42. 摩耗
しばらく経ってからも、他のレーサーたちが戻ってくる様子はなかった。その間も、私たちの間に会話はなかった。リュカは端末を弄り続けている。私はその向かいの椅子に座り、薄汚れた壁を見上げてぼんやりしていた。
脳裏をよぎるのは、やはり先ほどの発煙弾だった。あれは、明らかに私たちに向かって投げ込まれたものだ。あの席に座っていた集団を見つめていたら、あんな事態になったのだ。後続のイヴがやってきたのは、あの観客たちにとって誤算だったのではないだろうか。それにしても、レース中にも私たちを狙ってあれを投げ込んだに違いない。レース中の疑念は、確信に変わっていた。敵は他のレーサーと運営だけではない。運営の掌の上で踊らされている観客も、レース中に牙を向くコースも、何もかもが敵だ。安心できるのは、もう機体のコックピットの中だけだと思った。今こうしている控え室であっても、完全に心を休めることはできそうになかった。
すると、扉の方から小さな音が聞こえた。視界の端で、リュカの肩が跳ねたのを見て取った。姿勢を即座に正してそちらに視線を固定する。誰が来てもおかしくない。警戒をするに越したことはないだろう。呼吸が浅くなっていた。
ガチャ、と音を立てて入って来たのは、あのアンナとスミスだった。強張っていた肩の力が少しだけ抜ける。彼らなら、多少は安心できる相手だ。リュカもそう思ったのか端末を伏せて、どこか取り繕ったような明るい声で話しかけていた。
「お疲れ様です!」
以前よりもやや緩慢な仕草で、アンナはそちらに顔を向けた。2人とも疲労困憊の表情を浮かべている。彼らもあの騒動に巻き込まれたのだろうか。
「ああ、リュカ、アンタ、ここにいたンだ…」
「ええ、一足先に戻りました!」
アンナの様子に気付いているのかいないのか、リュカは先ほどと同じ調子で返していた。妙に凪いだ感情を滲ませる声と、作り物の弾んだ声が、アンバランスに控え室に反響する。
私はその会話から意識を外した。聞いていても仕方ない。また斜め上を見上げて思案に耽る。あの観客の行動は、誰が許可したのだろう。いや、許可も何もあるわけがない。ドルーズドでは観客が良しとすれば、何をしても許されるのだ。どうにもそれを忘れてしまう。あまりにも自分の持っている道徳観と外れ過ぎた世界では、擦り込まれてきたはずの鉄則ですら意味を為さなくなることがあることを、初めて知った。
気付けば、同じ椅子の反対側にスミスが座っていた。項垂れている。リュカとアンナはやみくもに気力を消耗するばかりであろう会話に興じていた。視線だけスミスの方にやってから、思い直して身体ごとそちらに向けてなんとか言葉を絞り出す。
「…何があったんですか」
スミスは視線すら上げずに、辛うじて聞き取れる程度の大きさの声で短く答えた。
「………発煙催涙弾だよ、おまえら、知ってンだろ」
それに答えるだけの言葉は、すぐには見つからなかった。私たちに目掛けて投げ込まれたあれが、他のレーサーにここまで被害を出している。私たちは何も悪くないはずなのに、なぜか罪悪感に駆られた。視線が下を向く。自分のドライビングシューズと、色褪せた椅子の淵との間を往復して、椅子の脚についた泥汚れに気が付いた。答えるための手がかりに、決してなり得ないはずなのに、そこにばかり注意が向いてしまう。視線を引き剝がして、スミスの足元を見つめる。目を見る気にはなれなかった。
「…そんなに、被害、出たんですか」
返事が聞こえるまで、時間がかかった。不安に駆られてスミスの顔を見ると、どんよりとした両目が見えた。あの夜に見たあの男の目よりも、底知れない恐ろしさと憎悪の欠片を見た気がして息が詰まった。しかし、その雰囲気は瞬きの間に霧散して、スミスは前に見たような穏やかな視線を投げかけていた。
「……2着のレーサーがあれのせいでリタイア、3着が救護室、観客はパニック、そっから先は俺らを見りャア、分かんだろ」
阿鼻叫喚に巻き込まれた、ということだろうか。
「…そう、ですね……」
もう言葉を続ける気にはなれなかった。スミスが立ち上がり、いつの間にか会話を終えていたアンナと連れだって控え室を出ていこうとする。それを視線で追っていると、出る間際にアンナが私たちの方に向き直って、能面のような顔をして囁くような声で告げた。
「ただで済むと、思うンじゃないよ」
何かしらのリアクションをするのも億劫だった。そのまま立ち去るアンナから視線を外して、このあとの整備について考える。損傷部分が多ければいい。作業に没頭できれば、この気怠さも、息が詰まりそうなレース前後の事も、敵対関係にある他の存在の何もかもも、忘れられるような気がした。
端末を一定のリズムでスワイプし続けているだけのリュカに、声を掛ける。
「…もう整備行くから」
「………あとで行く」
彼女の注意は一切こちらに向けられていなかった。それに返事もせずに、ロッカーからツールケースを引っ張り出して控え室を出る。ガレージまでの距離が、普段よりもずっと遠いように感じた。




