37. 初戦・後
レース場では、ほとんどの機体にレーサーたちが乗り込んでいた。整備は完璧だと伝えてあったので、そのままコックピットへ向かう。隣に並ぶのは、ガレージで声を掛けられたあの男女の機体だ。リュカも見覚えがあるようで、まだ乗り込んでいなかった2人に少し声を掛けていた。
コックピットから見える景色はいつもと変わらないはずなのに、なんだか心を落ち着かなくさせた。きっと緊張しているだけだ。イヤホンを右に嵌めて、身体を震わすエンジンの挙動をシートから感じ取って、浮遊感を覚えた後は、いつもと同じだ。ブレーキハンドルを軽く握り、アクセルペダルを踏んで状態を確認する。手袋をして、メインハンドルを握る。リュカの声が聞こえた。
「聞こえてるよね?」
「うん」
短く返す。普段通りの手順を踏んでいるはずなのに、この心がざわめく感覚はなんだろう。
「今日、信号無いみたいだから、ちゃんとウチの声聞いててよね?」
衝撃が走る。言葉が出てこなかった。そんなことがあり得るのか。手元から視線を上げて前に向き直る。言われてみれば確かに、頭上に見えているはずの信号が点いていなかった。私たちとは反対側に、旗手の姿が見えた。私からはその姿はほとんど見えない。リュカの方がまだ見えるかもしれない。
時間は刻々と進む。観客を煽り続ける実況解説が、信号異常について伝達していた。
「本日は突然の信号異常により、旗手のみとなります!!!レーサーたちは、遅れずに発進できるでしょうか!!??」
スリーカウントもないのだろうか。あまりにも、私たちに不利ではないか。
「ああいうもんなの?」
主語も省いて、リュカに問いかける。オフィシャルではもしかしたらこういうこともあったかもしれない。それを期待して聞いたが、返答は芳しくなかった。
「こんなのやったことあるわけないんだから、知ってるわけないでしょ!?まじでうざい!!」
不条理な状況に、彼女も苛立っているようだった。
実況解説が高らかに告げる。
「それではスリーカウントはこちらで行わせていただきます!!!では参りましょう!!!観客の皆さまも声を揃えて!!!3、2、1!!!!」
指示を聞くよりも先に、身体の方が動いていた。アクセルを一気に踏み込む。ハンドルが重い。まだ加速が足りない。視界の左端には、先行する機体がいくつか見えていた。
ギアを上げていく。半分くらいまで上げたところで、右に曲がるヘアピンカーブが見えてきた。
「そこインコース!!!」
返事をせずに、運転で示す。思い切りギアを上げて、先行する機体に接触するところまで攻め込んで、カーブに入り込む。右にハンドルを回し切って、急にブレーキを掛ける。右側に叩きつけられんばかりの重力を感じるが、ブレーキハンドルとメインハンドルを握りしめてそれに耐える。一機追い抜いて、緩やかな直線の坂道を下っていく。ギアはもう少しで全開だ。
目の前を走る機体が、その加速を邪魔していた。わざとらしく速度を落として、後続の私たちに接触するようにして妨害を仕掛けて来る。けばけばしい赤色で塗装された、ノア600だ。道が狭いので、左右から追い抜くこともできない。
大きく舌打ちをする。リュカにも聞かれていたらしい。
「ウチに当たるの止めてくんない!?」
「お前じゃねえよ!!」
苛立っていたので怒鳴り返す。カイン1200の前でちょこまかと動き回るノア600が、今までにないほどに私を掻き乱した。
ノア600に気を取られていたため、目の前から突然消えたそいつに、肝を潰すこととなった。ノア600の代わりに現れたのは、青空だ。ここは崖だ。
「リュカ!!!!」
「分かってる!!!」
超重量級のエンジンを積んだカイン1200が飛び降りるのには、浮力装置を操作する彼女の協力が必須だった。一瞬でも判断を誤ればクラッシュだ。
コックピットを下向きにして、地面に向かってアクセルを踏み込む。赤いノア600が目の前にいる。邪魔だ。
「下から行く!!!」
ノアよりも重いカインらしい戦法だ。地面への加速だけで言えば、私たちの方が早いのは当然のことだろう。
崖に這うようにして地面を目指す。躊躇してはいけない。今だけは瞬きも許されない。目測で当たりを付けて機体を上向かせる。
リュカ、頼む。
身体が動けなくなりそうな程の、息もできなくなりそうな程の重力を感じる。ハンドルが重たい。それでもアクセルを踏む足は止まらない。
「………よっっっっしゃあ!!!!!」
エンジンがバウンドしたのを感じる。
右耳から歓声が聞こえた。
成功だ。
ノア600はクラッシュが恐ろしくなったのだろう、ずいぶん上空を走っていた。地面寸前で持ち直した私たちの方が先行していた。リュカは浮力装置を上手く作動させたようだった。
少し下げていたギアを、迷わず全開にする。先行していたはずのあと1機は見えなかった。
「次もあれやるから!!!あとそこショートカット!!!」
左手に、いかにも誂えたかのような切り立った岩肌の隙間が見えた。直角に切り出された岩が、こちらに刃を向けているように錯覚した。
「機体は!!??」
どちらのコックピットを下にするのか。それによって運転が変わる。
「アンタ下!!」
それを聞いてほんの少しだけアクセルを緩める。機体から読んだ方が早いのは事実だが、彼女を混乱させたくはなかった。コックピットを垂直に回転させていく。ハンドルが軽い。
私たちはその隙間に吸い込まれるようにして、機体を捻じ込んだ。日差しが途絶える。視界が暗くなる。それでも加速するのが止められない。身体がシートからずり落ちそうだったが、ハンドルに捕まって姿勢を元に戻す。うねるように進んで行った先の視界が、明るく大きく開けていた。
隙間から飛び出して、機体の向きを戻す。やっと一息つける。霞む視界の先には、レース会場が見えていた。先行する機体は、見えない。恐らくショートカットをしていないのだ。
手も足も緩めることなく、会場を通過する。スクリーンのトップに映るのは、カイン1200の文字だった。
そうして、初戦を、私たちは勝ち抜いた。セカンド・ラップも、ファイナル・ラップも、誰もついて来れやしなかった。機体異常も、人的異常も顧みずにただひたすらに優勝に突き進んだ私たちを、観客は音が割れんばかりの歓声で迎えた。聴覚がおかしくなりそうだったので、観客に手を振り続けるリュカを引っ張るようにして控え室に戻っていく。私だけ戻っても良かったが、彼女に変な誤解をさせたくはなかった。
「すげえうるさかった………」
「アンタああいうのほんっとだめだよね~」
目を瞑って椅子に深く腰掛ける。頭を抱える。耳の奥で歓声が未だに反響していた。人の声はやかましいから好きではない。
けろりとした表情で端末を弄るリュカが、突然弾かれたように顔を上げる。
「あ、今日このあとの整備行くから!!」
「はあ……」
返事をするどころではなかった。好きにすればいい。
表彰式がなかったのが幸いだったかもしれない。一着でゴールインしたあと機体から降りてすぐに逃げるように控え室に戻ってきたが、あのままレース場に居続けたら本当に気が狂っていたかもしれなかった。
優勝後だというのにあまりにもぐったりしている私と、とんでもなく生き生きとしているリュカだけで控え室を占領していると、荒々しい足音が聞こえた。乱暴な手つきで扉が開けられ、勢いよく閉められる。
やって来たのはやはり、先ほどの男たちだった。
「ふざけんなよこのくそアマが!!!」
「俺らのノアどうしてくれんだよ!!!」
セカンド・ラップのときに、ファイナル・ラップのために仕掛けた妨害に、彼らは見事に引っかかったらしかった。人工物の少ないコースだったので悩んだが、結局いつものようにコース脇の道路標識を破壊することにしたのだ。ダブルスチールに標識を引っ掛け、バウンドさせてそれを振り落とした。大した妨害にはなりはしないだろうと思っていたが、なんとまあ上手く行ったらしい。
片割れに胸倉を掴まれて立ち上がらせられる。リュカは見事にそれをはたき落として避けていたのが見えた。
「返事ぐらいしたらどうだ!!!」
「うるせえ……」
大音量を浴びせられ続けて正気でいられるほど、私も繊細ではない。頭が痛かった。休ませてくれ。殴り倒してもよかったが、こんなところで人的異常なんて起こしたら失格にさせられかねない。穏便に済ませなければ。
襟を掴んでいる相手の右腕が真っ直ぐ伸びるように身体を右に回す。相手が目を見開くのが見えた。それでも手の力が緩んでいなかったので、左腕を相手の右肘に直撃させる。一瞬で右手から力が抜けて、相手が倒れ込む。
それを呆然と眺めていたもう一人の男が駆け寄る。
「兄貴!!!」
「だっさ……」
端末を片手にリュカが呟く。
彼女の元に足早に近寄って、隣に並ぶ。もう勘弁してほしかった。
呆れた目で彼女に見られる。あからさまに溜息をつかれる。
「アンタあれで終わりなの?」
「これ以上やったら失格にされそうだった」
「あっそ……」
そう言うなり彼女の視線は端末に固定されてしまった。男たちが何か喚いているが、一切耳に入らないようだった。私も聞かないことにした。
そうこうしているうちに、レース前に隣に並んでいた機体のレーサーがやってきた。それを確認するなり、リュカはそちらにすっ飛んでいった。
「アンナさん!!スミスさん!!!ご無沙汰してます~!」
「おお~今日もやってンねえリュカ」
「ウチじゃないです~!」
楽し気に会話する細身の女性ことアンナと、リュカを見つめていると、あの長身の男性と目が合った。名前を聞いたのも、これが初めてだった。
「おめェがやったのかよあれ」
曖昧に頷く。やかましかった男たちがいつの間にか黙っていたことに、今更ながら気が付いた。
「……ほどほどにしとけよ……」
明らかに私の後ろに視線をやりながら、スミスが脅すような口調で言っていた。どことなく圧力を感じる。気のせいだろう。
他のレーサーが全員帰ってくる前に、私たちはガレージへ向かうことにした。私がもう人の声に耐えられそうになかった。




