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Drused Race  作者: 鈴生
グランプリⅢ
53/69

53. 対峙

「…いるんだろ」

 人の気配のしないガレージで呟く。天井を見上げて、身体をもたれ掛からせた壁に頭をつける。鈍い音がして、じんわりと痛みが広がる。自棄になっているのはわかっている。悟られまいと思っていたのに、あのリュカに勘付かれていた。

 ああ、ガレージ内の照明を点けるべきかもしれない。あの女に、リエラに対峙するには、この明るさは暗すぎる。

 足音がしない代わりに、微かな衣擦れの音が奥から聞こえた。隣り合うガレージからは、もう話し声は聞こえない。整備士(メカニック)もレーサーも、ほとんど帰ってしまったのだ。頭を動かすことなく、工具箱が見えた辺りに視線をやる。そこには、幽鬼のようにリエラが立っていた。

「……聞いてただろ、全部」

 返事をすることもなく、リエラは漂うようにしてこちらに近づいてきた。私の真正面までやってきて、足を止める。またも私が見上げる形だ。

 ゆっくりと、彼女の両手が私に向かって伸ばされる。身体を引こうとしても、背中は壁にもたれ掛かっていて動くことができない。両腕を背中に回すのが、精一杯の抵抗だった。

 それすら意に介さずに、リエラは私の顔を両手で包み込んだ。視線を彼女の顔に固定させるかのように、正面を見つめさせられる。上から覗き込まれるような、深淵のような黒い瞳が不愉快で、カインに目をやろうとすれば甘ったるい息を吹きかけられる。顔を顰めて、彼女に渋々向き直ると、そこには何の感情も浮かべていない表情があった。

 鼻先まで顔を近づけられて、リエラはようやく口を開いた。

「…本当に、小賢しいですわね、()()。」

 誰のことを指しているかなんて明白だ。リエラに見せつけるように、わざとらしく時間をかけて目を瞑り、少しずつ瞼を持ち上げる。この空気に飲まれてはいけない。彼女の顔を眺めつつも、視線は意図的にずらす。そうすれば、あの何もかも飲み込まんばかりの黒色の瞳を見つめなくて済むと思った。近すぎる顔にピントが合わなくなって、彼女の顔がぼやける。

「……で?盗み聞きした感想は?」

 輪郭がはっきりしない状態でも、リエラが恍惚とした表情を浮かべたのが見て取れた。ほう、思わせぶりな吐息をついて、彼女は私の顔から両手を離した。そのまま一歩引き下がり、深々と頭を下げる。まるで、最敬礼だ。

「……感服、いたしましたわ、()()()()()。」

 顔を上げた彼女の目の淵で、ガレージの外の照明に照らされて、きらりと光るものが見えた。薄暗くなったガレージの中で、一際輝くそれは、私の目にこれ以上ないほど異質なものとして映った。

「…ああ、わたくし、セイカさまに、心から、惚れ直してしまいましたわ……」

 艶やかな唇に、彼女のほっそりとした指が乗せられて、そのまま下に向かって滑る。異性だけではない、見る者をどこまでも魅了してやまない、蠱惑的で官能的な動きだ。

 起立の姿勢のまま、私の右腕に向かって彼女の左手が伸ばされる。抵抗しても無駄だろう。観念して視線を天井にやった。もう真っ暗で何も見えない。いい加減照明を点けよう。

 右肩に、リエラの手が乗せられる。少しだけ身体がびくついたが、必死に平静を保つ。息が上がりそうになって、深呼吸をした。やはりいつもの甘い香水の匂いがして、息を吸うのも嫌になる。

 不意にリエラが口を開く。

「…わたくし、セイカさまに、初めてお会いした、()()()から、ずっと…セイカさまに、焦がれておりましたの……」

 右肩から二の腕をゆっくりとなぞり、肘を軽く掴まれる。後ろに回した腕を前に引き摺り出すように、紳士的、いや、淑女的というべきだろうか、そんな手つきで肘を引かれる。抵抗する気力はなかった。今だけはこの女の好きにさせてやってもいいだろう。このあとのためだと思えば、まだ我慢できた。だらりと手を下げて、脱力する。

 彼女が言葉を続ける。視線を下ろしても、暗すぎるガレージの中では表情なんて読み取れやしなかった。

「…でも、()()と組まれてから、セイカさまは、セイカさま()()()なくなってしまった……」

 肘から手首に向かって絡みつくように彼女の手が下っていく。手首にまで到達した左手が、その存在を刻まんばかりにじっくりと力を籠めてくる。そこに痛みはなかった。包帯越しにも、彼女の手の平の生暖かい温度が感じられた。

「……そう思っていた、わたくしは、本当に、愚か者でございました…」

 手首を掴んで、私の目の高さまで持ち上げられる。少しだけ傷が痛み、顔を顰める。それを見ているのかいないのか、リエラの動きが止まることはなかった。手の平から、綿で包むようにして私の包帯の巻かれた右手を恭しく持ち上げる。

 彼女が、目の前で腰を折り、手の甲に額を付ける。

「セイカさまは、何も、変わっておられなかった。」

 初めて聞く、芯の通った真っ直ぐな声だった。私の手の甲から顔を上げた彼女の瞳が見えないこの暗さが、今だけは憎かった。きっと、凪いだ目の奥で、うまく言い表せないような何かが渦巻いているのではないかと想像した。

 薄暗くて目が合っているのかも分からなかったが、彼女の声がした方を向いて、きちんと答える。

「レーサーであり続ける限り、私は決して、変わらない。」

 これは信念だ。これだけを胸に抱いて、私はレーサーとして今まで生きてきたのだ。それを、バディが変わった程度で失うなんてことはあり得ない。黙ったまま、リエラに次の言葉を促されているのがなんとなく肌で感じ取れた。

「他人がどう思うが自由だが、私が私であることを、軽率に読み違えるな。」

 ややあって、彼女の声が聞こえた。

「……大変、失礼いたしました、セイカさま…」

 ふう、と息を吐く。息が詰まるような会話を続けられるほど、今の私に体力は残っていなかった。簡潔にリエラに照明を点けるように指示をする。自力で動ける自信はなかった。


 パチッと、今までの空気には不釣り合いな軽快な音がして、ガレージの中が無機質で青白い光に満たされる。

 何度か瞬きをして、目が明るさに慣れるまで待ってから彼女を問い詰める。壁に寄り掛かったままの姿勢だが、立てないのだから仕方ない。

「こっからが本題だ。なんでここにいる?リュカからはいつもの整備に頼んだって聞いてる。私の整備(メンテ)の覗き見のためか?」

 私に背を向けて、工具箱を取りに言っている彼女から、どことなくくぐもった声が返って来た。

「…いやですわセイカさま、そんなに、わたくしを疑うなんて…」

 緩慢な動きで屈んで、工具箱の取っ手を掴む。

「…わたくしは、彼から頼まれて、こちらに参りましたのに……」

 話の流れが読めず、眉をひそめる。レーサーから整備を頼まれた整備士が、他者に仕事を勝手に横流しするなんて考えられない。何か彼にも事情があったのだろうか。

 考え事に耽る間にも、リエラは工具箱を持って私の近くにまで戻ってきていた。

「………ここだけのお話で、ございますけれど…」

 そこで言葉を切って、今までになく真剣な目付きでこちらを見る。その様子に違和感を覚えて、私も彼女の両目を見つめ返した。初めて読み取る彼女の表情は、不安や猜疑心のようなものが、浮かんでは消えていた。

「……彼、他のレーサーに、雇われておりますわ」

「…嘘だろ……」

「…彼に任せたままでは、セイカさまが、危ないと思いまして、わたくしが、代わりに名乗り出ましたの…」

 いよいよ本当にやっていられなくなって、天井を見て一瞬だけ現実逃避をすることにした。そこに、更に嫌な現実を告げられる。

「…以前、()()のノア600に手を加えたのも、彼でしてよ……他のレーサーに、妨害するように、買収されたそうですわ……」

 絶句して、リエラを見る。そこには、凄まじいほどの嫌悪感を露わにした般若のような顔があった。これは、機体(マシン)に詳しいレーサーだからこそ分かる怒りだ。自分の身体の一部と言っても過言でない機体を、わざわざ傷付ける。私たちなら決してやらないことだ。

 それでも、私は反論したいことがあった。

「…お前も一歩手前だっただろうが。カイン1200をノアのギアに変えやがって」

 視線が上がって、先ほどの鬼のような面を綺麗に消し去って飄々とした笑みを浮かべた彼女が、悪びれもせずに答える。

「…ふふ、だって、セイカさまを、試したかったんですもの。……傷なんて、一つも付けておりませんわ…」

 なんて言い草だ。全く呆れたものだ。もう言葉を交わすのも億劫になり始めていた。

「…わかった、もう話は終わりだ。カインの整備はしてくれたんだろ?なら帰ってくれ。私は一人でちゃんと見たい」

 明らかに不服そうな顔をしながらも、リエラは簡単に引き下がった。

「…損傷箇所は、修復いたしました…色合い(カラーリング)も、全て、直してありますわ…」

「そう、助かった」

 工具箱を持ってガレージから出て行こうとする彼女を横目に、私もなんとかして壁から背中を引き剥がす。頭がぼんやりしていた。

「あ、」

「…どうか、なさいましたか?セイカさま。」

 不思議そうな顔をして振り返ったリエラに問われる。

「大事なことを言うの忘れてた、多分、私は次のレース後も整備できないから、お前に頼みたい。いけるか?」

 一番大切な交渉のことだったのに、すっかり忘れてしまっていた。

 彼女が喜色満面の笑みを浮かべて、上ずった声で答えた。

「…もちろんですわ…!わたくし、喜んで整備、させていただきますわ…!」


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