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結露

作者: タモン


「うわ…最悪、水こぼれてるんだけど…」


 私は鞄の中に入れた指先の濡れた感触に密かに眉を顰めた。


「ふたちゃんと閉まってなかったかなー…」


 もう職場も目の前だしいいかと自分を納得させながらも、久しぶりの失敗に肩を落としながら私は青になった横断歩道を渡り出した。



          ☆



「で、バックの中びちゃびちゃでさぁー」


「あー、嫌だよねー」


 昼休憩でそんなことを同僚へ愚痴ってその件は終わったかに思われたのだがーーー



          ☆



「嘘…また?」


 信じられない思いで自分の水滴のついた手の平を見つめていた。

 昨日のこともあり、買って一度口をつけた時には念入りに蓋が閉まっていることを確認していた。にも関わらず、すっかり濡れてしまったスマホやハンカチはそれが結露などによるものではないことをはっきりと物語っていた。


「ほんと、ありえないん……え?」


 苛立ちながら改めて取り出したペットボトルの蓋を閉めようとした私だったが、その手に返ってきたのはしっかりと閉められたキャップの感触。その具合から、中の水がこぼれるようなことは無いように思われた。


「なに? 不良品?」


 軽く振って他に水がこぼれるようなことがないか見てみたりもしたが、どこかに穴が開いているような様子もない。

 私は釈然としないまま、しかしそれをバックに戻す気も起きず、そのまま手に持って歩き出した。


ーーーしかし、異変はそれだけでは終わらなかった。




「ーーーえ? ちょっと、なんで…っ」


 印刷してきた書類をデスクに置いたとたん、書類の表面に水の染みが広がったのだ。


「どうしたんですか?」


「いや…ちょっと机濡れてたみたいで…」


 急に立ち上がった私を見て、隣の席の後輩が声を掛けてくる。


「あー…大丈夫ですか? ティッシュとか…」


「あ、いい、いい、大丈夫。…でもーーー」


 濡れていた場所に置いてしまった時のような状況だが、そもそもそこが濡れていることに心当たりはない。

 言いようのない不可解さと気持ち悪さを感じながらも私はダメになってしまった書類の片付けにとりかかった。




 また、別の日。


 その日は久しぶりに連絡のあった友人とカフェで食事をしている時だった。


「ーーーで、その子がマジで気利かなくてさ~…」


「あーいるいるそういうの。もうちょい物考えて動けって思う」


 友人と他愛ない話に花を咲かせていた時だった。


「ーーやっ、何…?」


「ん? どしたー?」


「いや、なんか足に水かかって…」


 怪訝な思いでテーブルの下を覗き込んだ私が見つけたのは、フローリング調のテラスに染みのように残る水のあとだった。まるでテーブルの上の飲み物をこぼしたような状況だったが、私も、そして友人のものにもそのような形跡はない。

 そこには前触れもなく降って湧いたような水の気配だけが確かに残っていたのだ。

 

「ちょっと…大丈夫?」


「ーーーえ? ああ、うん、気にしないで。ちょっと変だなって思ってただけ」


 心配そうな友人に笑顔で返したものの、その実ここのところ続いている気がする不可解な水の事故の連続に、考えがまとまらなってしまっているようだった。


「ねえ、もうお店出ない? ご飯はもう食べ終わってるし」


「ん、だね。お会計いこ」


 気を遣ってくれた友人の配慮に乗せてもらい、私はひとまず起こったことを忘れることにして立ち上がった。



 それからも、似たような水の事故は頻繁に続いた。


 バッグの中が水分を入れていなくても濡れるようになったり、デスクの上に結露のような水滴がたまっていたり、つかまったつり革や階段の手すりが濡れていたこともあった。

 どれも勘違いにも思えるような些細なもので、ーーーしかし、どうしようもなく私の神経は緊張感に苛まれていった。


 そんな状況がしばらく続く中で、現象に変化が生まれた。

 

「ーーーなに、これ。なんの臭い…?」


 封を切ったペットボトルに口をつけようとした私の鼻腔を微かな刺激臭がつく。

 どこかで嗅いだことのあるその臭い。もう一度確かめようと鼻を近づけたが、まるで最初から無かったかのように消えてしまっていた。




 その時はそれで終わったのだが、それ以降ふとした瞬間にそれが臭い、気づいた時には必ずと言っていいほど身の回りのものが濡れていることが増えた。

 また、それが出始めた頃から徐々に現象もエスカレートし始め、席の近い同僚たちからの目も日に日に厳しくなってきていた。


「ーーーもう、なんなの、ほんと…」


 私は、ふらつく足取りで暗くなった帰路を進みながら悪態をついた。


 今日は本当に散々だった。

 少し用事があって席を外していた私が戻ると自分のデスクの周りに人集りができていたのだ。驚いて立ち尽くしていた私に気づいた同僚に手をつかまれ見せられたのは、すっかりびしょ濡れになった私のデスクだった。

 その状態はこれまでの結露のようなものではなく、それこそ机から溢れた水が両隣や床に止めどなく滴り落ちているほどだった。

 同僚が言うには、少し席を立っていたうちにいつの間にかこの状況になっていたらしい。

 不在にしていたことと、他の社員は普通に働いていた時間だったことから私がやったなとど言う者はいなかったが、それでもここのところの私の身の回りの異変を少なからず見ていた同僚たちからの視線は、仕事を終えるまで辛かった。


「私じゃ、ないのに…。なんなのもうーーー」


 独り言ちながら遅々と進む私だったが、不意の喉の乾きを覚え、ちょうど現れた自販機の前で立ち止まった。

 特に何も考えないままミネラルウォーターのボタンを押して定期券を当てる。

 鈍い音をたてて落ちてきたボトルを取ると、その蓋を開いた。


「あ……」


 鼻腔をくすぐるあの臭いに一瞬躊躇ったが、その時の私はアルコールの力もあっていつもより向こう見ずになっていたのだろう。

 昼間の鬱憤を晴らすようにしてその水を一気にあおったーーーと、


「ん……ぐふっ、は…あーーー!? なに、これ……っ!!」


 襲ってきた焼けるような喉の痛みと鼻に来る強烈な臭いーーー


「げほっ!? …こぉれ…塩素、の…!!」


 どこかで嗅いだことのあるそれは、遠い昔、まだ学生だった頃に授業で嗅いでいたあの消毒剤のものだとようやく思い至る。

 そして同時に、地面に這いつくばって吐く自分の姿にも、既視感が。


 私の意識はそこで途切れた。



          ☆



 ーーーそれは小学生の時のことだった。


 当時の私は仲のいい友人たちと、同級生の一人に対していじめのようなことをしていた。

 今になるとなぜそんなことをしていたのかはっきりとは思い出せないが、なんとなく馴染まない彼女のことが気に入らなかったのだと思う。


 ある時、私はいつものいたずらのつもりで、こっそり手に入れていたプール用の塩素剤をその子の水筒に入れた。


 小学生の無謀さとは恐ろしいもので、大人であれば危険だからとまずやらないことも、平気で行ってしまう。


 ともかく、何も知らずにそれを飲んだ同級生が平気なはずもなく、激しく咳き込み、嘔吐しながら倒れ込んでしまったことをなんとなく覚えている。

 その後、先生が呼んだ救急車で運ばれていき、そのまま入院してついぞ登校してくることはなかったと思う。噂では、転校したとか、死んでしまったなんて噂は耳にしていたが、結局どうなってしまったのかは覚えていない。



 私は点滴に繋がれた病室のベッドで、もう何度めかの反芻を終えながら視線を下ろした。その視線の先には、ついさっき看護師が持ってきてくれた病院食がまだ湯気を立てている。

 いよいよはっきりと塩素の臭いがするようになったその食事を前にしつつ、私は特に何の感慨も抱かないまま静かに箸を取った。

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