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私が賭けるレースに、時折ノア600は出場していた。レーサーまでは見ていない。時によっては複数台出場していることもあった。そのおかげか、私が学生の頃よりも、ドルーズド・レースそのものが大人しくなったように感じられた。
実際に乗ってみて、その最新機種らしさを感じた後でも、私はノア600に賭ける気にはなれなかった。やはりどの機体も直線の加速が遅い。それに、注意深く見るようになって気が付いたが、軽量化が施された弊害で急カーブも曲がりにくいようだった。しかし、機体異常や人的異常はほとんど見られなかった。
それに比べると、古い機種でもカイン2500と似た重量級の機体の方が、安全性は低くとも良い成績を収めていた。派手にクラッシュしたり、機体異常で火を噴いたり、それによって人的異常が起こったレースもたびたび見かけた。それでも、表彰台に登るのは、そうした機体が多かった。
その日もいつも通り、客席の最前列で、超重量級の機体であるイヴ950に賭けていた。エンジンを蒸かして並ぶ機体をじっくり眺めながら、もっとも賞金が賭けられたイヴ950を見つめる。これで今日に限って調子がおかしかったら困る。ここまで必死に貯めてきた金のほとんどを賭けているのだ。今度買う機体はやはり重量級にしたかったが、中古でも安くはない。
イヴ950を観察していると、その横に見覚えのある機体が並んでいるのに気が付いた。抜けるように白い機体、ノア600だった。それも、単なるノア600ではない。そのコックピット、主運転手のシートに収まるレーサーに強烈なほど見覚えがあった。
「リュカ…?」
思わず名前が零れる。副運転手のシートに収まる男の顔は、見覚えが無い。副運転手だった彼女が、どうして主運転手になっているのだろう。そのまま癖で彼女の乗る機体を凝視する。耳を澄ませる。イヴ950のエンジン音に掻き消されそうだったが、耳に刻み込まれたあの音を探れば、なんとか聞き分けられた。
じっと音を聞いていて、気が付いた。おかしい。規則的に、何かが擦れるような音が混じっている。何かがおかしい。私が乗ったときに、こんな音はしなかった。コックピットの振動を見つめる。ダブルスチールの撓みを見る。ああ、やはり、あの音に合わせて、規則的に振動がブレている。あれは、エンジン部分の整備がきちんとされていない。
あのままレースを開始したら、危険なのではないだろうか。エンジンの不調は、レース中の機体異常を引き起こし、それによってクラッシュしてもおかしくない。レーサーの腕だけでリカバリー可能な範疇の異常ではない。リュカは、それに気が付いているのだろうか。
必死に主運転手のコックピットを見つめる。リュカ、頼むから気付いてくれ。あの異常は、私でも流石に無視できない。危険だ。他の誰も、それに気が付いていないのだろうか。副運転手の男は、この異常が、この危険が、分からないのだろうか。
そこで思いが通じたのか、周囲を見回したリュカと目が合った。彼女の目が見開かれる。視線が外れる前に、咄嗟に右手でハンドサインを作って見せる。
『異常』
『危険』
見開かれていた目が、次第に不愉快に細められる。防御壁の向こうで、彼女のグロスで艶やかに彩られた唇がゆっくりと、見せつけられるように動いた。
『う、る、さ、い』
今度はこちらが目を見開く番だった。彼女は、この異常を知っている。知っていて、無視しているのだ。あのままでは命が危ない。彼女らしくない。どうしてこんなに危険なレースをしようとしているのだろう。
時間は刻々と進んでいく。彼女を止める方法はない。ブザーが鳴り響く。信号と、ノア600を交互に見つめる。
リュカ、思いとどまってくれ。
信号が、
3つ。
2つ。
1つ。
それが消えると同時に、旗が振り下ろされる。
レースが、始まる。




