51. 余波
機体のコックピットに座ったまま、視線が目の前から離せない。ハンドルを上手く握ることができずに、副運転手である私が操縦不能になる。眼前に迫るのは、撓むほどに観光客が乗った華奢そうな吊り橋だ。このままでは衝突してしまう。身体が恐怖に竦む。操縦をしたいのに、いつのまにか左手もハンドルから外れて、両手は身体の真横に張り付いていた。身体がシートに押し付けられる。目の前が、赤く染まって、でもその現実から目が離せない。悲鳴が聞こえるようだった。耳を塞ぎたいのに、身体は動かすことができない。主運転手の、リュカを、彼女を、呼ばなければ。それなのに、喉が張り付いたように声が出ない。息が、吸えない。
このままでは、いけない。どうしなければいけないかなんてわかりきっているのに、身体が、自由が利かない。どうして。吊り橋を、そこに乗る多くの命を軽々吹き飛ばして、それでもなおノア600は言うことを聞かない。真っ白な機体が、赤く染まって、小汚い鼠のように、切り捨てた命を嘲笑うように空を軽快に飛び回る。機体が初めて、私の意思を完全に無視して動いている。身体から伝わる振動は、まるで、見たこともない化け物の武者震いのようだった。
口がわななく。機体に乗っていて、機体に対して恐怖を感じたのは初めてだ。こんな経験、したことがない。恐ろしい。このまま飛び降りたいと思った。仮にそれが私の命を奪うとしても、こんな得体の知れないものに、私は命を預けたくはない。降ろしてくれ、そう叫びたかった。そこで、初めて、他者の声が聞こえた。
「…カ、………セイカ、」
私の、主運転手の声だった。イヤホンをしているのは右耳のはずなのに、左側から声が聞こえてきた。なぜだろう。彼女に、返事をしなければ。きっと、彼女は何か指示を下しているのだ。
「…セ…カ……セイカ…、ょうぶ……、大丈夫、セイカ……聞……て…」
聞こえている。あの明瞭で溌溂とした声が、今だけは不安げに聞こえた。それもそうか。今私たちの乗る機体は、先行するイヴシリーズの機体を追い抜こうとしているのだ。ここは、急な崖だ。一歩間違えれば私たちの命はない。
「セイカ、起きて…………お願い……」
私の主運転手は、何を言っているのだろう。運転しているのだから、起きているに決まっている。ハンドルはきちんと両手で握られていた。速度は全開だ。でも、いつも感じられる風も音も、何もない。左腕が、なぜかものすごく重たかった。瞬きをしているはずなのに、視界が晴れない。今日のコースはこんなに砂埃が舞うような場所だっただろうか。
運転に集中しようとしても、左腕の重みと、晴れない視界で意識が明後日の方向に飛んでしまう。振り払ったはずのカイン3000が、轟音を立てて後ろについて来ている気がした。
頭を振り払おうとして、とんでもないほどの頭痛に襲われる。思わず顔を顰める。目をきつく瞑る。痛い。痛い。こんなの、耐えられる痛みじゃない。これは、なんだ。
「セイカ!」
はっ、と短く息を吐く。視界全体に、リュカの不安でいっぱいの顔が写っていた。
「…ぁ、りゅ、か…?」
「セイカ、わかる?平気?うなされてたんだよ、もう大丈夫だよ、ねえ、セイカ、」
リュカの声が徐々に涙声になっていく。左手が重たかったのは、彼女がしがみついていたからだった。点滴の刺された腕にしがみつくとは、看護師に止められなかったのだろうか。
「りゅか…」
喉が乾いて、うまく声が出せなかった。なんとなく頭もぼんやりする。思い出したかのように右手がじんじんと痛みを主張し始めていた。意識をそちらに向けると、なおさら痛みが増幅しそうだったので、別のことを考える。そうだ、機体は、カイン1200はどうしたのだろう。
「リュカ、ねえ……カイン、は…?」
左腕にしがみついて、くぐもった声を上げていた彼女が顔を上げる。その表情は、何の感情を表しているのか全く読み取れなかった。透明な雫を湛えた両目が大きく見開かれ、口元が少しだけ震えている。視線が揺らいで、何かを言いかけた口が、小さく開かれては閉じるのを繰り返す。息が細く吐き出されて、喘ぐように短く吸い込む。いっそ心配になるような呼吸の仕方だった。
彼女が言葉を紡ごうとしてから、あまりにも長すぎるくらいの時間が経ったように感じられた。息は吐き出せているのに、それが声帯を震わせることがない。彼女の迷いを、私はつぶさに観察していた。右手の痛みは目覚めた時よりもひどくなっているように感じたが、気のせいだと思い込むことにした。今一番気になるのは、機体の整備についてだ。レースは優勝したはずだ。記憶違いでなければの話だが。
「……リュカ」
名前を呼ぶと、彼女は無言でこちらにじっと視線を注いできた。意図が読めずに、その目を見つめ返す。
一度だけ彼女は両目を伏せて、こちらにまた視線を寄越してきた。口調は、どことなくぶっきらぼうだった。
「ウチが見ようと思ったけど、細かいところはわかんないからアンタの顔見知りの整備士の人に頼んできた。大きい損傷はたぶんダブルスチールと接続部分だけ。吊り橋のところで無茶したのが効いてるかもって」
淡々と、まるで診断を下すかのように告げられる。普段の情緒に溢れた彼女の言葉とは、どことなく違っているように感じられた。それでも、安心できた自分がいたのも事実だった。リエラに触られるのだけは、避けたかったのだ。
「リエラには、触らせて、ない…?」
見せつけるように眉間に皺を寄せたリュカが、こちらを睨みつける。
「…させるわけないでしょ、アンタと違ってウチは周り見てるんだから」
言葉は刺々しかったが、それよりも大事なのはその内容だった。少しだけ左に向けていた顔を、真っ直ぐに戻して安堵の息をつく。
「…そう、それなら、よかった…」
ぎょっとしたような顔つきで、リュカがこちらを見る。目元には少しだけ雫が残っていたが、それもすぐに蒸発するだろう。ゆっくりと瞬きをする。そういえば、どのくらい眠っていたのだろう。今は何時だ。
ベッドわきのパイプ椅子から立ち上がろうとしているリュカに声を掛ける。
「今、何時…?」
大袈裟に溜息をついて、リュカは私の位置からでも見えるところに掛けられたアナログ時計を無言で指さした。
短針は、8を指していた。
「うっそだろ…!?」
レースが終わってからだいたい2時間は経過している。慌てて起き上がろうとして、右手をつこうとして激痛が走り、身体がふらついてまたベッドに逆戻りになった。それを見て焦ったようにリュカが看護師を呼びに行った。
自力で動くのがおよそ不可能であることを悟った私は、ただただぼんやりとベッドから簡易テントの天井を眺めることとなった。




