52. 掌握
ようやく救護室から解放されて、私はリュカに肩を借りる形でガレージに向かうことにした。リュカには心底嫌そうな顔をされたが、どうしてもカインが心配でならなかったのでそれを押し切った。最初は自力で歩いて行くつもりだったが、どうにもふらついてしまって真っ直ぐ歩けないので、結局彼女の力を借りることになったのだ。
ガレージに辿り着いてから、リュカを先に帰すことにした。結局カインを診ることができるのは私だけだ。あの整備士に任せたとしても、私でないと見つけられない異常もあるだろう。それに、目的は他にもあった。それを彼女に悟られたくはなかった。
リュカは散々ごねたが、一緒にいたとしても何ができるのか、と問うと沈黙した。そこに畳み掛けるように、レース前に見ていた彼女の端末の画面を思い出して茶化す。
「彼氏とのディナー、いいの?」
半笑いで告げてやった私の言葉を聞いて、彼女の右眉が器用に持ち上がる。口元が不満げに曲げられている。そんな態度を軽く笑い飛ばして、きちんと目を合わせて話しかける。
「大丈夫だよ、リュカ。」
それを聞いて一瞬で真顔になった彼女が、壁に寄り掛かった私に向かって早足に突っかかってくる。女物の香水がほんのりと香った。
そんな反応をされるとは想定外だったので、顎を仰け反らせる。
「どの口が言ってるわけ?2時間昏睡しといて!?右手は縫合手術しとして!!大丈夫とか!!舐めた口利くのも大概にしてよアンタ!!!!」
張り手をされなかっただけマシかもしれない。待っていたのはとんでもない詰問だった。それでも、あれ以外に何を言えばいいのだろう。私は無事だった。彼女も無事だった。レースには優勝した。あとは私がカインを診ればいいだけの話だ。
どうしても、私にはリュカの意図も感情も、読み取ることができなかった。激昂する彼女を目の前にしても、何に対して怒っているのかがわからない。
なんだか手持ち無沙汰に感じられたので腕を組んだ。片眉を吊り上げる。
「グランプリ優勝するのに必要なこと言ってるだけなんだけど。そこまで言われる筋合いはないんじゃない?」
浮かんだのは純粋な疑問だった。思いついたままにそれを口に出せば、彼女は眦を吊り上げた。両手が身体の横できつく握りしめられる。唇を嚙んだ彼女からは、怒鳴り声ではなく小さく掠れた声が聞こえた。
「…アンタ、おかしいよ………」
目を眇めて、彼女の様子を伺う。彼女は何が言いたいのだろう。
「あんな、……あんなに、大怪我して……なのに、レースしか、考えてないって、アンタ、おかしいよ……」
何か言葉を返すべきかと思ったが、何も思いつかなかった。肌を刺すような沈黙が落ちる。
もう秋だ。日が落ちれば、それだけ気温も下がる。隣り合うガレージから漏れ聞こえる賑やかな話し声とは裏腹に、私たちの間にはひんやりとした風が吹き抜けていた。肌寒さを感じて、ブラウスの襟部分を左手で握りしめる。上着を取りに行ったほうがいいかもしれない。
何も言わない私にじれたのか、リュカが口を開く。
「………アンタにとってのレースって、なんなの」
「私の全て」
返事なんて、考えるまでもなかった。
冷ややかな視線をこちらに向けながら、呆れ返った口調で彼女が告げる。その目を私は真っすぐ見つめ返した。
「あっそ」
視線が外れて、カインの方を見やる。それにつられるようにして私も機体に目をやった。エンジンの下に、工具箱が見えた。箱の側面に貼られた薄気味悪いステッカーが、オイルか何かで黒ずんでいる。もちろん、私のものではない。
それを気にする様子もなく、リュカはこちらに向き直った。ため息を深々と1つ吐く。顔を上げた彼女は、女王蜂に相応しい表情になっていた。不穏な笑みが口元に浮かぶ。
「それなら、副運転手として、主運転手のウチの言う事、聞けるでしょ?アンタ、レースが人生の全てなんでしょ?」
「そうだけど」
何を言われるのかは見当もつかなかったが、彼女の言うことに異論はない。
「なら、これは、主運転手としての命令」
彼女の目つきが、人の上に立つ者としての強い意志を湛えたものになる。両足でしっかりと立つ彼女に対して、私は壁に寄りかかって左足にだけ重心を掛けていた。リュカの威圧に少しだけ圧倒されて、こくりと喉が鳴る。
「アンタ、次のレースまで、絶対安静。整備も禁止。カインに触るのも禁止。」
「…あぁ?」
反射で出た声に、自分でも驚いた。しかし、それを気に留めるでもなくリュカは笑みを深める。見ていて愉快になるような笑い方ではない。彼女の吊り上がった唇の両端が不規則にひくついていた。
「副運転手なら、主運転手の命令は絶対。アンタが言ったんでしょ?」
鼻の横に皺が寄るのが分かった。舌打ちが零れる。
「……今はレース中じゃねえだろうが。リュカ。」
「レースが全てなら、今だってレース中みたいなもんでしょ?副運転手。」
「…ッ、くそが……」
身体の芯まで染み付いたレーサーとしての矜持と、どうにも抗いがたい自分の渇望とがせめぎ合う。頭では、リュカ…いや、主運転手の指示が合理的であることは分かりきっていた。もしここで怪我を悪化させたら、次のレースはない。それでも、カインに触れるくらいは許されるはずだ。
私の長い思案の間も、彼女は口を挟まなかった。
きつく目を瞑る。体重をかけていた足を組み替える。鎮痛剤がやっと効いてきたのか、右手を動かしても身体が竦むような痛みは走らなかった。ゆっくりと口から息を吐き出す。交渉が必要だ。少しだけ見上げる位置にある主運転手の両目を、下から覗き込むようにして睨みつける。
「命令には明日以降に従う。今日は従わない。レース後一回も自分の目で機体の状態見ないのは、副運転手として耐えられない。それでいいか。」
その選択は、私としての、副運転手としての、最大の妥協案だった。
それを鼻で嗤って、主運転手は言った。
「自分がやりたいだけのこと、副運転手として主張するとか。どんだけ必死なの?」
こちらは顎を引いて、相手の出方を見定める。続く言葉によっては、こちらも応戦するつもりだった。
「ふっ、いーよ。そんくらい。今日、どうせ何にもできないでしょ?」
あっけらかんと告げられた回答に、拍子抜けする。瞬きを何度か繰り返して、問いかける。
「止めねえのかよ」
「言ったじゃん、今日何にもできないでしょ?そんな身体で。」
あざとく小首を傾げた彼女に、挑発的な口ぶりで返される。壁にもたれかかったまま、自力で立っていることができない私の姿勢を、顎でしゃくられる。
軽く唇を噛む。彼女の指摘は事実だ。
「じゃあ次のレースで。」
短く別れの言葉を告げると、彼女は踵を返した。硬いヒールの音がガレージに反響する。それをぼんやりと見送りつつ、このあとどうするか考えていた。カインを診ると言っても、自力ではカバーすら開けられない。整備士に触られたところも確認したいが、どうするべきだろう。
すると突然、ガレージのシャッターの下り口あたりで靴音が止まった。ガレージの前に設置された人工的な照明を背景に、彼女が半分だけこちらに顔を向ける。陰になって、その表情は一切読み取れなかった。
「ああそうだ、あの女に、よろしく。」
今度こそ、靴音は遠ざかって行った。




