43. 代償
ガレージについて、カイン1200と向き合う。普段なら機体を前にすればすぐに作業に集中できるのに、今日はなぜかうまくいかなかった。並列するガレージから聞こえる他のレーサーや整備士の声が、異様なほど煩わしい。ヘアピンカーブで擦った機体の部分を見ていても、いつものように思考が回らない。深呼吸をしようと思うのに、脳裏でレース場に投げ込まれたあの発煙催涙弾の煙を思い出して、息が吸えなくなる。浅い呼吸を繰り返して、必死に機体に右の手の平を押し付ける。火花が散るほど擦ったために塗装は無残にも削り落とされて、下手をすれば手を切ってしまいそうなくらいに表面が荒れていた。目を閉じて、無心になろうとする。先ほどのレースを、思い出すのだ。ショートカットを通るときのあの高揚感を、他の機体を追い抜くあの興奮を、レース場に着いたときの、あの、緊張を。
そこで目の前が真っ暗になって、膝から崩れるようにしゃがみこむ。酸欠だ。息が吸えない。パニックになっているということは、頭の中で妙に冷静に分析できた。それなのに、身体の反応が思考に追いつけない。機体に押し付けていた手の平を、擦りつけるようにして、あるいはしがみつくようにして、目の高さまで滑らせる。痛みなんてわからなかった。左手で服の襟元を掴む。息が苦しいわけではない。呼吸ができていないわけではない。ただひたすらにそう思いたかった。きっと、作業用のツナギに着替えてこなかったから、息苦しく感じているだけだ。そう思い込んだ。そうするしかなかった。
遠くから聞こえる人間の声が、頭の中にわんわんと響いてくるようだった。決して大声でも叫び声でもなんでもないはずなのに、苦しさに拍車を掛けてくる。これがエンジン音だったなら、どれほどよかっただろう。こんなに不快になるノイズなんて、もう聞きたくなかった。耳を塞ぎたかった。でも、機体に押し付けたままの右手も、服の襟元を掴む左手も、言うことを聞かなかった。目はずっと開けられていなかった。視覚情報すらもノイズになりそうだった。あのちょろちょろと動く人間どもの動きが視界に入ってしまったら、本当に発狂しかねない。レースに出られなくなりそうなことが、今は何よりも恐ろしかった。
五感の全てを、目の前にある、右手が触れているカイン1200だけに集中させる。声も、香りも、視覚も、感覚も、いっそ味覚すらも、全てカイン一色にしてしまいたかった。唯一、機体に触れている右手の感覚を探る。ひんやりとしてざらついた金属の表面だ。目は閉じたまま、手を左右に動かして機体を撫でる。右に動かせば、感覚は荒いザラつきのあとに、滑らかになった。左に動かせば、滑らかな触り心地から、荒くざらざらしたものになった。何度か手をゆっくりと往復させて、自分が塗装した色合いを思い出す。ざらついた黒と、艶やかなオレンジがかった黄色。
そうだ。
カインは、スズメバチだ。
他の生き物の頂点に立つ、生態系の王者。
生きとし生けるものの命を脅かす災厄の蜂。
そして、生態系の均衡を守るもの。
そこにまで思考が至って、ふっと肩の荷が軽くなったような感覚を覚えた。息が吸えるようになる。肺いっぱいに息を吸い込んで、ゆっくりと口から細く吐き出す。それを何度か繰り返せば、いくぶん身体が制御できない感覚は収まったようだった。左手をゆっくりと解く。襟元を軽くはたいて、皺を伸ばす。押し付けていた右手を離す。最後に、薄く目を開ける。眠ってしまいそうなほどの速度で瞬きをして、きちんと目を開ける。目の前は真っ赤になっていた。生臭くて鉄臭い匂いが漂う。
「…やっちまった……」
右手の感覚すら薄れていたので分からなかったが、まず最初に押し付けた段階で手の平は盛大に切れていたらしい。右手を動かした部分すべてに、血がべったりと塗りつけられていた。
恐る恐る、右手を見る。これだけ出血しているということは、相当深く切ってしまっているだろう。自分の手なのに、妙にぎこちない動きで手の平を上に向ける。回転していく手首から視線が離せない。
手の平はずたぼろになっていた。よくもまあこれで何も気付かなかったものだと、衝撃を超えて呆れてしまった。実際に負傷しているところを見ると、手の平全体がなんだかじんじんと傷むような気がしてきた。消毒して手当をしなければ、ハンドルが握れなくなってしまう。
なんとかして立ち上がる。どうせ自分で清掃して整備までするのだからいいだろうと思い、傷を負った右手を機体について姿勢を立て直す。膝が笑ってしまっていて、歩き出すのも大変だったが、機体に身体を預けるようにしてじりじりとガレージの壁に向かっていく。壁には簡易的な水道が取り付けられている。万が一、化学物質が粘膜に触ってしまったときに応急処置をするためだ。
自力でふらふらになりつつも小さなシンクまで辿り着き、上半身をもたれかからせて手を洗う。水は冷たかった。それだけは感じ取れた。
ざばざばと蛇口から出る水に、無造作に右手の手の平を突き出して洗う。瞬く間にシンクは赤く染まった。しばらく何も考えられずに流水を掛け続けていれば、もたれかかっていた部分の服が水没してしまっていた。
まとまらない思考のまま、着替えを取りに控え室に向かうことにした。なんにせよツナギの方が便利だ。
ガレージには、もう誰も残っていなかった。




