45. 消耗
女が立ち去ったのを確認した後、私は急いでカインの様子を見ることにした。さきほど女が立っていた辺りが一番怪しい。何をされたかなんて分かったものではない。あの調子では本当に中身まで弄っていてもおかしくない。機体の内部を触られたと考えるだけで、気が狂いそうだった。
エンジン部分に行く前に、先ほど右手で真っ赤にしてしまったコックピットの側面を見ることにした。手当した、と言ったのだから、ここも触られていてもおかしくない。茶色く変色した血液が固まって、周囲の塗装も何もかもが醜くなっている光景はなぜか想像できなかった。
立っている場所からコックピットはすぐそこなのに、足取りが重たくてならなかった。見たくない。このままこのカイン1200を廃棄品にしたい気持ちが心の中で頭を擡げたが、封殺した。次のレースはたった3日後、そこまでに新しい機体を買って心行くまで改造して塗装を終えるだなんてできるわけがない。
コックピットの前まで来て、深呼吸をする。あの女の甘い香りが鼻を掠めた。鼻のあたりに皺が寄るのが分かった。不愉快だ。シャッターは開けたままなのに、風が無いから換気にもならない。
恐る恐る側面を覗き込む。側面の状態が視界に入った瞬間、ガレージの天井を仰ぐこととなった。
やられた。
予想はしていたが、汚れはおろか、損傷まで修復されていた。塗装ですら完璧だ。私が丹精込めて塗り上げたあの黄色と黒が完璧に再現されている。やっていられない。エンジン部分の確認すらしたくなくなった。
鉛のように重たい足を地面に引きずるようにして歩き、側面の前に立つ。腫れ物に触るような手つきで、その側面を撫でた。もちろん左手だ。右手で触ることは、これ以上カインを汚すような行為に思えてできなかった。
表面はざらついた黒と、滑らかでオレンジがかった黄色だった。血痕どころか、あんなに荒れてしまっていた金属の表面が露出していたことすら感じさせないほどに、綺麗に修復されていた。目を瞑って、もう一度左手で機体を撫でる。カインであることは同じで、見た目も感触も同じはずなのに、初めて触る機体のようだった。知っているはずなのに、知らない機体のようで、頭が混乱する。
目を開けて、左手を強く押し当てる。心の中で問いかけることはしなかった。カインが、私たちのスズメバチが、前と違う答えを返してくるかもしれないことが、何よりも恐ろしかった。
コックピットの傍から離れ、エンジン部分へ向かう。女が立っていたのは副運転手とエンジンを繋ぐチューブの付近だ。あの女がナットを落としていたことが、ずっと気にかかっていた。もしかしたら、チューブの接続部に何か細工をされたのかもしれない。レース後の確認がほとんどできていなかったので、カインの状態は私にはわからない。わからないからこそ、何をされたのかが推測できなくて、心臓がばくばくした。接続部分を覗き込もうとしてしゃがみこむときに、膝についた両手が少し震えているのが見えた。私は、何を恐れて、何に怯えて、どうして震えているのか、それすらわからなくなっていた。
やっとの思いでしゃがみこんで、接続部分を見る。照明の陰になってしまっていて、うまく視認できない。左手で触れて、異常を確認する。今のところ、何か細工をされた様子は見られなかった。接続部分が緩められている様子もない。では、あのナットはなんだったのだろう。少しだけ安堵しながらも、疑念は消えなかった。次にエンジン本体を見に行く。立ち上がるときも、膝が笑ってしまって上手く立ち上がれなかった。機体に手をついてゆるゆると立ち上がる。こんな状態で次のレースに出られるのだろうか。そこだけが不安になった。
エンジン部分のカバーを何とかして持ち上げる。いつもよりも時間がかかるようだった。手も足も力が入りにくくなっていた。必死に重いカバーを上に押し上げて、内部を確認する。ガレージ照明だけでは見えにくいところもある。一旦カバーが上で固定されたのを見て、私はツールケースにライトと軍手を取りに行った。
いつも通り、ライトを持って一番奥の部分を覗き込む。おかしなところはない。今回のレースでは特に損傷や異常は出なかったのかもしれない。いやそれとも、女に整備されたからかもしれない。一瞬だけ目の焦点が合わなくなった。どこを点検していたのか分からなくなる。
捻じ込んでいた身体を引き抜いて、溜息をつく。これでは話にならない。整備は次回のレース前に回すことにした。このままの状態で続行するのは無理だ。
カバーをなんとか閉めて、ツールケースを片づける。照明を消し、シャッターを閉めて、鍵を掛けるのも忘れない。外の月は、ずいぶん上に昇っていた。




