55. 侵犯
薬を飲んだ後、気を紛らわすために音楽を聞きながら洗濯物をかき集めていると、ポケットに入れていた端末から通知音がした。リュカからだろうか。洗濯機に全て放り込み、洗剤を入れてスイッチを入れてから端末を開く。画面の通知欄には、恐ろしい一言があった。
『不自由なく生活はできていらっしゃいますか?』
送り主は不明となっていた。どうなっている。どう考えたって、これを送り付けてきたのはリエラだ。教えてもいないのに、どうして私の連絡先を知っているのか。アプリも開かずに通知を消して、見なかったことにしようとすると、それを見透かしたかのようなタイミングでもう一度通知音が鳴った。
『お家に伺ってもよろしいですか…?カインについて、聞きたいことがありますの』
「ふざけんな来んじゃねえ」
言ったところで相手に聞こえるわけなんて無いのは分かり切っていたが、悪態を吐かずにはいられなかった。
それにしても、「カインについて」の一言が妙に目についた。あのリエラが、何を聞きたいと言うのだろうか。私がいないところでも、あれだけ修理をして見せたというのに、今になって何を聞くというのだろうか。
少しだけ逡巡して、アプリを開く。左手で文字を打つと、先ほどのように大変なことになりかねない。躊躇いながらも通話ボタンに指を伸ばす。深呼吸をして、目を細めながらボタンを押した。
1コール、2コール、3コール、と、1つずつ数えて、一向に出ないことに安堵しかけた瞬間に、リエラの声が聞こえた。
「セイカさま…!お電話して下さるなんて、わたくし、思ってもおりませんでしたわ…!」
スピーカーモードを解除して、一旦端末から顔を背ける、げんなりした気分になって来た。美味しいハンバーガーと信用に足るリュカとの会話で回復しつつあった気力が一気に奪われた気がした。それでも、掛けたのはこちらだ。答えないわけにはいかない。スピーカーモードに戻して、渋々答える。
「…カインについて、何が聞きたい」
「…ああ、申し訳ありませんわ…わたくしったら、舞い上がってしまって…」
何かがさごそと音がして、リエラが告げる。
「…エンジン部分について、聞きたいんですの。少し…わたくしの手には余ってしまいまして…」
言い淀む様子がなんだか演技のように思えて、黙って続きを促すことにした。何かここで口を挟めば、彼女の思うツボのような気がしたのだ。
「…セイカさまが、酷使されるからでしょうか…ほんの少し、焼き付いておりますわ…」
「…厄介だな」
想像していたより、事態は深刻だった。エンジンの焼き付きは、レース中の加速を妨げることがある。全てのレースにアクセルもギアも全開で臨む私たちにとっては、カインのエンジンの焼き付きは死活問題だ。
「…なんとかなる範囲か?」
「…応急処置だけでしたら、可能ですが…セイカさまの普段通りのレースをされるのであれば、あと1回が限界ではないかと、思いますわ…」
唇を噛む。一番重要なのは決勝戦だ。どうしたらいいのだろう。裸足の爪先で床を何度か鳴らす。いつもの癖で左手の指先のささくれを見ようとして、右手に端末を持った瞬間に痛みに呻く羽目になった。フローリングに硬い音が響く。
「…い…ってぇ…」
「…セイカさま!?」
悲鳴のようなリエラの声が聞こえる。端末は足元に落としてしまった。ヒビが入らなかったのが唯一の救いだ。しゃがんで端末を拾いつつ、なんとか返事をする。これ以上この女に弱みを見せるわけにはいかない。
「…気にすんな、そんで、エンジン、交換、必要か?」
右手のじんじんとした痛みに耐えていると、言葉は途切れ途切れとなってしまった。
「…次のレース後の損傷次第かと、思いますわ。」
私の弱っているところを見ても、リエラは整備士としての顔を優先したようだった。洗面所の壁にもたれ掛かって、端末を眺める。次回のレースでも、私たちはアクセルを踏み抜く。そんなの決まり切っていた。それで損傷が出ないなんてあり得ない。つまり、次のレース後のエンジン交換は必須というわけだ。準決勝から決勝戦までは2週間、エンジン交換に必要な日数は平均で4日だ。頭の中で日付を計算していると、黙っている私が心配になったのかリエラに話しかけられる。
「…あの、セイカさま…?」
「聞いてる。次回のレース後にエンジンは交換する。私の右手は全治4週間だから、エンジン交換もお前に任せる。下手なことはしてくれるなよ。それだけだ。」
「…っ、…なんて、決断を、わたくしに…!」
喜色を滲ませて震える声に釘を刺す。
「ただし、交換するときは私も同伴だ。エンジン選びも私がする。お前がしていいのは整備とエンジン交換だけだ。それ以上のことは許さない。いいな?」
「…ええ、ええ、もちろんですわ…!」
強めに忠告したつもりだったが、あまり効いていないのが手に取るようにわかった。有頂天になっているのではないだろうか。これを相手に会話しているのも億劫になって来たので、電話を切ろうとすると先ほどとは打って変わって静かな声で問いかけられる。
「…お身体は、よろしいのですか…?何かご不便なことがあれば、ご遠慮なく、わたくしを、お呼びくださいましね…?」
「誰が呼ぶか。じゃあな。」
それだけ言って通話終了ボタンを押した。こんな電話はとっとと切るに限る。あんなのをこれ以上相手していたら気が狂いかねなかった。
機械的な音を立てて回る洗濯機を一瞥して、寝室に戻ることにした。カインに触れないのであれば、やるべきこともない。それに、利き手が使えない今はできることもない。ベッドに寝転がってから、リエラがどこから電話を掛けてきたのか考えて肝が冷えた。
昨日、いつもの私の家の近くのガレージに、機体を運ぶように指示したのだった。つまり、特定しようと思えばあの女はこの家を特定して、直接来ることができる。
「…詰みじゃねえか……」
天井を眺めて呟く。うっすら寒気を感じて、ブランケットを引っ掴んで一度眠ることにした。




