1. ドルーズド・レース
理性なんて、いらない。
ここに、介入の余地なんかない。
重たいエンジンを積んだ機体のコックピットで、骨の髄まで揺らされるような振動を感じる。ハンドルを握る手に力が籠る。キュウ、と小さな音が鳴った。下ろしたてのグローブのその内側で、両手がうっすらと汗をかいているような気がした。まだ手に馴染んでいないのか、ほんの少しだけ握りにくい。
いったんハンドルから手を離し、右手で右耳に嵌められたイヤホンの具合を確かめる。ちょうど主運転手の声が聞こえた。
「あ、あー、聞こえてるよね?」
「聞こえてる」
最低限の言葉を返す。不要な会話をしたくはなかった。私は目の前のレースに集中したい。言葉なんてノイズになるだけだ。レース中に指示を仰ぐことはほとんど無いのだし。
ブレーキハンドルを軽く握り、アクセルペダルを踏んで状態を確認する。乗り込む前に散々整備はしたが、それでももう一度ちゃんと確認したかった。
左右に並ぶ他の機体も、エンジンを蒸かしてもうもうと煙を上げている。肺に悪そうな匂いが立ち込めて、たまらない気分になった。胎の底から突き上げるような吐息が零れた。
コンコン、と二度だけイヤホンを叩かれた音がする。
それを聞いてメインハンドルを握り直す。
もうすぐ、レーススタートだ。
信号が3つ、2つ、1つ。
それが消えると同時に旗が振り下ろされる。
その瞬間にアクセルを踏み込む。
さあ、レースの始まりだ。
開始直後の私たちの急加速に、他のレーサーたちはついてこれなかった。左右に並んで見えていた、色とりどりの機体が一つも見えない。今回のコースは乾燥していて砂が多い。他のレーサーがいたら視界が悪くなっていただろう。
浮力とエンジンの加速を使って進むこの機体は、乾燥した地帯で使うと土埃ばかり巻き上げる。
ハンドルの感覚に神経を使いつつも、よくもこんなに重たい機体を持ち上げられるようになったものだと思考を明後日の方向に飛ばしていた。遮蔽物もなく、真っ直ぐで平坦なコースだ。ハンドル以外どこに気を使う必要があるというのか。そのとき、両手がほんの少し重たくなったのを感じ取った。主運転手がギアを上げたのだろう。
「ギア全開!」
吐き捨てるように飛んできた指示に、カンマ数秒開けることなく身体で応えながら、言葉を返す。
「わかってる」
言われなくても感じ取れる。イヤホンは声が鬱陶しいから嫌いだ。指示なんてなくても読み取れるから、この声はあくまでも主運転手の満足のためのものだ。
先ほどハンドルに違和感を覚えた時点で、左手はギアレバーに掛かっていた。そのまま力を籠めて全開まで一気に上げきる。機体に負荷は掛かるが、そんなこと言っていられない。私たちはトップであり続けなければならない。そうしなければいけないのだ。それ以下なんて許されない。
ギアが上がると急激にハンドルが重くなった。身体がシートに押し付けられる。口の端が無自覚のうちに吊り上がる。ああ、レースはこうでなくては。口笛をヒュウ、と吹いた。最高だ。
今回のコースはいつも通り初見だったが、これといって何の問題もなくファースト・ラップを駆け抜けた。平坦で何の障害物もない砂漠に、廃屋のプレハブ小屋が立ち並ぶ狭い通路、オアシスに生える木々の隙間を超高速で駆け抜ける。もちろんトップだ。残りのラップも同じようにギア全開、アクセル全開で駆け抜ければいい。それだけだ。面白みのないコースを作った大会側が悪い。
セカンド・ラップの途中、廃屋の密集するところ、大体コースの折り返し地点あたりだ。そこで身体が右側に引っ張られるような感覚があった。左側にいる主運転手が遠心力を使ってタイム短縮を計ろうとしているに違いない。すでに優勝は決まっているようなものなのだから、これ以上の勝負に出る必要は無いと思うのだが。愛する機体も限界に近付いているだろうから、無理をさせたくはない。
「左!」
「知ってる」
メインハンドルを大きく左に回す。本来はもっと先の広い迂回路をぐるりと回っていくのだが、主運転手はその手前にある狭い路地を急カーブで曲がって短縮しようとしていた。もとよりアングラなレースなのだ。勝てさえすれば手段は問われない。
主運転手の判断に、副運転手である私が何か口を挟むことは許されない。彼女の決定はレース中においては絶対なのだ。たとえそれが、機体にどれだけ負荷を掛けるものであったとしても。
より強い遠心力が機体と副運転手の私にかかる。ハンドルをひときわ強く握りしめる。せり出す岩肌に機体が擦れかかって、一瞬火花が散ったのが見えた。それでも問題ない。機体そのものに異常は出ていないはずだ。嫌な金属音も、不規則な振動も感じ取れなかった。仕方ない。やるならやりきるまでだ。そのまま思い切りアクセルを踏み込み、回転の軸となっている主運転手と共に路地を飛び出す。一気に視界が開けた。
少しだけ詰めていた息を吐き出す。次のファイナル・ラップもこれを使うだろう。今度は機体を擦らないようにしなければ。
そうして、いつも通り、私たちはドルーズド・レースに優勝した。
今回はグランプリの準決勝だったので、次回が決勝戦だ。
レースが終わってコックピットから降りると、先に降りていた主運転手のリュカがこちらに背を向けて選手用出入り口に向かっているのが見えた。
「リュカ!!整備するんじゃないの!?」
思わず大声で叫ぶ。イヤホンはついていない。観客の雑音の中で彼女に私の感情を届けるには、声を張り上げるしかない。
「ごっめーん、彼氏からディナー誘われちゃったぁ~」
そう言って笑顔でこちらに端末を向けつつ手を振られる。
「ふざっけんな、お前いつもそうやって整備しねえ!!今日はするっつったろ!!」
レース後で気分が高揚しているのかもしれない。普段は抑えている口の悪さが出てしまう。
「勝ったらディナーって言われてたからしょうがなくな~い?セイカも副運転手の座にしがみついて整備ばっかしてないで恋愛楽しみなよ、華の20代じゃん」
「はあ???」
勝ったら、なんてそんなの、明日の朝に日が昇ったら、と言われているのと同じだ。
彼女が足早にこちらに近づいてきて、声のトーンを落として問いかけられる。
「…アンタ、レースしかないくせに、主運転手のウチに反論するわけ?」
「っ、うるせえな、レースと私生活混ぜてんじゃねえよ」
突然至近距離でやり取りをしたせいで、私たちは観客からの注目を一身に集めていた。先ほどよりも客席からの騒音がもっとやかましくなる。それを横目でちらりと確認したリュカが、即座に身を引いてよく通る声でわざとらしく挨拶をする。
「じゃあね~!あとよろしく~!」
色めき立つ観客に手を振り笑顔と愛想を振り撒きつつ、彼女は出て行った。彼女のカーキの武骨なジャケットと、足元に纏いつく鮮やかなスカートの色、その柔らかな布の動きが目に焼き付いていた。基本的に、選手は運転の邪魔にならないようにパンツを身につけるのが常識だが、彼女は誰に何を言われようといつもスカートだった。
それに対して私は黒の機能性だけを重視した男物の作業用パンツに、上は本革のジャケットだ。なんて女らしさがないのだろう。
しかし、それで構わない、と思った。
このあとは機体を見て、帰るだけだ。
華やかな人生なんて、縁遠い言葉だった。




