49. 第3回戦・Ⅳ
がくん、と身体ごとシートに叩きつけられるような衝撃を感じた。一瞬だけ息が詰まる。ハンドルを握る左手から力が抜けかかって、必死の思いで掴みなおす。左手はいつも通りの場所に収まった。
歪な形になりながらも、カイン1200は吊り橋を乗り越えた。主運転手のコックピットが先行し、それに半ば追従するような形で副運転手である私のコックピットが続く。そしてその2つに吊り上げられるようにして重たいエンジンが上がっていく。
目の前に観客の顔が見えるほどに機体は近づいていたが、吊り橋のどこにも接触することはなかった。エンジンを蒸かす重低音と、ダブルスチールが軋む金属音と耳元で吹きすさぶ風の音だけが聞こえていた。
ギアは全開、アクセルは踏み抜いたままだったのが幸いだった。2つのコックピットはその向きだけ違えつつも速度を落とすことなく、上空に飛び出した。機体の向きが地面と水平に戻る。向きを変えた反動で首が前にぐいと引っ張られたが、すぐに持ち直す。目の前に障害物はない。今だけは視線を外してもいいだろう。
両手に革のグローブを嵌めているはずなのに、ハンドルから手が滑った理由には心当たりがあった。考えたくはなかったが、右手に目をやれば嫌というほど現実を突きつけられた。
右手のグローブが、真っ赤に染まっていた。
中の傷が開いてしまったのだ。興奮と緊張で痛みがわからない。それでも、革のグローブを貫通して血が滲んでいるのが異常であるということは、辛うじて理解できた。
「ねえ何やってんの!!!!????」
右から聞いたこともないほどきつい口調のリュカの声が聞こえた。これを報告しないわけにはいかない。副運転手の身でありながら、レース中の彼女に迷惑を掛けてしまったのだ。
「悪い、右手の傷開いて出血多量、ハンドル滑って握れない、今から応急処置する」
端的に報告する。言い訳はしない。今必要なのは私の状況の共有だけだ。それによって彼女の作戦立案が変わるだろう。
機体は渓谷を上から見下ろす形で、上げすぎてしまった高度を少しずつ下げていた。これから向かわなければならないのは、渓谷に降りる前に通過してきた草原だ。なだらかな傾斜を見せながらも、背の高い野草に覆われた斜面は先ほどよりも鋭く夕陽を反射していた。
「なんでそういうこと先に言わないの!!!???何考えてんの!!!???」
右から聞こえる声を聞き流す。彼女の言葉は正論だが、今はそれに構っている暇はなかった。
作業用パンツの右ポケットに入れておいたタオルハンカチをなんとか取り出して、ハンドルの上から被せるようにして握り込む。真っ白だったタオルが、右手に触れたところから徐々に赤く染まっていくのがちらりと見えた。その間も左手はハンドルを握り、右足はアクセルを踏み抜いたままだ。視線は前からほとんど外さなかった。
「アンタレース舐めてんの!!??ねえ、なんか言ったらどうなの!!!???」
相手から聞く言葉が正しければ正しいほど、こちらは苛立つものだ。会話なんてそんなものだろう。
機体は高く生い茂るススキをなぎ倒してレース会場の方へ駆けていた。私の右手は止血できていないが、このまま固定すれば運転はなんとかなるだろう。
一呼吸置いて、やっと言葉を返そうという気になった。苛立ちをそのままぶつけていたら、次のレースに出られなくなりそうな口論に発展しかねない。そんな気がしていたのだ。だから自分の頭が冷えるまで待っていた。
「…悪かった、次から言う」
出てきたのは、それだけだった。でも、それ以上を言う必要も無いと思った。きっとリュカが今欲しがっているのは謝罪ではない。副運転手としてあるべき私の姿を求めているのだ。それに応えるのが、私の役目だろう。
彼女からの応答はなかった。立て続けにこちらが言葉を紡ぐ。
「…応急処置完了、操縦可能、あとどうする」
状況報告を終えても、彼女の声は聞こえなかった。機体は真っ直ぐにススキ原を滑るように駆け抜ける。遠くにレース会場が見えた気がした。
「主運転手、指示を。」
わざとらしく、彼女の名ではなく役割で呼ぶと、一瞬だけ機体がブレたのが感じ取れた。イヤホンからは物音一つ聞き取れなかった。彼女はなぜ動揺しているのだろう。リュカも私に同じことを求めていたのに。
私は会話を諦めて、そのまま黙って走行を続けることにした。恐らくこのファースト・ラップと同じコース取りをセカンド・ラップでもファイナル・ラップでも使うだろう。渓谷への入り方や吊り橋部分の急上昇は先ほどよりも微調整すればいい。ここ最近は声での指示に頼っていたが、私の本分は機体から読み取ることだ。指示を出されなくとも、身体と両手、今回は主に左手から感じ取ればいいだけの話だ。
口も開かず、一心に前を見つめて意識を身体全体に集中させていると、呟くような声が聞こえた。
「…終わったら、救護室行って。指示は、そんだけ。あとはわかるでしょ。」
大声ではなかったが、その言葉は一言たりとも聞き逃さなかった。知らず知らずのうちに強張っていた両肩から、少しだけ力が抜けた。ハンドルが握りやすくなる。ゆっくりと深呼吸をして、彼女の指示に応じる。
「…わかった」
ハンドルを握る両手に、もう迷いはなかった。




