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言われた通り大人しくコックピットに乗り込む。リュカはイヤホン搭載だと言っていたが、どれのことだろう。無線だとしたら、どこにしまってあるのかくらい教えて欲しかった。
私がシートに収まったのを確認すると、左側のコックピットに座る彼女が呼びかけてきた。エンジンをまだ掛けていないので普通の音量だ。耳に痛くなくて済む。
「イヤホン、メインハンドルの奥のボックスにあるから。着けといて。エンジン掛けたらアンタの声聞こえないし」
軽く頷き、指示された場所を探る。ツメを引っ掛けて開けるタイプのボックスの中に、イヤホンだけが収められていた。試しに右側にだけ付けてみると、違和感が凄まじい。今までイヤホンをあまり好んで着けてこなかったので、なんだか変な感じが否めない。これを両耳にするのか。堪えられそうにない。
それでも言われたからには両耳に着けておくしかない。オフィシャルのレーサー達はこんなものをレース中に常に着けているのか。平衡感覚がおかしくなりそうだ。
イヤホンを着けると、防御壁が展開された。卵の殻のように、コックピット全体を覆う形だった。なんだか見世物にされているみたいで落ち着かない。風も周囲の音も遮られてしまって、気が狂いそうだ。計器とハンドル周辺を眺めて落ち着くことにした。
コックピットに乗り込んで一番最初に気が付いたのは、計器周辺の視認性の良さだった。前の機体ではごちゃごちゃしていたメーター類が、見やすく並んでいる。中にはデジタル表示のものもあった。これは慣れるのに時間がかかるかもしれない。
ハンドルの形も異なっていた。以前のものと比べると握りやすい。それに円形ではなくて部分的に操縦桿がある形になっている。左側のレバーは何を操作するものなのだろうか。予測もつかない。
足元のアクセルペダルの形状は変わらなかった。でも大きさが違う。こちらの方が小さい。
シートの乗り心地は、確かに前よりもずっと良かった。妙に腰の骨に当たる金属の骨組みなどは一切なく、クッション性も良い。ここだけ切り外して椅子として使ってもいいレベルだ。
そうしてあれこれ眺めていると、脳に直接殴り込んでくるかのようなリュカの声が聞こえた。
「アンタ何も触ってないよね!?」
両耳でこれを聞き続ける気にはなれなかった。顔を顰めて思わずイヤホンを外す。
「うっるさ…」
外したイヤホンから、かすかに音が漏れ聞こえた。
「……んで……んの………ない…」
そんなに大声で喋らないで欲しい。左側に着けると、なんだかもっと彼女の声が聞こえてしまいそうだったので、右耳にだけイヤホンを近づける。どちらも同じ音量で聞こえるのは分かりきっていたが、そうしないとやりきれない気分だった。それに、右側のみマイク接続がされているので、こちら側でないと会話ができない。
「なんで外してんの!!??イヤホンの意味ないじゃん!!!」
装着するのは無理かもしれない。音が大きすぎる。
「…もうちょっと静かに話せないんですか?」
できればもっと言いたいことはあったが、とにかく黙って欲しかったのでそれだけ伝えた。
「なんで右にしか着けないの?両方着けなきゃちゃんと聞こえないじゃん!」
先ほどよりは音量が抑えられていたので、彼女の声を聞き続けるのは多少苦痛ではなくなった。
「両方着けると平衡感覚が鈍りそうだったので。マイクさえあればいいですよね。」
文句は受け付けない。有無を言わさぬトーンで話したからか、彼女の追求はそこで止んだ。
「あっそ、じゃエンジン掛けるから。そのあと浮力装置。起動したらまた指示するからアンタは何もしなくていいから!」
返事をする前に、身体に振動が伝わってきた。かなり抑えられた振動だ。骨の髄まで揺さぶられるような程ではない。静音性も高い。防御壁があるせいかもしれない。まるでレース用の機体ではないみたいだ。
新たなエンジンに慣れる前に、機体が浮くとき特有の独特の浮遊感を覚えた。浮力装置が起動されたのだ。周りの音や振動が今までと全く違うこと、特に右側の音が完全に遮断されていることで、初めて機体酔いをしそうになった。こんなに赤子のように守られてレースをするなんて、以ての外だ。だんだん降りたくなってきた。
「整備はしてもらってあるから。左のレバーはギアチェンジ、その後ろにあるハンドルはブレーキ、間違えないでよ!?アンタはとにかくレース中にウチの言うことだけ聞いて黙ってついて来ること!わかった!?」
やっぱり脳までキンキンと響くような声だ。聞いていられない。気分が悪くなっていたのも相まって、最低限の返事しかできなかった。
「…わかった……」
「じゃああとは黙ってて。ウチやることあるから!」
リュカの指示云々の前に、私が機体に慣れるのが先だ。これで実際に走り始めたら本当に限界を迎えかねない。機体異常ではなく、人的異常でリタイアなんて最悪の屈辱だ。しかもその原因が機体酔いだなんて。全く笑えない。
一度深呼吸をして目を瞑り、シートに身体を沈める。エンジン駆動音と浮力駆動音に左耳を澄ませる。シート越しにエンジンから伝わる微細な振動を感じ取る。排気の匂いはほとんどしない。これでは嗅覚を研ぎ澄ませるだけ無駄だ。アクセルペダルに右足を乗せ、感覚を確かめる。小さいので踏み外しかねない。足はこのまま置いておこう。
目を閉じたまま、両手にグローブを嵌める。何度か握ったり開いたりを繰り返し、自分の手の感覚を馴染ませる。目を開けて、変わった形のメインハンドルを握りしめる。前の機体よりもハンドルから感じ取れる振動が少ない。それでも、身体全体から感じるものよりは多少なりとも情報が多かった。
メインハンドルを握ったまま、前を見つめる。視界は良好、おかげで観客の様子まで見えた。今回のコースは草原だ。数ある機体の巻き起こす風によって、柔らかな緑が平らに薙ぎ倒されているのが見えた。
そのままゆっくりと深呼吸を繰り返していると、イヤホンからコンコンと二度ノックされる音がした。レースもまもなく始まるというのに何かあったのだろうか。
「レース開始するよ。準備してる?」
ああ、遮音性が高すぎて周囲の音が聞こえないことを憂慮して、ノックしたのか。別に言われなくてもわかるのに。
「してます。」
「あっそ、レース中はウチの指示だけ聞いといて。最初はそんなにアクセル踏まないでいいから。初速は絶対出さないで。ギアは一番下のまま。わかった?」
私の戦略とは正反対のものをリュカは取るのだと、私はここで初めて知った。主運転手である彼女に異論を唱えることは許されなかったが、それでも言いたいことはあった。
「勝つつもりがないのですか?」
「いいから黙って前見て!レーススタートするって言ってんでしょ!」
舌打ちをして、正面に向き直る。
信号は残り2つになっていた。
信号が2つ、1つ。
それが消えると同時に旗が振り下ろされた。




