50. 第3回戦・Ⅴ
他の機体の追従を一切許すことなく1位を掻っ攫った私たちは、機体を止めた直後から別行動となった。何かもたついているのか、コックピットから出てこないリュカに何も告げず、自分だけ先に降りて救護室へ足早に向かう。新しく鮮血が滲んでくる様子はなかったが、少なくともこのまま放置するとレース中のあの事態よりも酷いことが将来的に起こるのは容易に想像できた。それに、救護室へ向かえというのは主運転手の指示でもある。レース中に下された彼女からの指示は絶対だ。それに反することは、副運転手として許されない。
レース場から少し離れたところに設置された救護室に足を向けながら、傷の具合について考える。まともな医者なら、完治するまで運転を禁ずる可能性がありそうだ。そうなっては困る。次の準決勝は3日後に開催されるというのに。今までレース場の救護室にお世話になったことはなかったため、どういった対応をされるのかまるで分からなかった。
簡易テントをくぐると、質素で最低限の医療器具と思しき機材が用意された空間が広がっていた。足元は剥き出しの地面だ。それでも、どこか忙しなく立ちまわっている医療従事者たちの服の裾には泥汚れ一つ付いていなかった。衛生管理がきちんとされているのだ。
こちらに気付いた看護師が、私の方へ駆け寄ってくる。その視線が私の身体全体を一瞥して、明らかに重症ではないことを確認したのちに、穏やかな口調で話しかけられる。
「どうなさいましたか?」
そのトーンがあまりにも市井の病院のものと同じだったので、一瞬だけここは普通の病院なのかと錯覚した。言おうとしていた言葉が飛んでしまい、少しだけ口ごもる。
「…あの、手、が…」
「手が、どうかなさいましたか?」
口調は穏やかだが、はきはきと、それでいていっそ強引なほどリズムよく言葉が連ねられる。こうして対応しないと、ここでは患者を捌ききれないのだろう。
「運転中に、手の傷が開きました。」
一度口を開けば、思考は冷静に戻っていた。簡潔に状況を伝える。細かいことは聞かれたら答えればいい。私の発言を聞いて、見る人が不快にならない程度に浅く眉間に皺を寄せた看護師が、処置室と札の貼られた一角へ案内してくれた。
小さなテーブルの前に置かれたパイプ椅子に腰かける。どちらの手かと聞かれたので、グローブを外しながら右手だと答えた。乾いて張り付いたグローブを外すのはかなり至難の業だった。なんとかして傷口から剥がして、右手の手の平が上になるようにテーブルの上に投げ出す。傷口は見たくも無かったので、視線は斜め上にやっていた。看護師の反応は視界に入っていなかったが、息を飲む声だけは聞こえた。
「…少々お待ちくださいね、先生を呼んできますから」
それだけ告げて、慌ただしく看護師は処置室を出て行った。そのまま次のレースと、リュカになんと言い訳するかをぼんやり考えていると、足音が増えて戻ってきたのが聞こえた。首だけを一角を区切るために張られた天幕の方に向ける。身体ごと向きを変えるのは、なんだかものすごく億劫だった。
入って来た医者は、こんなドルーズドという場にふさわしくないほど温厚そうで、見本のように姿勢が真っ直ぐに伸びていた。少し白髪交じりの髪が丁寧に切り揃えられていて、羽織っている白衣の襟にも袖にも皺は見られなかった。
テーブルの向かいの椅子に腰かけた医者が、真っ直ぐにこちらを見ながら私に問いかけてきた。見た目の印象とは裏腹に、その目だけはどこまでも鋭利で、何もかも見透かさんばかりの冷ややかな光を湛えていた。
「いつ、どこで、このような怪我をなさったのですか。」
口調は柔らかだったが、有無を言わさぬ圧力があるのをそこに感じ取った。嘘は通用しないだろう。
「第二回戦の夜に、整備をしている最中に荒れた機体の側面で切りました。切れた直後に流水ですすぎ、アルコール消毒液で消毒して包帯で止血しました。病院には行く暇がなかったため、毎日朝晩に消毒と包帯の交換をしていました。」
医者と、その斜め後ろに控える看護師とが、一度呆れたように視線を交えてからこちらを向いた。
「このまま放置していたら壊死ですよ。…何か、お忙しいご職業なのかもしれませんが、ここまで重症でしたら、仕事を一度止めてでも病院に行くべきです。」
職業に関する言葉には、どことなく厭味ったらしい感情が籠っているのが伝わった。ここに来る人間なんて碌なものじゃない。それを分かったうえでの発言なのだろう。それなら、これくらい言ってもいいだろう。それに、この情報は治療に必要なはずだ。
「私、ドルーズドのレーサーです。傷はさっきのレースで開いたんです。」
傷口を見ようとしてこちらに伸ばされていた医者の手がぴたりと止まる。マスク越しにも、浮かべられた表情から私の言葉に絶句しているのが分かった。
少しの間だけ医者は固まっていたが、深々と溜息を一つ吐くと、傷口を見始めた。あらかた見終わってから、こちらに視線を向けてきた。眼光の鋭さを隠す様子もなく、こちらの心の奥底まで覗き込もうとするような目付きだった。場違いにも、義理の父というべきあの老人の最後の目を思い出した。似ているところはどこにもないはずなのに、なぜかあのときの光景がくっきりと脳裏に浮かび上がって、消えなかった。
「全治二週間の大怪我です。傷口は縫合します。手術という扱いになりますので、書類にサインをしてください。手術後は絶対安静にして、出来るだけ手を使わないようにして生活してください。運転なんて以ての外です。握ったり開いたりしたらまた傷が開いて治りが遅くなります。早く治したいのでしたら…」
言葉の響きは重たかったが、運転ができないというのは聞き捨てならなかった。私たちはこのグランプリにどうしても優勝しなくてはならないのに、たかがこの程度のことで棄権だなんて信じられなかった。まだ何か注意事項を言い募っている医者の言葉を遮る。
「ここで縫ってください。麻酔、なくていいです。次のレース出られないと困るので。」
私が無礼に口を開いても、医者は驚く様子を微塵も見せることなく言葉を切った。呆れるそぶりも、溜息を吐くこともなく、医者と看護師はいっそ機械的な動きできびきびと縫合の支度を始めた。そこに言葉はなかった。
単調な口ぶりで、傷口を処置室の外にある備え付けの手洗い場で洗浄してくるように指示される。傷口の周りで血液が凝固してしまっているのだ。それを取り除くためだろう。ゆっくりと頷いて、緩慢な動きで一旦外に向かう。身体が異様に重たかった。きっとレースの興奮が切れたからだろう。
あの日の夜と同じように、無造作に右手を突き出して水を掛ける。傷口の淵の塊を落とすために、左手で何度かなぞって綺麗にしてから、またのっそりとした足取りで処置室にまで戻る。医者と看護師は既にそこで待っていた。
看護師が、水に濡れたままの腕を清潔なタオルで拭っていく。傷口を丁寧に消毒して、医者が持っている針が無機質で明るすぎるくらいの照明をきらりと反射した。私は、処置の間だけはレースやリュカについて考えることを止めた。意識しないとほんの少しだけ焦点が合いにくい両目で、医者の手つきを眺めていると、その処置が妙に淡々としていて、手慣れていることに気が付いた。看護師も同じだ。慌てる様子も怯える様子も呆れる様子も一切見られない。白い不織布に覆われずに露わになっている目元だけでも、無表情であることが分かった。この状況に何も感じていないだろう。恐らく、慣れているのだ。
そこまで観察して、医者に対する第一印象が間違っていたことに気付いた。ここにいる医者は、きっとレーサーたちと同じ、いやそれ以上にドルーズドに適応している。
安っぽいパイプ椅子の背もたれに少しだけ体重を預けて、完全に思考することを止めようと思った。興奮が冷めて、身体の火照りが引いたのだろう。少しだけ寒気を感じた。秋も深まって気温が下がっているのだろう。目を閉じようとして、そこまで口を開こうとすらしなかった医者に止められる。
「起きててください。死にますよ。ここで寝たら。」
うすぼんやりとした眠気に襲われていたことすら見抜かれていた。大袈裟だなと思いつつ、渋々ながらも目を必死に開けて、処置の様子を見ていることにした。視界がぼんやりとしたら、瞬きを繰り返す。そんなことをしていると、いつの間にか縫合は終わっていた。テーブルの上はまた赤くなっていた。
「終わりました。運転云々の前に死にたくないならそこで点滴受けてください。」
処置道具を片づけながら、ぞんざいな口調で処置室の隅に置かれた折り畳みのベッドを指さされる。看護師は何も言わずに点滴の用意をしていた。医者は最初に見せたような穏やかさをかなぐり捨てて、こちらに視線を寄越すことなくつかつかと処置室を出て行った。看護師も最低限の指示をしてきたので、大人しくベッドに横になって点滴を受けることにした。
よほど疲れていたのか、ベッドに仰向けになって針を刺されたその直後辺りから、記憶がふっつりと途切れていた。




