痛い目に遭うのはどちらか
「なら、決定ね」
否定も肯定とも取れない言葉をアイゼンは肯定と受け取り、急に顔を近付けヒルデガルダに触れるだけのキスをした。濃い青の瞳を真ん丸に開いたヒルデガルダは手をアイゼンの口元へ伸ばし、薄い唇に触れた。
「どうしたの」
「嫌だと思わなかった」
「光栄だね。……ヒルダ、今夜君の部屋に行くから待ってて」
「分かった。……というか、今日はサンチェスの屋敷に泊まる気だったのか?」
「だって、当主の座は養子に引継ぎ済で僕がいなくても問題なく回る様にしてるから」
「魔界は? 妾が言うのはあれだが、今代の魔王は魔力が弱いのだろう?」
「あくまでヒルダに比べたらね」
魔王になる強い魔力を目の前にいるアイゼンも持っている。人の上に立つのは面倒で嫌、何なら気紛れな女王に仕えていたかったと零された。刺激が少ない生活に退屈していた。そんな時にオシカケを拾い、魔界を出奔し、オーギュストに口説かれ人間に転生した。後悔はない。現に、人間の生活を非常に気に入っている。
「オーギュストとは、ちゃんと親子でやっているの?」
「これでもやっている方なんだぞ」
十八歳になった現在は大人しくしているがサンチェス家の屋敷に来た頃は、毎日が新鮮で常に動き回っていた。毎朝、庭で肉体維持の訓練を欠かさないオーギュストに突撃して邪魔をした。汗にまみれ、湯浴みをしたいオーギュストに引っ付いては剥がされた。
『わらわもゆあみをしたいぞ!』
『したらいいじゃないか。ミラがいるだろう』
『オシカケは、じじょにやらせろと言うぞ』
『それもそうか……。ラウラ、ヒルデガルダを浴室へ連れて行ってくれ』
『オーギュスト。おやこはいっしょに入るものでは?』
『勘弁してくれ。お前が幼女とは言え、アイゼンに知られればとばっちりを食らうのは私だ』
『?』
あの時はアイゼンの名前が出た理由とオーギュストの嫌がる理由が分からなかった。幼女と風呂に入るのが嫌なのかと思っていた。実際は、外見幼女でも中身はヒルデガルダ本人。長年の片想いを知っているからこそ、アイゼンに知られれば本来受ける筈のなかった嫉妬を食らう羽目になる。
思い出してしまってついつい笑ってしまう。「ヒルダ?」怪訝そうに呼ぶアイゼンを見るとまた笑ってしまった。
「いや。昔を思い出した。オーギュストが言っていた意味が今なら少しは分かる気がする」
「そうなんだ。よく分からないけど」
ヒルデガルダが楽しそうなら良いとアイゼンは深く突っ込まず、今度は頬に口付けた。擽ったそうに微笑むヒルデガルダを見ていたくて嫌がらないのを良いことに何度も口付けを送った。
斜め前の席で他人の振りをしつつも意識はヒルデガルダとアイゼンへしっかりと注いでいるオシカケ——基ミラは、周囲に人払いの結界を貼らず堂々といちゃつく様に呆れながらも二人が楽しいのならそのままでいいと先程運ばれたトーストに噛り付いた。
「!」
熱々のトマトソースとチーズ、ベーコンと野菜のバランスの良さに感動し、二口目三口目を素早く食べ進めていたら、カフェから離れた場所に停車されている馬車があった。貴族がお忍びで使用する類のもの。微かに開いているカーテンの奥には、栗色の髪がちらりと見えた。
「あ〜あ……」
サッとカーテンが閉められると馬車は動き出した。
「乗っているのはマクレガー公爵令嬢っぽいな」
一応、後でお嬢に報告しておくか、とミラはトーストを食べ進めていくのであった。
「ふ、ふふふ……」
見た。確かに見た。この目で確実に見た。
「お、お嬢様」
「ねえ、見たわよね? さっきの」
「は、はい。しっかりと」
「そうよね。見たわよね」
この世で最も憎々しい女が見知らぬ美貌の男と睦まじくしていた。人が多く行き交う外で。不用心にも程がある。常に人を見下し、傲慢に女王の如く振る舞うヒルデガルダから愛するノアンを取り戻す策がヒリスに舞い降りた。
「ノアンはとても誠実で清廉であろうするの。陛下の命令でも、ノアン以外の男性とあんなに近い距離で接するヒルデガルダ様をいつまでも婚約者のままではいさせられないわ」
灰色がかった銀髪も王族の証たる紫水晶の瞳も、どれも一目見た時からヒリスを魅了するノアンの魅力。ずっと好きで今も尚愛している。生まれた時から第二王子の婚約者になると決められ、初めて会った時に心を奪われた。ノアンも同じで初めて会った時からヒリスを好きになった。
結ばれるべくして結ばれた。第三者が入る隙間は一切なかった。このままノアンと結婚し、子供を儲け、幸せな家庭を築いていけるとずっとずっと信じていた。
なのに——。
『将来、王国の守護役を担うノアン殿下には、強い魔力を持つ子を作る義務があると……陛下はヒリスよりも強い魔力を持つサンチェス公爵令嬢をノアン殿下の新たな婚約者と決定した』
初め、王命によってノアンと婚約破棄をされたと父マクレガー公爵から言われた時は性質の悪い冗談かと信じなかった。けれど翌日、登城した際にノアンから告げられて改めて事実なのだと知らされた。
ヒリスにもノアンにも落ち度はない。多額の慰謝料を王家から支払われた。
お金なんか要らない。望むのはノアンの側、ただ一つだけ。
マクレガー公爵が国王を何度も何度も説得したが——全て無駄に終わった。
「ノアン……愛してるわ……」
ヒルデガルダはノアンを愛していない。
ノアンもヒルデガルダを愛していない。
自分よりも弱い男に興味はないとノアンを見下し。
ノアンに愛されているヒリスに嫉妬して虐め紛いな行いをしてくる。
口では何とでも言える。興味がない、弱い男は好きではないと言いながらヒルデガルダは嫉妬故にヒリスを虐める。つまり、ノアンを愛している。
「絶対に、絶対に渡さないっ」
急ぎ馬車を走らせ、中心街から貴族街へ入らせると一軒の建物前に停車させた。上へ行く程、上位貴族が住む貴族街の下は文字通り下位貴族が住む。家によって財力は大きく異なり、下位貴族でも懐が潤い大きな屋敷を持つ貴族はいる。
目前に建つのはこじんまりとした屋敷。共に降りた従者に「一人で行くから、此処で待ってて」と前を向いたまま言い放ち、一人建物の中に入った。
中は怪しいピンク色の光が室内を照らしており、四つあるテーブルには首飾りや小瓶、古書、骨の装飾品、薬草等魔法の触媒と思わしき道具が置かれている。
「お客さんかい?」
店の奥から老婆の声がする。見て見ると椅子にゆったりと座ってヒリスを眺めている黒いローブを着た老婆がいた。
「呪いの道具はないのかしら?」
「あんた、見たところ良い所のお嬢さんだろ。悪いことは言わない。人を呪うなんて止めておきな」
「お金なら幾らでも払います。私に店で一番強い呪いの道具を頂戴」
これは言っても聞かないと嘆息した老婆は椅子から降り、出入り口から近いテーブルへ行くとヒリスに向いた。
「一つ聞くがどんな相手を呪いたいんだい」
「……私の愛する人の側にいる女性です。彼を愛してもいないのに、婚約者の地位にしがみつく彼女を痛い目に遭わせたいっ」
「男女問題、かい。なら、これを持って行くといい」
老婆が手に取ったのは淡いピンク色の液体が入った小瓶。液体を相手にぶちまけるのが最重要。液体は魅了のまじないが掛けられた媚薬。
「周囲に大勢人がいる時、こいつをお前さんが憎む女に掛けたらいい。掛けられた女は媚薬によって体が発情し、周りにいる男達は魅了の力で女に群がっていく」
「相手は強い魔法使いなんだけど、ちゃんと効果は出るの?」
「どの程度強いんだい? 有名な魔法使いなら大体は分かる」
「サンチェス公爵家のヒルデガルダ様よ」
「……あ〜……」
貴族外の入り口付近に店を構える老婆でも知っている名前。ヒルデガルダの名を聞いた途端、かなり難しい表情をした老婆はフードを深く被り、ふうー、と溜め息を吐いた。
「薬の効果は絶大さ。誰にでも効果は出る。大切なのは相手に浴びせられるかどうか。もっと言うなら、飲ませられれば尚良しさね」
「分かったわ! 言い値で買いましょう!」
「……タダでくれてやる。持って行きな」
お金なら沢山あると迫るヒリスに小瓶を押し付け、店から追い出すように外へ出すと老婆は最初座っていた椅子に戻ると深い溜め息を吐いた。
「はあ〜……まあ……呪詛返しに遭っても、死ぬような代物じゃないから大丈夫だろう」
どうしてタダでくれたのか、追い出されたのか全く理解が追い付かないでいたものの、大事な物は入手成功。これさえあればヒルデガルダをノアンの婚約者の地位から引き摺り落とせる。嬉々として馬車に乗り込んだヒリスは御者に屋敷へ戻る様言い放った。
屋敷に戻ったら、早速ヒルデガルダ宛に茶会の招待状を送らないといけない。
——ヒルデガルダ様は私を虐める口実が出来るときっと招待に応じてくれる筈だわ……!
「……うん?」
「どうしました?」
カフェを出た後は、今頃マナー教育に励んでいるリュカへのお土産を購入し、サンチェス家の屋敷に戻った。邸内に足を踏み入れた直後、背中がむず痒くなり、右手を背中に持っていって掻いた。
「誰かが妾を噂しているのか、なんだかむず痒い」
「あー……マクレガー公爵令嬢じゃないですか」
「何故分かる」
「馬車の中からお嬢とアイゼン様をバッチリと見てましたよ、あのご令嬢」
「ふむ」
相手がヒリスであるなら、ヒルデガルダが驚愕する事は起きないだろうとし、何かあってから動いても問題ないと判断した。




