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ある日、レース前の整備をガレージで行っていたときのことだ。時刻は昼過ぎ、あと数時間もすればここも観客の声が届いて賑やかになるだろう。先日のレースで他の機体にぶつけて剥げてしまった塗装を塗り終えた頃だった。ガレージでは聞いたことのない、鋭い足音が聞こえてきた。足早に歩いている。刻まれる靴音のリズムが早い。そしてこちらに向かってきている。音のする方を振り返った。
「こんな早くに来んの珍しいじゃん」
やはりリュカだった。その手に何かチラシのようなものを握って、小走りにこちらにやってきていた。危なっかしいピンヒールだったが、躓くこともなく私のもとにやってくると、その手に握られていた紙を広げて見せつけてきた。
「これ!!!!」
手に取って詳細を読み込む。紙の一番上で大々的に踊るのは、あのレースの名前だった。
「トカラ杯、出るから!!!!」
彼女の出で立ちを眺める。最近新調した、揃いの黒のジャケットに、今日は黄色い縁取りが施されたレザーミニスカートを合わせていた。ジャケットの袖部分に入れられた黄色の腕章めいたラインと、スカートの縁取りの色がよく映える。ヒールはエナメルだ。気合が入っている。
「今日勝てたら、でしょ?」
トカラ杯―父さんの名前を冠した、ドルーズド・レース唯一のグランプリ・レース。そこに出場するには、数あるレースで常に成績を残し続けることが必須だった。そして、今日のレースが、そのなかでも最も比重が重い。ここまで優勝を積み重ねてきた私たちなら、きっと、恐らく起こらないだろうが、2位以下になってしまっても、グランプリには出場できるだろう。それでも、グランプリ出場時に有利な立場に立てるようになるとは限らない。今日優勝できれば、確実にグランプリには出られる。今日は、出場が確約されるレースなのだ。
軽く鼻を鳴らして、リュカは私の発言を一蹴した。
「そんな弱気でどうすんの?下剋上担当から逃げんの?」
口元が吊り上がるのが分かった。最近になって、彼女は遠慮のない物言いをするようになった。ゴシップ誌に載る大衆のための煽り文句を、私を煽るために躊躇いなく使ってくる。
「はっ、枕営業担当に言われたくねえな」
こちらも同じ手に出る。それを聞いた彼女の目付きがあくどいものに変わる。口の端が野蛮に吊り上がる。普段の柔らかな笑みの欠片なんて、どこにも見当たらなかった。
私が手に持つチラシを指さして、高らかに宣言する。
「絶対に、出るから。パパ…イズモに、勝つから。」
目を眇めて、彼女を見つめる。はっきりと言い切る姿が、なんとなく眩しく見えた。
普通なら、ずっと頂点に立ち続けている、あのイズモとスサミに勝つなんて、不可能だ。トカラ杯が創設されて、もうすぐ二桁の年数が経つが、レースで彼らが残す記録に、どの機体も遠く及ばなかった。
言い切った彼女の視線が、一瞬だけ揺らいで、また元に戻る。
トカラ杯にだけ必ず毎年出場するあのカイン3000は、創設以来ずっとその玉座から引きずり降ろされたことはない。彼らは、絶対王者だ。その伝説を、彼女は、私たちで塗り替えようと宣言したのだ。
右足重心になっていた身体を、きちんとまっすぐに立て直す。両足を地面に付けて、リュカの顔をしっかりと見る。
「スズメバチだもんな?」
挑発を続ける。彼女の闘争心に薪と油をくべてやる。そうだ、もっと燃えればいい。もっと、レースにのめり込めばいい。
ほんの少し目を見開いて、また悪い笑みを戻した彼女の艶やかな唇から、言葉が零れる。
「当ったり前でしょ?」
「ウチらは、女王蜂なんだから。」
その目は、私よりもずっと、レースに狂わされた、獣の目だった。
コックピットに乗り込んで、機体の調子を確かめる。ブレーキハンドルを軽く握り、アクセルペダルを踏む。上々だ。
コンコン、と二度だけイヤホンを叩かれる。
信号シグナルが3つ、2つ、1つ。
それが消えると同時に旗が振り下ろされる。
その瞬間にアクセルを踏み込む。
レースが、始まる。
普段よりも、リュカの判断は早く、鋭く、凶暴だった。以前の彼女が知ったら、卒倒するのではないだろうか。場違いにもそんなことを思った。いつもよりも接戦の様相を呈するレースで、私たちは様々な妨害を仕掛けた。
背後に迫る機体には、エンジンを限界まで蒸かして煙幕を。踏み込むアクセルは、これ以上なく軽かった。
追い抜かれそうになったら、コースごと破壊してショートカットを。古ぼけた看板を吹き飛ばして、機体が大きくバウンドする。メインハンドルを握りしめる手のひらが、真っ白になる。
ずっと後ろにいる機体に向けて、コースの攪乱を。目の前に立ちはだかる細い柳の木を、超重量級のエンジンを積んだスズメバチがなぎ倒す。豪快な音を立てて、そのしなやかな枝葉を振り乱して、木は倒れていった。
攻められるルートは全て攻めて、誰も追いつけないように。狭くて急なカーブを描くルートを通るときに感じる、横向きの重力が、心地よかった。
そうして、私たちはいつも通り、優勝を飾った。
トカラ杯に出る準備は、整った。




