64. 弛緩
連れてこられた店は少し喧騒に包まれた、半個室を備えた比較的大衆向けの居酒屋だった。来たことのない店だ。店員とは顔見知りなのか、スサミが何も言わずとも、私たちは奥の半個室の席へ通された。
「なんか頼んどけ、腹減ったろ」
「……私今アルコール飲めないですし、右手不自由なんですけど」
テーブルに取り付けられた端末から早々に注文を送信した彼が、信じられないような目でこちらを見る。
「…お前、そんなに卑屈だったのか?」
呆れた視線を向けてやる。さっきのあの状況から普段の調子にすぐさま立ち直れる人間がいるなら見てみたいものだ。
あまりにもげんなりした顔をしていたのか、困ったように口を曲げて、端末を指さされる。
「焼き鳥くらいなら食えるだろ、ここのは旨いぞ」
「…わかりました」
不器用にメニューをタップして、ほんの少しだけ美味しそうに見えたセセリを選んだ。ついでに鶏皮も頼もう。普段こういうところに来たときに注文しているものだ。それならこんな状態でも食べられるだろう。飲み物はウーロン茶にした。アルコールは厳禁だ。飲めるものなら飲みたかった。しかし、病院で散々言われた、鎮痛剤とアルコールの組み合わせは下手するとあの世行きになる、という言葉がずっと心に残っていた。ぽっくり逝っても何の未練も無いが、まだ何もできていないのにそんな目に遭うのは勘弁願いたかった。
先に飲み物だけが運ばれてきて、形式だけ乾杯の形を取る。特に何の意味もなかったが、スサミからジョッキを突き出されて反射で乾杯してしまったのだ。無言だったが、それでもなんとなく、何かが昇華されたような気分になった。
ほとんど氷しか入っていないのではないかと錯覚するようなグラスから、よく冷えたウーロン茶を飲む。胃の底に冷たい液体が落ちて、鈍っていた思考が少しずつ働き始めた。
料理は大して待つこともなく、次々と運ばれてきた。
「…おすすめしたのに焼き鳥じゃないんですか」
彼は軟骨の唐揚げと枝豆を頼んでいた。なんだか典型的な中年男性の絵面にしか思えなくなり、ふ、と口の端から空気が零れた。口角が上がった気はしなかった。彼は何の反応も示さなかった。
私は左手で行儀もへったくれもない状態で焼き鳥に食らいついた。会話は無い。まずは何か胃に固形物を収めるのが先だ。彼はそう判断したらしかった。
スサミが美食家なのかは知らなかったが、彼が言っただけあって、確かに焼き鳥は美味しかった。炭火で焼いているのか、こんがりと焼けたタレに、食欲をそそる香りが纏い付いていた。最初に注文した4串を瞬く間に食らい尽くして、左手を手拭きで拭う。これなら他の部位も美味しいだろう。そういえば、あれを頼んでもいいかもしれない。どうせ目の前には彼しかいないのだ。
スサミは黙々と食事と酒を楽しんでいるようだった。ジョッキにはハイボールが入っている。ウイスキーが好きなのだろうか。
「お待たせしました~」
店員が持ってきた皿には、焼き鳥の他に、明るい茶色の円形のものが乗っていた。それを見たスサミが目を見開く。
「お前、右手、使えないんじゃないのか。」
嬉々としてその皿を手元に引き寄せて、軽々と宣ってやる。
「ご存知ですか?人間の手って最大のカトラリーなんですよ」
そういってカマンベールチーズのフライを左手で掴んでかぶりつく。流石に少し熱かった。一口だけ齧って、皿に置いてウーロン茶を流し込む。あっという間にグラスは空になった。
即座に手を拭って端末から注文をする。ここなら大した額にはなるまい。好き勝手やってやろう。そう思って辛口のジンジャーエールを選んだ。アルコールが飲めない憂さを晴らしたかった。
あまりにも自由過ぎる私を見かねたのか、枝豆をちまちまと摘まんでいたスサミが口を開く。
「豪快だな…」
「そうでもしないとやってられないので。」
彼の方を見ることもなく即答する。頭の回転は普段と同じくらいにまで戻ってきていた。カマンベールチーズのフライを冷めるまで放っておいて、焼き鳥に手を付ける。先ほどはタレだったが、炭火の香りをもっと楽しみたかったので今回は塩にした。間に挟まったネギの甘味が存分に出ていて、鶏肉の臭みを消していて美味しい。つくねには軟骨が練り込まれているのか、コリコリとした食感が楽しめる。そうこうしているうちに焼き鳥の皿が空になったので、チーズに手を伸ばす。いい具合に冷めている。チーズそのものの塩味と、それをまろやかにする衣の甘味がたまらない。小ぶりのものが4つ乗っていたが、瞬く間に無くなった。
次は何にしようかとテーブルの端末をスワイプしていると、スサミに問いかけられる。
「まだ食べる気か…?」
「…?ええ、食べますけど…」
質問の内容が意外だったので、彼の顔をきちんと正面から見る。その目には、先ほど見たような驚きがあった。
「若いな……」
「スサミさんはよろしいんですか?」
端末には米飯のメニューが並んでいた。炊き込みご飯が名物だと書いてあるので、それを頼もうかと悩んでいたのだ。
「…叩き胡瓜を頼む」
「渋いですね」
軽口を叩くくらいの余裕は出てきていた。調子に乗りすぎて怒られないといいのだが。
「…お前、これから長話が待ってるの、覚えてるだろうな。」
ジンジャーエールを飲んでいると、静かだが重厚な声が聞こえた。忘れられるはずもない。一口、二口、と飲んで、グラスから口を離す。
「覚えていますよ。腹が減っては戦が出来ぬって言うじゃないですか。」
「そうか…」
ハイボールを口にして、スサミは天井を見上げた。他の席から聞こえてくる、アルコールが入って気分がよくなった人間たちの明るい騒がしい声が、心地よい音楽のようだった。酒も飲んでいないのに、雰囲気に酔ってしまったのかもしれなかった。
炊き込みご飯と叩き胡瓜が運ばれてくる頃になって、スサミはやっと視線を元の位置に戻した。
「どうやって食べる気だそれ」
「手掴みなわけないじゃないですか、すみませんスプーンお願いできますか」
空いた皿を片づけようとする店員に声を掛け、スプーンを貰った。左手でそのまま掴んで口に運ぶ。悲しいかな、ここ数日の生活のおかげで左手で匙を口に運ぶのにも慣れてしまったのだ。
手本のように綺麗に箸を持つ彼が、ゆっくりと胡瓜を口に運ぶ。口元が綻んだのが見えた。きっと好物なのだろう。
ある程度食べ進めてから、本題に踏み込む。
「…それで、父について、教えて下さるんですよね。どこからお話して下さるんですか?」
ハイボールのジョッキを傾けていた彼の手が止まる。やや乱暴にテーブルにジョッキが置かれる。
「…お前、どこまで知ってる」
「…ギャンブル狂いで借金取りに殺された天才主運転手というくらいでしょうか…」
あからさまに溜め息を吐いて、スサミは首を振った。ほんの少し、アルコールの香りがした。
「ほぼゼロか…」
軟骨の唐揚げの最後の一個を摘まんで、彼は丁寧に箸を置いた。
「まあいい、一から話してやる。」
妙な沈黙が、一瞬だけ落ちた。
彼の目元は、落ち窪んで、暗かった。
「これは、俺たちの、懺悔だ。」




