47. 第3回戦・Ⅱ
メインハンドルを握る右手は、ずっと痛かった。最初に全力で加速するために握りしめたときから、力を籠めようとするたびに顔を顰めるような痛みが走った。今日のコースはカインが得意とする雄大な大自然の中に設置されていたが、戦略を考えたりするような余力なんてありはしなかった。手の痛みが走るたびに、あの夜と、リエラと、機体のことが脳裏を過る。レースに集中しているはずなのに、気付けば思考は別の方向に向かってしまっていた。それゆえに、異変に気付くのに遅れた。
イヤホンから訝しげで、それでいて刺々しい声が聞こえる。
「ねえ…機体、異常ないって言ったよね…!?」
一瞬だけまた別のことを考えてしまっていたので、反応が一拍遅れてしまった。声を出そうとした瞬間に、畳み掛けられるように言葉を続けられる。
「なんか言ったらどうなの!?」
「…異常なかった、そんなの確認した!」
そう答えながら、ハンドルを握り直す。リュカが何か言っていたが、それを聞いている余裕はなかった。右手が痛いだなんて言ってはいられない。他の機体が後ろから迫ってきているのだ。あいつらを振り払わなければいけない。私たちは、優勝しなければならないのだから。
両手で強くハンドルを握り、緩やかなカーブを曲がろうと右にハンドルを切ろうとしたとき、違和感に気付いた。
いつもよりも、操作する感覚が軽い。
普段のカインならば、もっと曲がるときに抵抗がきついはずだ。緩いカーブであっても、中重量級であるカインは真っ直ぐに進もうとする力が強すぎて、曲がろうとするときには必ず反発しようとしてくる。それが少ない。何かが、おかしかった。
「ねえ聞いてんの!!!??」
右から劈くようなリュカの声が聞こえた。鼓膜が痛くなるような声だ。これに答えないわけにはいかない。それに、この異常を報告しなくてはいけない。
「…聞いてる…!ハンドルおかしい…!」
「遅い!!!ウチ散々言ってたのに聞いてなかったの!!!??アンタ副運転手でしょ!!??」
カーブを曲がり切って広大な草原に出てからも、責め続ける声は止まらない。
「あのリエラになんかされたんでしょ!!!!???なんで止めなかったの!!??」
「……知らねえよ!!」
これ以上、カインについて詮索されたくはなかった。あの夜を知らないリュカに何がわかるのだろう。
「知らないで済む話じゃないでしょ!!!!??何しらばっくれてんの!!??」
夏場も過ぎて色褪せ始めた草原には何の障害物もない。傾いた夕陽が穏やかに、鮮やかな緑色を失った野原を照らしていた。前方防御壁から強く吹き付けてくる風に髪が煽られて、視界に黒いノイズが入る。
「しらばっくれてるわけねえだろ!!!!!こっちだって好きで触られたわけじゃねえんだよ!!!!」
苛立ちは言葉となって口をついた。その勢いに押されたのか、リュカの言葉が一瞬だけ詰まった。
その隙をついて、カインの操縦とコース取りについて訊ねる。今だけは、機体に触られたことの責任の所在を言い合っている場合ではない。
「どうすんだ!!??いつもの感覚じゃ運転できねえ!!!指示出せ!リュカ!!!」
草原はずっと続いているように見えていたが、先に進めば進むほどに大きな裂け目のようなものが見え始めていた。恐らくその下には高い崖に挟まれた渓谷があるのだろう。粗雑な木製らしき看板に、裂け目に誘導するかのような斜め下向きの矢印が書かれているのが見える。あの中に飛び込むのが今回の正式なコースのようだった。
リュカは私の言葉を聞いてから、黙ったままだった。裂け目はどんどん近づいてくる。右手が不完全で思考もまともに集中できない今、左手だけで彼女の判断を読み取るのは困難だった。
「リュカ!!!」
「…………ノアだ」
「はあ???」
イヤホンから聞こえたのは、別の機体の名前だった。ノアなんて並走していない。何を言い出したのかわからず、詰問する口調になる。今はどうやってあの裂け目を攻略するかを聞きたいのだ。それ以上問い詰めようとすると、怒鳴りつけるような指示をされる。
「ノア!!!このハンドルの感覚!!!!これカインじゃない!!!ノア乗ってると思って運転して!!!あとはいつもと一緒!!!」
彼女の言葉を聞いて、一気にハンドルに対する違和感が腑に落ちた。単にカインと違うというだけではない。この軽さは、彼女の言う通りノア特有のものだ。
機体に対する不信感が溶けるように無くなって、思考がクリアになる。両目がきちんと前を向く。焦点があの裂け目に合う。
「裂け目は!!!??」
「このまま落ちる!!!上流行くか下流行くかわかんないから落ちてから決める!!!」
返事をする時間の余裕はなかった。両手で力いっぱいハンドルを握って、機体を上向きにする。エンジンの重さがイヴ、コックピットの大きさがカイン、操作性がノアのキメラと化したこのカイン1200では、直角に曲がるなんてことはできない。一度上昇してからきついカーブを描くようにして下る必要がある。前の崖を降りたときと同じ戦法だ。目の前をちょろちょろするあの真っ赤なノアはいない。存分に加速して落下できる。
裂け目がすぐそこまで来た瞬間に、機体を一気に下向きにする。カインの操作感で動かしてしまったため、リュカよりもほんの少しだけ動きが先走ってしまったが、それも束の間のことだった。
躊躇も何もなく、加速したまま崖に沿って落下していく。重量に引っ張られて、背中がシートから少しだけ離れる。シートに身体を固定するベルトに上半身が強く押し付けられて、息が苦しくなる。それでも、先ほどまでよりもずっと心は穏やかだった。分かりやすく命がかかっているこの瞬間が、一番幸せだと思った。
裂け目の中は予想していたとおり、渓谷だった。ごつごつとした大岩が転がって、水の流れも激しい。コースは下流に行くように設定されていた。速度を落とすことなく、ハンドルを操作して私が下になるように向きを変える。崖を降りるときに、普段よりも軽いハンドルのおかげでリュカよりも早く動いてしまったのを思い出し、慎重に操作する。
身体にかかる重力の向きが急激に変わって、少しだけめまいのような、頭の奥が痺れるような感覚を覚える。それですら心地よくて、口の端から笑いが零れる。無造作に転がる巨石に触れそうなくらいまで地面すれすれを攻めて、渓谷の先を目指す。下流が正式コースだと分かったのは崖の半ばあたりだった。崖の真ん中に白いペンキで雑な矢印を書くくらいなら、最初からレーサーに共有したほうがいいのではないかと思う。運営もその方が無駄な労働をしなくて済むだろうに。そう思うくらいには、余裕を取り戻せていた。
運転しながら、前にリュカと乗ったノア600の感覚を思い出す。あのときは安全志向で、最低限の加速といい子の典型のようなコース取りしかしなかったのに、今はどうだ。命すら軽いと言って投げ出さんばかりに危険なレースに、リュカは完全に身を投じてしまっている。その過去との乖離っぷりにも、なんだか笑いが浮かんでしまって、イヤホンにこちらの声が入らないようにして、一人で声を立てて思い切り笑った。右半身にかかり続ける強烈な重力が、愉悦を加速させていた。




