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カインシリーズは、手がかかることで有名らしい。リュカから聞いた話だ。だからシリーズは1000番台で生産終了となったそうだ。
まだ観客はおろか、レーサーや整備士もいない早朝から、レースのガレージでカイン1300と向き合う。日も登り切っていない時間だというのに、リュカは律儀に控え室で私を待っていた。椅子に座って、居眠りをしていたので肩を揺すって起こし、機体の元へ案内してもらう。
「ねむ……さむ……」
メイクはきちんとされているものの、ほぼ目が開いていないに等しい。服装も普段のような華々しさはなく、部屋着のようにだらしのない格好だ。靴ももちろんノーヒールだ。こんなこともあるのか。ガレージに着くと、目を擦りつつも彼女は私に機体の紹介をしてくれた。
「これ……カイン、1300……整備は、たまに…してもらってたから……たぶん平気…」
欠伸を時々挟みながらも、機体の情報を教えてくれる。外側を見た感じでは、ほとんど乗られていない機体なのではないかと思った。大きな傷や酷い汚れが見当たらない。
「どのくらい乗りましたか?」
「昔、買ってもらったけど…3回くらい、しか……乗ってない……レース出てない……」
練習用の機体だったということだろうか。それなら損傷が見られないのも納得がいく。
「リュカさんが整備をしたことは?」
「……あるわけ……」
もう目が開いていない。会話を早々に切り上げて、彼女を帰すことにした。レース中に居眠りをされては困る。開始するのは夕方なのだ。二度寝でもなんでもすればいい。
「ねる……じゃあね……」
ふらふらとしながら出口に向かっていく彼女を最後まで見送り、私は背中に背負っていた角ばって重たいツールケースを地面に下した。肩が凝りそうだ。首をぐるりと回す。本来なら専用のケースがあるのだが、中古でツールをバラバラに買い揃えた私は、そんなものは持っていなかった。
整備よりも先に、コックピットを観察することにした。実際にレース中に乗ることになるのはこちらだけだ。シートには座らずに、手をついて首だけ突っ込んで計器周辺を眺める。前に乗っていた、2500と大きな違いはないが、多少視認性は上がっていた。それでもデジタル表示のものは存在しない。前と同じ感覚で乗っても問題はないだろう。ギアレバーも、ブレーキハンドルも、位置は変わっていない。シートの感覚はどうなのだろう。手をついた感じでは、前ほど骨組みの金属を感じられない。クッション性が増したのだろうか。そこについては、あとで乗って確かめることにした。
申し訳程度にイヤホンも搭載しているのが見えたので、音質を確かめる。主運転手からマイクイヤホン、副運転手からイヤホンを、コックピットからそれぞれ持ってきて、電源を入れる。試しにマイクに向かって声を出して聞いてみると、案外綺麗に聞こえた。ノア600ほどの明瞭さは無いが、ザラついて聞き取れないほどではない。
一通り見終わったので、内部の観察は一旦やめにした。一歩引いて機体全体を眺める。コックピットには、前方防御壁が付けられていた。2500との大きな違いはここだろうか。これなら遮音されることもなく、スピードを感じることもできる。ノア600ほど満たされない感覚を味わうことはないだろう。ダブルスチールは少し太くなっているように見えた。頑丈さが増したのだろう。さて、整備に移らねば。
エンジン部分のカバーを力いっぱい押し上げる。ここが一番重労働かもしれない。手の平が真っ白になるまで持ち上げて、思いっきり上に向かって手を離す。少しぐらついて、見上げる位置でカバーが固定された。これで内部を見ることができる。
内部は記憶にあるものとそっくり同じだった。2500と配置が変わっていない。これなら苦戦することもなさそうだ。オイルが染み付いて真っ黒になった軍手を嵌めて、エンジン周辺の部品に触れる。ガタつきもぐらつきも見られない。大切にされていたのだろう。余計な汚れも見られない。前の2500はすぐに機嫌を悪くするので扱いが大変だった。それに、最初は機体弄りに慣れていなかったために、よくあれこれ零しては大変な思いをしたのだった。懐かしい記憶を思い返しながら、細かいところまで観察する。
日が登り始めていたが、奥の方は少し見づらい。軍手を外し、ケースから細いライトを取り出して点ける。口に咥えて、軍手を嵌めて奥まで覗き込む。目を細める。本当はもっと明るいライトがいいが、他のツールが多すぎてケースに入らなかったのだ。角度を変えながら、余すところなく様子を見る。一番奥の方で、何かが煌めいたのが見えた。そんなはずはない。あんなところで金属の反射が起こるはずはない。
咥えていたライトを左手に持って、反射が見えたあたりを照らす。ギアの接続部分だ。そこのボルトが緩んでいた。ああ、扱いにくさは2500とあまり変わらないかもしれない。こうやって見えにくいところで機嫌を損ねているのだ。
隙間に捻じ込んでいた身体を引き抜いて、ツールケースから小ぶりなスパナを取り出す。本来ならエンジンごと取り外してボルトを締めるべきなのだが、今そんな手間は掛けられない。ボルトを締めることができる規格のぎりぎりのものを選んで、またエンジンの隙間に入り込む。ライトは口に咥え直した。両手は空けてあった方がいい。
緩んでいた箇所を照らす。首が痛くなりそうだ。手早く直そう。左手で緩みを確かめ、右手で握っていたスパナで締めに掛かる。片手で締め切れるような代物ではない。両手を使ってなんとか締めあげる。首の後ろが痛かったが、ここで作業を止めてしまっては、どこまで締めたのか分からなくなる。無心になってスパナを回す。
全力で回しても動かなくなったのを確認して、なんとか身体を引き抜く。ライトを外して、首の前と後ろを伸ばす。目をきつく瞑って、開ける。薄暗いところで作業したのも相まって、視界がちかちかした。
一度仕切り直して、また中を覗き込む。他の部分に違和感は見られなかった。まだ新しい機体だからだろう。
全体を見下ろして、確認をする。おかしいところは見られない。あとはエンジンを掛けて、音を聞いて異常を割り出すだけだ。そこで何も無ければクリアだ。
両手を伸ばして、カバーに指を掛ける。全体重で引き下げて、思い切り叩きつけるイメージで下ろす。バン、と強い音がしてカバーが閉まった。
主運転手のコックピットに向かい、エンジンを掛ける。浮力装置はまだだ。聞き慣れた音を立てて、エンジンが始動する。この音が無くては始まらない。レース中でもないのに気分が高揚する。身体に悪そうな排気の匂いがする中で、深く息を吸い込む。下手なドラッグより効きそうだ。
目を閉じて耳を澄ませる。地鳴りのような重低音が響く。10秒、20秒、30秒、1分、2分……それだけ経っても異音は聞こえなかった。異常はないようだった。
次は浮力装置だ。機体の近くにいては危険なので、主運転手のコックピットに乗り込んでから起動させる。独特の浮遊感を感じたあと、機体は問題なく持ち上がった。巻き上がる風に、乱雑に結んだだけの髪が乱れる。音も感覚もおかしくない。
浮力装置を切る。そのあとエンジンも切った。機体は徐々に静かになり、最終的には完全に沈黙した。
あとやることは、一つだけだ。




