り込む二人を、二階のカーテンの隙間から覗いていた。
(お二人で、どごさ行ぐんだ?)
お玉の胸が締め付けられる。
愛染と蝶子。美男と美女の二人は似合いの男女だ。二人で歩いている姿は、はっと息を飲むほど洗礼された雰囲気をまとっている。以前のお玉なら、そんな二人をうっとりと眺めていたはずだ。
しかし、今は――。
お玉は分厚いビロードのカーテンを閉めると、窓に背を向けた。
(もしがしたら、お二人は恋人同士ってやつでは!?)
胸が痛い。どうしてこんなに胸が痛いのだろう。もしかしたら病気かもしれない。
お玉は頭まですっぽり布団をかぶった。寝台の上で猫のように丸くなり、不可解な胸の痛みを抱えて眠った。
※
「おはようございます。お玉さん」
蝶子の朝は遅かった。昨夜は実家に泊まり、母の愚痴をさんざん聞きながら、荷物をまとめ、朝になってから伯爵邸から迎えきたのだった。
「今朝は遅くなってごめんあそばして」
そう言いながら蝶子は、一冊の本をお玉に渡した。
「淑女の礼儀作法が書かれた本ですわ。難しい漢字には平仮名を振っておきましたが、分からない事があればいつでも聞いて下さいまし」
「しゅ、く、じょ、のたしなみ」
お玉は本の題名を指先でなぞりながら呟いた。“淑女”という漢字には美しい字で平仮名が振ってあった。
「随分くたびれた本で申し訳ないのですが、わたくしが小さい頃使っていた本ですの。これで、しっかり勉強して、伯爵様を見返すような……、もとい伯爵様のお眼鏡にかなうような素晴らしい淑女になりましょうね」
蝶子の目元には化粧では隠しきれない隈が出来ている。夜通しでこの本に平仮名を振ってくれていたのであろう。お玉は胸が熱くなるのを感じた。愛染のためにも、蝶子のためにも、淑女にならなければならない。
「私、がんばります!」
鼻息荒く、お玉が宣言する。
「その意気込みですわ。さあ、お玉さん。今日も一日頑張るわよ」
「はい!」
伯爵邸には、お玉と蝶子のにぎやかな声が響き、巷では『吸血鬼の断末魔』という噂が飛び交っていた。
※
愛染はぼんやりと、窓の外を眺めていた。お玉の悲鳴交じりの笑い声が応接室まで聞こえてくる。かつてこの屋敷がこれほど賑やかだったことがあっただろうか?
愛染の頬がほんのわずかゆるんだ。お玉がここに居ると思うと、ただ嬉しいのだ。しかし、愛染はそんな自分の感情を持て余していた。
昨夜は蝶子を実家に送り届けてから、どうしても花柳界に向かうことが出来なかったのだ。
――何故?
昨夜から繰り返している自問。お玉の笑顔が頭から離れない。ゆえに他の女を抱けない。自分自身の不可解な行動。制御できない気持ち。それは……。
――愛?
違う、それだけはあってはならない。愛のために子供を捨てた両親。愛染にとって愛は憎しむべきもの。両親の愛のために、どれほど自分が辛酸を舐めてきたことだろう。自分は決して人を愛さないと決めていた。
――愛ではない。
これは、愛ではない。そう、愛であってはならない。愛染は胸に強く刻んだ。