61. 嫌疑
一つ、瞬きをして、スサミに問いかける。
「イズモさんは、どうされていますか。」
彼が最後の一口を名残惜しそうに吸って、息を吐き出す。そのまま、煙草を灰皿に押し付ける。小さく火花が散ったのが見えた。
「…さあな」
往年のバディでありながら、相手の動向を知らないということがあるのだろうか。彼らが出場するグランプリ決勝戦は、あと二週間で開催されるというのに、何も把握していないことはないはずだ。それとも、単に他のレーサーに知られたくないのか。怪訝な眼差しで彼を見つめる。
「ご存知ないのですか?何も?」
「知らなくてもいいことの一つや二つ、誰にだってあるだろう」
伏し目がちになって答える彼の声には、どことなく諦観が滲んでいた。それを感じ取ってもなお、私の声は尖っていく。
「運営からの通達は、どうされているのですか?機体の整備については?どうやって、情報共有をされているのですか?」
矢継ぎ早に質問を重ねても、彼の表情は変わらなかった。何の感情も浮かんでいない。光の加減だろうか、目元が落ちくぼんで、以前レースで見かけたときよりもずっと老けたように見えた。
「…個人的に情報共有をしたことは、無い。機体は、俺だけが触る。」
言い切られた言葉は、妙に鋭かった。思わず背筋が伸びる。浅く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。
「……申し訳ありません。出過ぎたことを…」
軽くこちらを一瞥して、スサミはもう一本煙草を取り出した。先ほどよりも、火を付ける動作が緩慢だった。一口だけ吸うと、右のポケットから小銭を数枚取り出して、手渡される。
「温かいものを頼む。なんでもいい。」
左手の上に乗せられた硬貨の枚数をざっと確認する。明らかに一人分の飲料の値段よりも多く渡されている。
「…セイカ、お前も、好きなもの買って来い。残りは駄賃だ。大した額じゃないが。」
そう言ってこちらには目もくれずに、スサミは煙草を吸い始めた。これでは何を言っても取り合ってくれないだろう。説得は早々に諦めて店内に戻る。
外の底冷えし始めた寒さと比べて、店内は肩の力が抜けるほどに暖かかった。レジに店員の姿はなかった。飲料のコーナーに向かい、ブラックの缶コーヒーと、カフェオレのボトルを一つずつ取り出す。片手で持つのになかなか手こずっていると、バックヤードから出てきた初老の女性店員が近づいてきた。
「お持ちいたしますよ。他に何かご購入なさいますか?」
「ああ、いえ…これだけで、お願いします。」
柔和な笑みを浮かべて、レジへと案内される。袋は必要かと訊ねられたので、カフェオレはリュックに入れて、缶コーヒーは手に持っていくことにした。
「ありがとうございました~」
落ち着く声が背中から聞こえて、店内を出た。少し肩が強張る。左手に持った缶コーヒーを思わず握りしめる。
スサミは私が買い物をしている間に、あの一本を吸い終わったらしかった。こちらに向き直り、先ほどとは違う、芯のある穏やかな目で私を見る。
「何にしたんだ?」
「ブラックの缶コーヒーです。」
彼の口元が歪められる。彼の纏う雰囲気とは不釣り合いな、子供っぽい仕草に笑いが出そうになって何とか堪える。
缶コーヒーをポケットに入れて、リュックの横ポケットに入れてきたカフェオレを手渡す。明らかに安心した表情を浮かべる彼に、いよいよ笑いが堪えられなくなった。
「……ふふっ、…すみません…」
左手で咄嗟に口を押さえたが、声は漏れてしまった。気を悪くしていないといいのだが。彼の横顔を見やれば、ボトルを両手に持ってちまちまと飲み進めているところだった。こちらを気にする様子もなく、少し冷ましてはまた口に運ぶのを繰り返す。
それを見て、私もコーヒーを飲むことにした。片手で缶を開けるのは慣れていたが、あくまでそれは利き手の話だ。左手ではうまくいくかわからない。一か八かでやってみると、案外うまくいった。そのまま缶を煽る。飲み慣れた苦みが喉を通って行った。
互いに無言で飲み進めていると、熱くて飲むのを諦めたらしいスサミが、中身がほとんど残っているボトルを上着の右ポケットにしまい込んだ。それを見て、残りわずかだったコーヒーを飲み干す。灰皿の隣に設置されたごみ箱に空き缶を放り込んで、彼に正面から向き合う。
彼の方が、少しだけ私より目線が上だ。
その目が、今までほとんど話したことのない彼の目が、いつになく真剣なものに見えた。
「運営からの通達と言ったな。」
切り出された話題が唐突で、何を聞こうとしているのかが読み取れない。そのまま首肯する。
「それは、公的な、つまり、全レーサーへの通達だな?」
「…ええ、そう、だと、思います…」
彼の片眉が吊り上がる。細められた片目の奥が、ぎらりと硬質に光ったように見えた。
「自分で聞いたわけではないのか?」
「…はい。…人伝てに、聞きました。」
歯切れが悪くなってしまう。公式の通達でありながら、それを聞いていなかった私を責めているのだろう。視線が下に落ちる。足元には、私が散らかした灰が無残に残っていた。
どんな叱責をされるのかと内心怯えていると、彼に顔を上げるように言われる。怒っているわけでは、無いのかもしれない。そう、思いたかった。
顔を上げると、彼は清潔感のある、短く切られた白髪交じりの髪をがりがりと掻いて、苦虫を嚙み潰したよう顔をしていた。
「いいか、セイカ。」
訥々と、まるで駄々をこねる子供に言い聞かせる様な口調で、彼は告げた。
「公的な通達は、本来、全てのレーサーに、運営が直接伝えるものだ。正式にグランプリに出場しているお前が知らないというのは、あり得ない話だ。」
一瞬、言葉が出なかった。まさか、あの女。
奥歯を噛み締めて、自分の行動と考えの浅さを呪う。まんまと踊らされていたのか。私は。そう思えば思うほどに、彼と遭遇する前に抱えていた怒りが、また沸々と煮えたぎり始めた。
何も言わない私を見かねたのか、スサミが言葉を続ける。
「誰に、それを聞いた?」
「…リエラです。ご存知ですか。」
その名を聞いた彼の目が見開かれる。慌てたように言葉を続けられる。
「通達の内容は?」
苛立ちが抑えきれず、半ば吐き捨てるように答える無礼だとはわかっていても、止められなかった。
「…機体のッ、改造禁止、です、…カインのエンジン、焼き付いてるってのに…ッ」
言い訳がましくぶつぶつと続けた。言わないと気が狂いそうだった。彼に当たっても何も解決なんてしない。こんなことをしたところで、事態は好転するどころか悪化する可能性の方が高い。頭ではわかっていても、言葉は止められない。
歯軋りの音を立てんばかりに奥歯を噛み締めて、左手が真っ白になるまで強く握りしめる。ついこの前切ったはずの爪が、手の平に食い込んだ。視線なんて合わせられなかった。ひたすらに下を向き続ける。自分の愚かさが、これ以上ないほど憎かった。
右肩を、少し強く叩かれる。
その衝撃にハッとする。自分の世界に没入しすぎていた。顔を勢いよく上げる。スサミの表情は、先ほどまで見ていたものよりも、ずっと翳っていた。それでいて、両目は目に見えない何かを警戒しているようだった。
「セイカ、リュカに連絡を取れ。今すぐ。俺もイズモに連絡する。前代未聞だ。そんな通達。」
迷っている暇はなかった。ポケットから端末を取り出して、片手でなんとか操作して通話を試みる。それでも、彼女が出る様子はなかった。
一方で、イズモはスサミからの通話にすぐに応じたようだった。スサミはこちらに背を向けて、口元を隠してしまったので何を言っているかまでは聞き取れない。それでも、何か短いやりとりをしているのだけが聞こえた。




