44. 浸蝕
控え室に戻っても、人影を見ることはなかった。もちろんリュカの姿もない。一体どのくらいの時間をしゃがみこんだまま過ごしていたのだろうか。ロッカーからツナギと応急処置キットを引っ張り出して、椅子の上に放り出す。利き手を負傷しているので動作が不便だ。機体のように取り替えられたらいいのに、と一瞬だけそんな考えが頭をよぎった。
使い慣れていない左手で応急処置キットを開けて、消毒用アルコールと包帯を取り出す。右手にアルコールを乱暴に吹き付けると、顔を顰めたくなるような痛みが走った。流石にしみて痛い。アルコールを乾燥させるために軽く右手を振って、口と左手を使って不器用な動きで包帯を巻きつける。取り敢えずの目的は止血だ。応急処置なんてほとんどしたことはないが、鬱血しないくらいにきつく止めてあればいいだろう。
手の処置を終えてそのまま着替える。誰もいないのは分かり切っていたので、視線を気にする必要もない。控え室は静まり返っていて、外気の少し肌寒い空気が部屋の中を支配し始めていた。流石にインナーだけでは寒いだろう。急激な気温の変化は、服装を考えなくてはいけなくなるので嫌いだった。
着替え終わったらすぐさまガレージに取って返す。思考ができていなかったせいで、ガレージに鍵を掛け忘れていたのだ。早足が小走りになって、だんだん全力疾走になる。いつどんなことが起こるかわからない。カインに手を出された日には、地獄を見る羽目になるだろう。様々な不埒者や不審者が、私たちに危害を加えようとしていることは想像に容易いのに、それをすっかり忘れてしまっていた。
駆け付けたガレージに、人の気配はなかった。肩を上下させながら、開け放たれたままのシャッターの中に足音を立てずに踏み込む。照明は点けない。少しだけ欠けた月の光だけが頼りだった。上がりっぱなしの息を必死に潜めて、口で呼吸をする。口の中が妙に乾いていた。唾を飲み込む音ですら立てたくなかった。
シャッターで四角く切り取られて入り込んでいた月明かりが、すぱりと途絶える。ガレージの中は仄暗い。落ち着いてきた息を、鼻から吸いながら、耳を澄ませる。遠くから梟の声が響いていた。レース場の近くにあった木立から聞こえてくるのだろう。
鳥の声に意識を取られて、警戒心が解けた。ほう、と息をついてあたりをもう一度見回す。何の物音もしない。誰の気配もない。物が移動した形跡もない。開けたままのツールケースもそのままだ。
照明を点けようとして壁に手を伸ばしたとき、小さな金属音がした。まるで、ナットを落としてしまったときのような音だ。即座に振り返って音のした方に足を向ける。暗闇に慣れ過ぎてしまった両目は、明るすぎる照明のせいでほとんど使い物にならなかったが、音の感覚だけで歩を進める。声を張り上げる。
「誰だ!!!」
今日に限って、何も持っていない。仕方ない。丸腰で挑むしかない。カインの副運転手のコックピットの正面で足を止めて、様子を伺う。もしかしたら、私が警戒しすぎているだけかもしれなかった。
物音はしばらくしなかった。その間にも、目は照明の明るさに慣れていく。何気なく足元を見ると、コックピットの奥、エンジン付近に見覚えのない工具が落ちているのが見えた。
あれは、私のツールではない。
誰かが、ここにいる。
はっと息を飲んで、右足を踏み出そうとした瞬間に、幽鬼のようにエンジン付近に立ち上がる何者かの姿が目に入った。
無機質な蛍光灯の光の下でも、艶やかに輝く長い黒髪。前髪はない。切れ長でやや吊り目の両目に、真っ直ぐに通った鼻筋。唇の色はさっき見た血より紅かった。その顔には、見覚えがあった。
「……あのときの、主運転手…」
「…わたくしの名前すら、憶えてくださらなかったんですね。セイカさま。」
艶やかな唇が、優雅に滑らかに動く。
「…わたくしは、ずっと、想っておりましたのに。」
衣擦れの音すら立てることなく、女がこちらに近づいてくる。身に纏っている柔らかな素材のワイドパンツが、冷たく光を反射していた。
その一挙手一投足から目を離さない。ひたすらに睨みつける私の態度とは反対に、女はずっと妖艶で柔和な笑みを浮かべ続けていた。目の前までやってきた女は、私よりも頭一つ分ほど背が高い。痩身だが、女性らしい線の柔らかさと蠱惑的な雰囲気を携えていた。
顎を引いたまま、真っ黒な女の両目を見つめる。
「何してる」
女の頬が緩む。場違いにも、その表情にどことなく恍惚とした感情があるのを、私ははっきりと読み取った。
「あらあらあら…上目遣いだなんて…」
端から相手にされていないのが分かる答えだった。舌打ちをして、一歩踏み出す。少しだけ女がこちらの視線に合わせて屈んだのが、尚更苛立ちを加速させた。意表を突くつもりで、鼻先が触れ合うほどの至近距離まで踏み込む。女の両目が少しだけ見開かれて、ゆうるりと目尻が下がる。
「…何してるって聞いてんだ、答えろよ。」
瞬きをする睫毛が生む風すら感じ取れそうな程近づいて、もう一度問う。呼気が顔に当たるのが分かる。女の付けている香水の甘ったるい香りがして、頭が痛くなりそうだった。女はくすくすと軽やかな、鈴の鳴るような笑い声を上げて、私の顔に手を伸ばしてきた。夜風で少しだけ冷えた、ほっそりとした指が顎を擽る。身体が寸の間びくついたが、逃げることは選ばなかった。
「遊びに来ましたの。お嫌でして…?」
吐息混じりの声が耳元で囁かれる。そのまま腰に腕を伸ばそうとして来ているのが視界の端に見えたので、はたき落として距離を取る。
「嫌に、決まってんだろ」
至極残念そうな素振りを見せて、女も引き下がった。
「残念……今夜こそ、と思いましたのに…」
「いいから質問に答えろ。うちのカインに何した?」
ここで語気を弱めてはいけないことくらい、本能で分かっていた。女の空気に飲まれてはいけない。カインを守らなくてはいけないのだ。
「何って…そんな…」
ふふ、と笑いながら、女はうっそりとした表情を浮かべた。ころころとよく表情を変えるものだ。見ていて不愉快だった。
「手当してあげた、だけですのに…」
顔から血の気が引くのが分かった。この女、最初からすべてを見ていたのだ。私の醜態も、何もかも。
先ほど右手で血を塗り広げた機体の側面に慌てて踵を返そうとすると、女に右手を掴まれる。あまりにも強い力に、痛みが走って顔が歪む。振り払いたくても、痛みでうまく動かせない。歯を食いしばって振り向く。
相好を崩した女の顔が目の前にあった。真っ赤な唇から覗く、綺麗な歯並びの真っ白な歯の奥で、蛇のように舌が蠢くのが見えた。
「もう、忘れないでくださいましね…?セイカさま。わたくしの跡は、このカインに、刻みましたから…」
そのまますう、と包帯を巻いた右手をなぞり上げて、女は私から離れて行った。また音も立てずに歩いていき、エンジン付近に置かれている道具を流麗な動きで拾い上げる。ナットも回収していた。その動きから視線を離せずに、棒立ちになったままの私に近づいて、先ほどよりも優しい手つきで右手を握られる。
「それではまた、次のレースでお会いしましょうね。」
甘い残り香をあとに、女はガレージを出て行った。
両手で包み込まれるように握られた手が、どうしようもなく気持ち悪かった。




