54. 委譲
利き手でない手だけで生活するのは、想像以上に難儀なものだった。家事はおろか、些細な仕草ですら支障を来すのだからやっていられない。右手の痛みで目が覚めたので、左手を付いて起き上がって、洗面所へ向かう。顔を洗おうとして両手が使えないことに気付き、シャワーで解決することにした。口をすすいで、着替えを取りに寝室に戻る。
ボタン付きのブラウスを羽織ってから服選びに失敗したことに気が付いた。動きやすくて気に入っているブラウスだったが、今日は無しだ。ベッドフレームへ適当に脱ぎ捨てて、クローゼットからVネックの薄手のニットを取り出す。下はワイドパンツでいいだろう。ベルトを通すのも一苦労だったが、なんとか体裁は整った。リビングへ向かいつつ、左手で端末を持って、右手で操作しようとするも、上手くいかない。軽く溜息を吐き、キッチンの向かいのカウンターに置いてから左手で病院の予約をする。幸いなことに午前中の枠が空いていた。
冷蔵庫から牛乳、ラックからシリアルを取り出して、器に盛り付ける。大ぶりなスプーンを持ってきて、なんとか左手で掴んで口に運ぶ。食べ終わってからグラスに水を注いで痛み止めを飲む。厄介だ。これが一体何日続くのだろうか。
出かけるときも随分苦戦する羽目になった。洗い物ができないので、もう諦めて食器類はシンクで水に浸けるだけにした。普段履いているワークブーツの靴紐が結べない。舌打ちしたくなったがなんとか堪えて、どちらかというとよそ行き用にしているローファーを取り出す。三和土で爪先を何度か叩いて履いた。靴が傷みそうだったが、背に腹は代えられない。ドアノブに右手を伸ばしかけて、頭を振って左手を伸ばす。鍵を取り出して、慣れない手つきで扉を閉めて家を出た。
病院での診察は散々なものだった。
救護室で伝えたこと、医師から言われたことをそのまま口にすれば、怒りとは縁遠そうな見た目の溌溂とした女医に延々と説教される羽目になった。そもそも全治二週間というのが甘すぎる、どうして最初からきちんとした病院に行かなかったのか、と色々問い詰められたが、レースがあったのでどうしようもない。息を荒げて一旦口を閉じた女医の様子を見て、淡々と告げる。
「レースがかかってるので、他のこと、考えてなかったんです」
彼女の眦が文字通り吊り上がった。今これを言ったのは失敗だったかもしれない。後ろに控える看護師も頭を抱えていた。
比較的空いている時間だったのもあり、私は相当な時間を診察室で拘束されることとなった。
帰宅してから、リュカから連絡が来ていたことに気が付いた。時刻は昼を回っている。昼食はどうしようかと思って、デリバリーに頼ることにした。そもそもカトラリーが使えないのだ。ファストフードか何かで飢えを凌ごう。足りない栄養素はサプリメントなどで補えばいいだけの話だ。
到着するのを待つ間に、返信をする。左手なのでうまく文字が打てない。
『さつきびょういんいてきた』
誤変換に誤字もやらかしている。電話をしたほうが早かったかもしれない。端末を伏せてカウンターの上に置いて、薬局で処方された薬を取り出す。とにかく食後に服用するということしか覚えていなかったが、普段薬なんて飲まないので忘れそうだった。カウンターの端に全て取り出して置いておく。通知音がして、リュカから返信が来たのが分かった。
『誤字っててウケる』
頭に来たのでそのまま電話してやった。
3コールもしないうちに、彼女は電話に出た。何か言われる前に、こちらが口を開く。
「うるせえよ」
大爆笑する声が聞こえてきた。こちらは笑っている場合ではない。鎮痛剤を飲んでも、傷口はずっと確実にほんのりと痛みを訴えていた。病院では、救護室での縫合はそのままにして抗炎症剤と鎮痛剤が処方され、ひたすらに4週間の絶対安静が命じられただけだった。しかし、薬の服用以外はあまり従う気は無いのも事実だ。4週間もじっとしていたらグランプリが終わってしまう。次回のレースに出るためにも、この3日間と、次の2週間だけは安静にしているつもりだったが、少なくともレースには出る覚悟をしていた。
ひとしきり笑い転げた後に、リュカはやっとまともな声を出した。それでもどこかに笑いが含まれているのが声のトーンから伺えた。
「で?病院行って、どうだったの?ほんとにカイン触ってないよね?」
「触ってない。まじで説教された。」
「…ふっ、く、はは、あっははは!説教されたって…!やば、馬鹿じゃんアンタ!」
「うるせえよ」
「ふは、無理ぃ…!おもしろすぎる……!!」
止まない笑い声を聞いていると、インターホンが鳴ったので端末をカウンターに放り出して受け取りに向かう。今日の昼食はちょっと良いハンバーガーだ。新作だったので食べたかったというのもある。端末からは、笑いが抑えられないのであろう声が未だに続いていた。無言で包み紙を剥いでかぶりつく。ソースが甘じょっぱい。野菜も新鮮でシャキシャキだ。パティから肉汁が溢れ出して、それがバンズに染み込んでいく。とろりとしたチーズソースがアクセントになっていて美味しい。黙々と食べ進めていると、初めてリュカに真面目そうな口調で問われた。
「…それで、リエラは?アンタあのあと会ったでしょ?あそこで。何してきたの?」
もぐもぐと咀嚼して、ストローで炭酸飲料を吸い上げる。ジュースなんて久しぶりだ。とんでもなく甘い。
「…ん、ちょっと交渉」
「……詳細は」
ポテトに手を伸ばす。カラリと揚がっていて、ホクホクで美味しい。指についた塩を、行儀悪く軽く舐め取ってから答える。
「整備任せてきた」
しばらく間が空いた。その間に1個目のハンバーガーを食べ尽くし、2個目を取り出す。こちらはいつも食べている定番の味だ。辛味のあるソースが好みで、時折食べたくなる。辛いので途中でジュースやポテトを挟みつつ、もうほとんど食べ終わろうかというときになってやっとリュカが口を開いた。
「…………どういうこと」
食べながら答えるのは無作法だろう。全て食べ終わってから答えることにした。包み紙を片手でなんとか小さく折りたたんで紙袋にまとめながら、順を追って説明する。
「リュカが頼んだ、私の知り合いの整備士いたろ。アイツ買収されてんだと、他のレーサーに。なんなら前にリュカが彼氏と出たレースでノア600弄ったのもアイツだって話だ」
「……それで?」
「それを、リエラから聞いた。」
左手で紙袋を小さくするのも、案外大変だった。
「…それと、あの女に整備任せるのと、何の関係があんの?」
なんとかまとめてごみ箱に向かって座ったまま放り投げる。うまく入った。
「この前のレースで、ギアがノアに変えられてた以外、何の問題もなかったろ。あとアイツ…例の整備士からリエラ本人がうちのカインの整備買って出たらしい。たぶん他のレーサーにカイン狙われてるからだろうな。それで何考えたか知らねえけど、リエラがやるっていうから任せてきた。」
返事が無かったので、口直しのためにグラスに水を注いで飲み干す。人工的な甘ったるさが微妙に口の中に残っていた。シンクの中の食器類を眺めながら、どうやって生活するか考える。いっそハウスキーパーに任せるのも選択肢としてあるかもしれない。そんなことを悩みつつ食器と睨めっこしていると、リュカの声がカウンターから聞こえた。端末を置きっぱなしにしていたので、上手く聞き取れなかった。声を張ってもう一度問いかける。
「なに!?」
足早にカウンターに戻ると、彼女の声がはっきりと聞こえた。
「…だからってあんなのに任せるとか意味わかんない!!」
彼女の思いも道理に適っているが、今だけはどうしても譲れない。私が整備をできず、他の整備士も信用できない以上、現時点でカインをほぼ完璧に修復できるリエラに任せるしか手段は残されていなかった。
「他に手段ねえだろ、私があんだけ弄ったカイン、あそこまで修復できる人間そういねえよ」
「アンタ甘すぎ!!ほんとに何考えてんの!?ギア弄られたのに信用できんの!?あの女が!?」
「信用とかじゃねえよ、リエラなんか信用できるわけねえだろあんな魔性の女」
吐き捨てるように告げる。この世で信用できるものなんて機体と金と自分だけだ。
「…一応その辺の分別は付くんだ、ろくすっぽ周り見てないクセに…」
「喧嘩売ってんのか?」
呆れた溜息を吐かれて、否定される。
「なわけ、アンタそんな喧嘩っ早かったっけ?怪我のせい?」
いちいち要らないところを突ついてくる奴だ。ここ最近はそんな素振りがなかったため忘れていたが、リュカはこういう人間だった。カウンターの椅子に腰かけて足を組み替える。グラスの水を一口飲む。
「そんなわけねえだろ。…そんで納得できたか?整備の件」
「納得とかできるわけないじゃんマジで」
即答された。彼女の不満も一理あるが、今だけは飲んでもらわなくてはならない。
「そうは言ってもだろ。今回だけだ、我慢してくれほんとに」
長い沈黙が落ちた。こちらから言うことは何もない。状況は全て説明した。やることもない。手持ち無沙汰になってしまったので、ニットにできていた毛玉を毟り取ることにした。左手だと細かい作業もしにくかったが、他にできることもないのでそうするしかなかった。
やっと何か言う気になったリュカが、電話口で短く告げる。
「今回だけ、ね。これ貸しにするから。そんじゃまた。」
後ろでがやがやとした声が聞こえてきて、電話は切れた。




