わがままな妹への仕返しを一度では済まさなかった姉のお話
「防音の結界を張りました。これでここでの話を聞かれる心配はまずありません」
姉にそう告げられて、妹は弱々しく微笑んだ。
ロンガスタン子爵家の長女の部屋。テーブルを挟み、姉妹が向かい合わせに座っていた。
姉の名はリコヴェール・ロンガスタン。今年で21歳となる、ここロンガスタン子爵家の長女である。
しっとりとした長い金の髪。やや細めの瞳の色はやや暗い蒼。その身体も細いが、背筋をピンと伸ばしたその姿に弱々しい印象はない。月の光の下、人知れず静かに咲く花のような令嬢だった。
妹の名はグリエディナ・ヴァンプラト。2年前にヴァンラプト伯爵家に嫁いだ20歳の伯爵夫人だ。
肩まで届く柔らかな金の髪。丸い大粒の瞳は青空のような水色。まだ少女のあどけなさを残すその顔はかわいらしく、年齢よりずっと幼く見える。
身に纏う外出着も随所にフリルをあしらったかわいらしいものだ。少女趣味が過ぎるデザインだったが、可憐なグリエディナにはよく似合っていた。
太陽の下で明るく咲く花のような令嬢だった。
そんな彼女は今、沈んだ顔をしている。顔に影が差し、視線は下向きで、目の下には隈ができている。まるで曇天の下、葬式に参列する者のようだった。
「そのネックレス、久しぶりに見ましたね」
グリエディナのかわいらしい装束の中でひとつ、その装いにそぐわないものがあった。
質素だが上品な作りの銀製のネックレス。古い物で手入れが行き届いていないのか、銀の輝きは少しくすんでいる。
「アクセサリーを整理していたら見つけたの。お姉様からいただいたネックレス……それで家のことが懐かしくなってしまって、来ることにしたの」
「頼ってくれてうれしいわ。ずいぶん気落ちしているようだけど、何か悩みごとがあるのかしら?」
「わたしの夫……カーズアルト様について相談したいことがあるんです……! お姉様の婚約者だった頃はあんなに優しそうだったのに……! あの人は、あの人は……!」
リコヴェールは小さくため息を吐いた。
平気で「お姉様の婚約者だった頃」なんて言い方をする。そこには姉から婚約者を奪ったという罪悪感はまるで感じられない。
だがそれも仕方ないことなのかもしれない。このロンガスタン子爵家の人間は、妹のおねだりにいつも応えてしまっていたのだから。
『過剰魔力制御障害』。
子爵令嬢グリエディナ・ロンガスタンが生まれた時から患っていた病気だ。
通常、魔力を持って生まれた人間は、それを制御できるだけの能力を持っている。だが稀に、高すぎる魔力を持って生まれ、その魔力により制御能力を歪められ、自らの魔力を制御できないという障害が発生する。その疾患を『過剰魔力制御障害』と言う。
『過剰魔力制御障害』を患った者はいつ魔力を暴発させるかわからない。そのため、生まれた時から魔力封じの魔道具をつける必要がある。そうすれば基本的には日常生活に支障はない。
だが厄介なことに、この病気を患った者は『特定の状況』において魔力封じの魔道具ですら抑えきれない魔力の暴発を起こす。
『特定の状況』は人によってさまざまだ。多くは感情の大きな変化に影響される。ある者は怒りに燃えると火の魔法で周囲を燃え上がらせ、ある者は悲しみに暮れると氷の魔法で周囲を凍てつかせ、ある者は大笑いして風の魔法で嵐を起こす、と言った具合だ。
『過剰魔力制御障害』は成人すると完治する。高い魔力によってゆがめられていた魔力の制御能力が、精神の成長によって正常な機能を取り戻すのだ。
成人するまでは危険な病気だが、制御できるようになればむしろ利点は大きい。高い魔力を生かして魔導士として大成する者も少なくない。また、その子供は高確率で高い魔力を持って生まれるのも見逃せない利点だ。
『過剰魔力制御障害』を患った者は、家によっては成人するまで幽閉されることもある。だがグリエディナが束縛されることはなかった。
グリエディナは幼い頃から天使のようにかわいらしかった。高い魔力を持ち、容姿の優れた子爵家の令嬢は貴族社会において高い価値を持つ。幽閉すればその天真爛漫なかわいらしさは失われるだろう。ロンガスタン子爵はそうなることを避けたのだ。
それにグリエディナの『過剰魔力制御障害』はぎりぎり制御が可能なものだった。
グリエディナが魔力を暴発させる『特定の状況』とは、『人の持っているものを欲しがっても、手に入らないとわかったとき』だ。
自分が持っていない素敵な物を、他の人が楽しんでいるのに耐えられない。自分に見せびらかすなんてずるい――そんな風に考えて、「ずるいずるい」と駄々をこねる。そのままほうっておくと、やがて爆発の魔法を暴発させてしまうのだ。
だがそれは逆に言えば、物さえ与えておけば魔力は暴発しないということだ。ロンガスタン子爵は可能な限りグリエディナの望む物を与えた。金では用意できない時は、人気のない場所にグリエディナを連れて行って暴発させた。魔力を暴発させると、グリエディナは駄々をこねていたのが嘘のようにケロリとして、手に入らなかった物にそれ以上執着を示すことはなかった。
病気と貴族としての都合。それらによって出来上がった状況は、一言でまとめれば「グリエディナをわがまま放題にさせる」ということだった。
姉のリコヴェールはその最大の犠牲者となった。
「そんないいものをお姉様だけが持っているだなんて、ずるいずるい! お姉様はずるい!」
そう言って事あるごとに姉の持ち物をねだった。姉が身に着けているドレスやアクセサリーや化粧品、ぬいぐるみに人形。姉が大事にしている物をよく欲しがった。両親はリコヴェールに代わりを買い与えると言い聞かせ、妹に物を譲らせた。
リコヴェールはずっとつらそうにしていた。それでも貴族令嬢として、家のために我慢して、妹に物を与えた。
だがリコヴェールが12歳の頃。ある日を境に、妹に物を奪われるのを嫌がらなくなった。ロンガスタン子爵が代わりを買い与えると言っても望まなくなった。
娘の変わりぶりが心配になり、ロンガスタン子爵はつらくないかとリコヴェールに訊ねた。
「妹があんなに物を欲しがるのは病のせいなのです。姉ならば、病に苦しむ妹のために身を削るのは当然というものです」
リコヴェールはそう言って微笑んだ。当時、彼女はまだ12歳だった。年に見合わぬ立派な言葉とその在り方に、ロンガスタン子爵は感じ入った。
グリエディナのわがままが許されたのは、いずれその器量と魔力の高さで高位貴族に嫁がせるためだった。
だが、そこで予想外の事態が起きた。グリエディナがリコヴェールの婚約者に恋してしまったのだ。
伯爵子息カーズアルト・ヴァンラプト。やわらかなダークブラウンの髪。新緑を思わせる緑の瞳。端正な顔立ちの青年だった。物事には常に誠実に当たり、万事を丁寧にこなし、周囲への気遣いも忘れない。魔力にも優れ、特に回復魔法を得意とすることから、『温和なる癒し手』と呼ばれていた。
もともとリコヴェールの婚約は、グリエディナが高位貴族と婚姻するための前準備だった。同派閥の上位貴族とのつながりを作るための足掛かりだった。そんな相手とグリエディナが結ばれては、これまでの苦労が水の泡だ。
「あんな素敵な人と結婚するだなんて、お姉様はずるいずるい!」
「グリエディナ、お前にはもっと相応しい相手を用意する。どうか聞き分けてくれ」
「あの方以上に相応しい人なんているはずありません! この恋を失うくらいなら、わたしは王宮の前で魔力を暴発させます!」
取りなそうとするロンガスタン子爵の言葉も届かず、グリエディナは駄々をこねた。
この時、グリエディナももう17歳。そろそろ魔力の制御能力も正常になりつつあるはずだが、それでも暴発の危険はある。幼い頃は言葉巧みに人気のない廃屋などに導いてうまく暴発させていた。ここ数年はリコヴェールの献身のおかげで暴発自体が起きなかった。
グリエディナの覚悟は並々ならないものがある。もし本当に王宮の前で魔力を暴発などされたら子爵家は取潰しになることだろう。
そんな時、リコヴェールが自ら言い出した。
「お父様。貴族の令嬢ならば、家のために尽くすのがその責務。しかし姉としては妹の幸せを望みたいのです。どうかグリエディナの願いを聞き届けてはいただけませんか」
「お、お前はそれでいいのか? カーズアルト殿とあんなに仲睦まじくしていたのに……」
娘の意外な申し出にロンガスタン子爵は狼狽した。
子爵が見た限り、リコヴェールは婚約者との関係は実に良好だった。グリエディナが姉の婚約者を欲したのも、その仲の良さをうらやましく思ったからなのだ。
だがリコヴェールの顔に迷いはなかった。
「カーズアルト様は温厚で慈悲深く、人の心を思いやれるお人です。事情を話せばわかってくださいます。あの方ならばきっとグリエディナを幸せにしてくれます。むしろ他の方では、安心して妹を任せることができません」
「ううむ……!」
ロンガスタン子爵は唸った。
グリエディナは容姿と魔力に優れている。しかし暴発を恐れるあまり甘やかし、すっかりわがままに育ってしまった。高位貴族に嫁がせるつもりだったが、その後の夫婦関係のことを思うと不安がある。グリエディナのわがままをフォローする準備は整えていたが、厄介な問題に発展しかねないという懸念もあった。
だが『温和なる癒し手』とまで言われる伯爵子息カーズアルトならば安心だ。きっとグリエディナのことを受け止めてくれるだろう。
より上位の貴族を望んでいたが、ヴァンラプト伯爵家も十分な名家だ。
「……リコヴェールよ。お前は本当にそれでいいのか?」
「ええ、もちろんです」
リコヴェールはわずかな迷いも見せずに頷いた。娘が妹のことを想い、ここまで覚悟を決めたのだ。子爵はグリエディナの望みをかなえることに決めた。
こうして、グリエディナと伯爵子息カーズアルトが婚約する運びとなった。
事情を説明するとカーズアルトは最初は戸惑った様子だった。しかし、妹を思うリコヴェールの姿に心を打たれ、「妹君のことはどうか私に任せてほしい」と請け負った。
グリエディナと伯爵子息カーズアルトはそれから1年ほどしてから結婚した。だれからも祝福される夫婦となったのだった。
望み通りの相手と結婚したはずのグリエディナが、葬式みたいに暗い顔をして実家を訪ねてきた。しかもその理由は夫であるカーズアルトにあるらしい。
「カーズアルト様はお優しい方でしょう? 喧嘩でもしたんですか?」
「喧嘩……ですって!?」
グリエディナは伏せていた目を上げた。その瞳の奥には昏い炎が燃えていた。
「あっ、あの人はっ……! わたしのことを、殴るんです! いっぱい、いっぱい……気を失うまで、わたしを殴るんです!」
そうしてグリエディナは彼の夫について語り始めた。
カーズアルトは、結婚してからも優しかった。グリエディナのわがままに怒ることなく、穏やかに諭して妥協点を探った。彼とのやりとりで、グリエディナはわがままをただ叶えてもらうのではなく、相手と交渉し無理なら時には諦めることを、少しずつ学んでいった。
わがままを言う妻を、穏やかにやさしく受け止める夫。二人の仲は周りから見てもうまく行っているように見えた。
だがある日の夜、夫婦の時間。カーズアルトは豹変した。寝室に防音の結界を張った上で、いきなりグリエディナの腹を殴りつけたのだ。グリエディナが驚きと痛みにうずくまっていると、無理矢理立たされ何度も殴られた。
カーズアルトの顔は恍惚としていた。その狂的な笑顔は、まるで暴力を楽しんでいるかのようだった。
何度も何度も殴られて、やがてグリエディナは失神した。
夜が明けると、グリエディナはベッドの中にいた。そばには心配そうに彼女を見守るカーズアルトがいた。
「グリエディナ、痛いところはないかい? 傷は回復魔法で全て治したはずだが、身体にどこか異常は無いか?」
その言葉に背筋を凍らせた。昨夜の出来事は夢ではなかったのだ。グリエディナが身を固くすると、カーズアルトはボロボロと泣き始めた。
「すまない……昨晩の私はどうかしていたのだ。なんであんなことをしたのかわからない。君のことを愛している。愛しているんだ……!」
そう言って、グリエディナのことを優しく抱きしめた。
グリエディナはどうしていいかわからなかった。昨晩の暴力の痕跡は残っていない。傷はもちろんの事、飛び散ったはずの血痕すら見当たらなかった。
いつも通りの優しいカーズアルトが泣きながら謝っている。昨晩、殴られたのは本当かもしれない。でもあんなに何度も殴られ、カーズアルトがそれを楽しんでいるように見えたのは夢だったのかもしれない。
誰だって機嫌の悪い時はある。魔力を暴発させるように、カッとなってしまうこともあるだろう。
だから、グリエディナは彼を許すことにした。
しかし、それは一夜だけのことではなかった。
およそひと月に一回から二回、同じことが繰り返された。
夜になると気が失うまで殴られる。朝になると傷は癒されていて、泣きながら謝る夫がいる。
グリエディナは毎回、彼のことを許した。それは言葉の上だけのことだ。許せるはずがない。
それでも、グリエディナは恐ろしかったのだ。身体は癒されていたが、痛みと恐怖は心の中に残っている。もし許さないと言ったら、どれほど恐ろしい暴力を振るわれことになるか。それを思えば、許す以外の選択肢はなかった。
普段のカーズアルトは今まで通りの優しい人だった。
だが、ある日突然豹変してグリエディナのことを殴るのだ。
そんなことが繰り返され、ついにグリエディナは耐えられなくなった。
「『温和なる癒し手』とまで言われたカーズアルト様がそんなことを……あなたの言うことじゃなかったなら、とても信じられないことです」
話を一通り終えると、リコヴェールはそんな感想を漏らした。驚きながらも信じてくれた。グリエディナは心が温かくなった。
わかってもらえたと思うと、今まで言えなかった言葉が口をついて出てきた。
「何が『温和なる癒し手』ですか! あの男はけだものです! 暴力に酔いしれるクズです! いつもの優しそうな顔の裏に、あんな顔を隠していただなんて!」
グリエディナはわっと泣き出した。
リコヴェールはハンカチを取り出すと、グリエディナの隣に座り涙を拭きながら彼女を宥めた。
「ねえお姉様。どうか助けてください。あの暴力男にしかるべき裁きを下したいのです……!」
貴族を罰するにあたっては王家直轄の裁判所を頼ることになる。
王国の法において、正当な理由もなしに伴侶に暴力を振るうことは固く禁じられている。カーズアルトの暴力が白日の下にさらされれば、重い罰が下されることになるだろう。
しかし、リコヴェールは首を横に振った。
「残念ですが、それは難しいかもしれません」
「どうして!?」
「だって……あなたには傷跡が無いのでしょう?」
そう言われてグリエディナは言葉に詰まった。
殴られた記憶はある。痛みも恐怖も覚えている。しかしそれを示す物証はない。
カーズアルトはいつも防音の結界を張ってから暴力を振るう。グリエディナの悲鳴を聞いたものは当事者以外には誰もいない。貴族が夜の時間を過ごす時、防音の結界を張ることも珍しくないから、不審に思う者もいない。
傷跡はカーズアルトが回復魔法で全て癒してしまう。よほど入念に掃除をするのか、あるいは何らかの魔道具でも使っているのか、血痕をはじめとした暴力を振るった跡は残らない。
「確かな証拠もない状態で、裁判所に訴えても罪を問えません。ましてカーズアルト様は伯爵家嫡男。あなたはその夫人。立場としてはあちらが上です。言葉だけの訴えでは、彼に有利な判決が下ることになるでしょう」
「そんな! わたしがこんなに苦しんでいるっていうのに、お姉様はなにもしてくださらないと言うの!?」
「グリエディナ、どうか落ち着いてください。裁判を起こして罪を証明できなければ、あなたの立場はより悪くなってしまうのです。そうしたらどうなることか……」
リコヴェールのいうことは道理にかなっている。だがしかし、グリエディナは限界だった。このまま何もせずにはいられなかった。
そして姉の特技に思い当たった。
「そうだ! お姉様は確か精神魔法が得意だったでしょう!? それであのクズに自白させればいいのよ!」
リコヴェールは学園で学んでいたころ、精神魔法を専攻していた。精神魔法とはその名の通り、人の精神に働きかける魔法だ。低級な精神魔法は人の気分をすこし変えることができる。暗い気分をちょっと明るくしたりする程度のささやかなものだ。しかし高度なものになると、人の記憶を書き換えたり、思い通りに群衆を操作することすらできると言われている。
リコヴェールは学園において優秀な成績を修めていた。精神魔法についても魔法省から声がかかるほどの技量だった。
だが、リコヴェールは首を横に振った。
「残念ですが、そんなことできません。精神魔法で無理矢理させた証言は、裁判において証拠にはならないのです。それにカーズアルト様は『温和なる癒し手』と言われてるだけあって、魔力が高い。魔力が高い人の精神を操るのは、とても難しいことなんです」
「なによなによ! お姉様の役立たず! それじゃあどうしろって言うの!?」
グリエディナはたまりかねて立ち上がった。
「カーズアルトにまた殴られろと言うの!? あのクズが楽しんでいる顔を見せつけられるの!? イヤ! イヤ! イヤ! 絶対に嫌よ!」
「グリエディナ、どうか落ち着いて……」
「落ち着いてなんていられるわけないでしょ! お話にならないわ! お父様のところに行く! お父様なら絶対、わたしのお願いを聞いてくれるわ! お父様なら……」
そこまで口にしたところで、グリエディナは言葉を止めた。その顔は疑問が占めていた。
「……あれ? なんでわたし、お姉様なんかに相談してるのかしら?」
愕然とつぶやいた。もともと貴族の家同士を結び付けるための婚姻だ。当人の意志だけで離婚することなど許されない。離婚の意志があるのなら、まず自分の家の当主に相談するのが筋だ。それは貴族とっての常識だった。
グリエディナは苦しんでいる。本気で離婚を考えている。わがままに育ってきた彼女なら、すぐにでも両親に泣きついたはずだ。今までずっとそうやってわがままをかなえてきたのだ。
だが今、こうして姉に相談している。気がついてみれば、今の状況は明らかにおかしかった。
「やっぱりそこで異常に気づくんですね……」
姉が笑っていた。親しみの感じられない冷たい笑みだった。罠にかかったネズミを見るような顔だった。
リコヴェールはゆっくりと立ち上がると、グリエディナの隣から、再び対面の席に着く。
グリエディナは動けなかった。混乱だけが頭を占めていた。この異常事態を前に、落ち着き払った姉の姿はひどく不気味に見えた。
リコヴェールは落ち着いた声で語り始めた。
「そうです。あなたの疑問は正しい。これはお父様に相談すべき事です。それにも関わらず私のところに来たのは、精神魔法でここに来るようあなたの精神を操作していたからです」
「わ、わたしの精神を操作したですって?」
「そのネックレスです」
リコヴェールはグリエディナの首元にかけた銀のネックレスを指さした。
「ストレスが限界に近くなった時、あなたはそのネックレスを見て家のことを思い出す。そしてそのネックレスをつけて私のところにやってくる……そういう行動をとるように、精神魔法であなたの心に刻み付けておいたのです」
夫の暴力に耐えられなくなった。とてもつらくなった。このネックレスを見て、姉のことを思い出した。
古びた銀のネックレス。デザインは悪くないが、グリエディナの華やかな装いには似合わない。いくらこれを見て懐かしく思ったからと言って、わざわざつけてくる必要はない。
精神を操作されたと言うのなら、そのおかしな行動にも説明がつく。
だが、グリエディナには納得できないことがあった。
「嘘です! ついさっき、高い魔力の人間を操るのは難しいと言ったばかりではないですか! それならわたしを操ることなんて、誰にもできないはずです!」
魔法で干渉するには相手の魔力を打ち破らなくてはならない。ましてグリエディナは『過剰魔力制御障害』だった。単純な魔力の強さだけなら宮廷魔導士すら凌駕するほどだ。
リコヴェールは優秀な精神魔法の使い手だった。だがグリエディナの膨大な魔力を越え、精神を操作するなどと言う繊細な魔法を行使することなどできるはずがない。
グリエディナの指摘に対して、リコヴェールは小さなため息を吐いた。
「確かにあなたほどの莫大な魔力の持ち主に対して精神魔法をかけることなど、通常なら不可能でしょう。でも『過剰魔力制御障害』が治って制御できるようになったとは言え、まだまだその扱いは拙い。どんな強固な城砦でも、穴だらけなら攻略はそう難しいものではありません。まして同じ家に住む家族です。時間をかけて観察すれば、隙をつくのは十分に可能でした。そうですね、ちょっと実演してみせましょうか」
リコヴェールは短い詠唱をした。グリエディナは自分に姉の魔力が自分の魔力を越えて、容易く心に達するのを実感した。
『右手を上げなさい』
リコヴェールがそう言うと、グリエディナの手が意志に反して上がった。まるで学園の授業で意気揚々と答えようとする生徒のように高々と手を上げていた。
手を下ろそうと思っても、手はまるで動かない。
『右手の自由を許します』
そう言われて、手がようやく自由になった。
苦々しくも認めざるを得なかった。リコヴェールはグリエディナに対して精神魔法を行使できるのだ。
「精神魔法が効くことはわかりました。でもわかりません。なんでわたしにこんなことをさせるんですか? お姉様のところに相談に来させることに、どんな意味があると言うのですか?」
「理由はいくつかありますが……一番の理由は、どんな風にカーズアルト様に苦しめられているのか、あなたの口から直接聞きたかったからです」
リコヴェールはおかしなことを言った。カーズアルトは『温和なる癒し手』と呼ばれるほど温厚で知られた人物だ。彼が自らの伴侶に暴力を振るうなんて、誰も夢にも思わないことのはずだ。
だがリコヴェールが彼の本性を最初から知っていたとすれば話は変わる。
「え……? お姉様は婚約していた頃から。カーズアルトの本性を知っていたのですか?」
「本性? いいえ、違います。婚約していたころの彼は本当に優しい方でした。私のことも実に丁寧に扱ってくださいました。綺麗な顔をしていて、礼儀正しくて物腰柔らかで、素敵な方でした。だから、あなたが欲しがるのはわかっていました」
リコヴェールはにっこりと笑った。心底嬉しそうな笑みだった。それがグリエディナにはひどく恐ろしく感じられた。
「だから時間をかけて彼の精神を改造しました。あなたに対するストレスが一定以上を超えた時、あなたへの暴力衝動を制御できなくなる――そうなるように、時間をかけて少しずつ精神に働きかけたのです。婚約者だった頃、仲睦まじく過ごしていたのは、そのためでもあったのです。まあそれで、あなたを気絶するまで殴るようになったのは予想外でしたが」
リコヴェールは自慢げに語った。まるで裁縫が上手くできた時の母のようだった。
グリエディナは混乱した。リコヴェールの話していることの、ひとつひとつの意味は分かる。だがそれがどういうことなのかわからない。
疑問のままにグリエディナは問いかけた。
「つまりお姉様は、最初からわたしに奪わせるためにカーズアルトと仲良くしていたのですか?」
「そうです」
「わたしに暴力を振るわせるために、カーズアルトの精神をいじったと言うのですか?」
「その通りです」
「それでどんなふうに苦しんでいるかを詳しく話を聞くために、わたしをここに来させたのですか?」
「ええ、それで間違いありません」
状況を整理しながら問いかけると、全て即座に肯定された。
筋立て自体は複雑ではなかった。つまりリコヴェールは、グリエディナを苦しめるために全てを仕組んだということだ。
「な、なんで!? どうしてそんなことをするんですか!」
「あなたのことが憎いからです」
リコヴェールの顔から笑みが消えた。
表情の消えた顔で、まっすぐグリエディナの目を見て、憎いと言った。
グリエディナはどうしてそんな目を向けられるのかわからなかった。
「わたしのことが、憎い……?」
「ええ、憎いです。幼い頃からあなたにはたくさんの物を奪われてきました。そのネックレスもそう。お気に入りのぬいぐるみも、好みのアクセサリーも、好きな本も、自分用に仕立てたドレスも。いくつもいくつも奪われてきました。憎むのも当たり前でしょう?」
「嘘、嘘、嘘よ! お姉様はずっと優しかった! いつもわたしのわがままを聞いてくれた! あんなに優しかったお姉様が、わたしを憎むはずなんてない!」
「私が優しい?」
リコヴェールは呆れたように両手をひらひらと振った。
「私は優しくなんてありません。あなたの病気、『過剰魔力制御障害』のせいで、『優しい姉でいること』を強いられただけ。でも、そうですね。確かにあなたにはわからないかもしれません。奪う喜びは知っていても、奪われる苦しみは知らないあなたには、ね」
リコヴェールは暗くよどんだ目で見ていた。その奥では憎しみの炎が燃えていた。
その熱さにひるんだようにグリエディナは一歩下がる。足がソファにぶつかり、バランスを崩して腰を落とす。意図せずソファに座ることになった。
リコヴェールの口元は笑みの形をしている。笑われている。そう思うとグリエディナはカッとなった。
「だ、だからって! こんなひどいことをしてただで済むと思ってるの!? お父様に言いつけてやるんだから! お父様はわたしの言うことなら何だって聞いてくれるのよ! お姉様なんてこの家から追放してやるわ! 平民に落ちて野垂れ死にするといいのよ!」
「いいえ、それは無理なことです。『あなたが動くことを禁じます』」
リコヴェールが力ある言葉を告げた。グリエディナは自分の身体が動かせなくなったことを実感した。先ほどは右手が自由にならなかったが、今度は全身だ。身じろぎすらできない。
しかし、グリエディナは不敵な笑みを浮かべた。
「また精神魔法をかけたのね!? でも、わたしだって精神魔法のことを少しは知っているのよ! こんなもの、わたしの魔力で打ち破ってやるわ!」
先ほど右手を操られたときは動転してなんの抵抗もできなかった。
だが本来、精神魔法とはコントロールの難しい繊細な魔法だ。その正体を知り、強い意志と魔力抵抗すれば打ち破るのは難しくない。グリエディナは生来、並外れて強い魔力を持っている。魔力を高めれば、リコヴェールの魔法などたやすく霧散するはずだった。
グリエディナは魔力を最大限まで高めた。不敵な笑みを浮かべた顔は、やがて焦りに変わり、そして困惑に変わる。どんなに魔力を高めても、身体を動かせるようにならないからだ。
「こんなバカな! ありえないわ! お姉様はわたしに何をしたの!?」
「わたしが何かをしたんじゃない。あなたが自分で自分の身体を動かなくしたのよ」
「ど、どういうことなの!?」
「『あなたが今使っている魔法』は儀式型の魔法。儀式のはじまりはそのネックレスをつけること。この子爵邸の私の部屋に来ることも儀式の一環。効果は『わたしの精神魔法を受け入れる状態になること』。あなたの強大な魔力であなた自身がかけた強固な魔法よ。そして、それはもう完了している。あなたがいくら魔力を高めても、今さら解くことなどできないわ」
全ては既に終わっていた。
グリエディナは精神を操られ、自分で自分を縛る魔法をかけてしまったのだ。本来、精神魔法で人を操るのは難しい。抵抗する人の心を魔法でねじ伏せるのは簡単なことではないのだ。だが、ここまで準備を整えられれば話は別だ。
グリエディナは言わばまな板の上に載った食材だ。もう抵抗することはできない。料理人の思うがままに切り裂かれるしかない状態なのだ。
そしてリコヴェールは、グリエディナのことを憎んでいると言った。どんなひどいことをさせられても、抵抗することすらできないのだ。
「やめて……ゆるして……ひどいことをしないで……!」
グリエディナは涙に頬を濡らしながら哀願した。もともと伴侶の暴力に屈してここに逃げ込んできたのだ。抵抗できない状況で悪意を持った人間がすぐそばにいる。その状況は、脆くなった彼女の心をたやすく折った。
リコヴェールはふっと微笑んだ。
「心配しないで。痛いことや苦しいことはしません」
「ほ、本当?」
「ええ本当よ。私がするのは、この部屋で話した記憶と、カーズアルト様の暴力で溜まったストレスを消去するだけです」
グリエディナは言われたことの意味を考えた。
この部屋で見聞きしたことを忘れる。おそらく、記憶を消す前提でリコヴェールはあれだけ事情を話したのだ。それを忘れては彼女の企みに気づけない。でもそれだけで、直接的な被害はない。
カーズアルトから受けた暴力のストレスを消される。これは悪くない。むしろいいことだ。こんなに苦しくてつらい気持ちをなくせるのなら、どんなにいいことだろう。
確かに言葉の通り、痛いことや苦しいことはない。でもグリエディナの不安は解消されなかった。
リコヴェールはわざわざ精神魔法で行動を操りこの部屋に招いたのだ。グリエディナのことを憎んでいると言った。ただリコヴェールが苦しんでいることを聞くためだけに、こんな手の込んだことをするものだろうか。
疑問に苛まれるグリエディナに対して、リコヴェールはそっと優しい声で囁いた。
「これでまだまだ伯爵夫人を続けられますよ」
その言葉にグリエディナは凍りついた。
この部屋での記憶を忘れ、カーズアルトの下に戻る。それはつまり、再び彼の暴力にさらされるということだ。しかもこれまでのストレスを消されれば、しばらくは持ちこたえることができてしまう。
つまりリコヴェールは、もっと苦しめと言っているのだ。
どれほど自分のことを憎んだら、こんな恐ろしいことを思いつくのだろう。グリエディナは姉が内に秘めた憎悪と狂気のすさまじさに震えた。だが恐怖はまだ終わりではなかった。
「あなたは憶えていないでしょうけど、あなたの記憶とストレスを消すのはこれで7回目なんですよ」
「な、7回目……?」
「我慢ということを知らないあなたが、夫の暴力にさらされて2年も耐えられるわけがないでしょう? あなたは何度も私に泣きついてきたんですよ」
そう言ってリコヴェールはくすくすと笑った。心底楽しそうな姉の姿に、グリエディナは皮膚を粟立たせた。
「なんで、なんで、なんで……どうしてそんなひどいことをするの!?」
「憎いあなたにできるだけ長く苦しんで欲しいからです」
「お姉様には人の心がないの!?」
「あなたを憎いと思うのは、人の心があるからです。むしろあなたのお願いを聞いていたときは、心を殺していたんですよ」
「人の心を操って、身体の自由を奪うなんてずるい! ずるいずるい! お姉様はずるい!」
最後にグリエディナの口から出てきたのは、いつもの言葉だった。
この言葉を出せば、誰もが欲しい物をくれた。リコヴェールはいつも困ったような笑みをして、それでも自分に物を譲ってくれた。
リコヴェールはこの時も笑った。
「ええ、私はずるい。あなたにずるいずるいとずっと言われて、こんなにずるい女になりました」
優しさなどかけらも感じられなかった。見下し、嘲笑する笑みだった。心底楽しそうにしている。それがなにより恐ろしかった。
そしてリコヴェールは呪文の詠唱を始めた。この詠唱が終われば、グリエディナの記憶とストレスは消されてしまうのだろう。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
身動き一つとれなくて、抵抗することすら許されない。無理矢理我慢させられるのがどれだけ恐ろしいことなのを初めて知った。リコヴェールの言葉が本当なら、これも7回目なのだろう。その恐怖と後悔に押しつぶされながら、グリエディナはただただ謝罪の言葉を繰り返した。
だがそれは、あまりにも遅く、無意味な謝罪だった。
リコヴェールは詠唱を終えると、グリエディナの首元からネックレスを外した。それが魔法を起動させる最後の手順だった。
そしてグリエディナの中から、この日この部屋で話した記憶と、夫に暴力を振るわれたストレスは、消えてなくなった。
「お姉様と話したらなんだかすっきりしたわ」
「それはよかったですね。夫婦になっていろいろあるでしょう。悩みがあったらいつでも来てください」
「ええ、ありがとうお姉様! それじゃあさようなら!」
子爵邸に来た時とは打って変わった明るい顔でグリエディナは帰った。
グリエディナからこの子爵邸に来てからの記憶を消した。代わりに与えたのは当たり障りのない愚痴を話したという記憶だ。暴力にさらされたストレスがすっかり消えた彼女は、それだけで納得したようだった。
リコヴェールは私室に戻った。テーブルの上にあの銀のネックレスがある。
これを忘れ物として送り返す。そうすれば、グリエディナは夫の暴力に耐えられなくなった時、また子爵邸にやってくることになる。
もしこのネックレスを送り返さなければ、グリエディナの夫婦関係は崩壊するだろう。暴力に耐えきれなくなったグリエディナは父親に泣きついて、離婚へと話が進むはずだ。両家とも小さくない傷を負うことになるだろう。
だが送り返したところで、遠からず破綻することは目に見えていた。
グリエディナの限界は近い。毎回ストレスを消しているが、それも完璧ではない。心の奥底に堆積した苦しみはいずれグリエディナを壊すだろう。そうなったら精神魔法でも修復はできない。
カーズアルトもいずれは限界を迎えるだろう。彼はもともと優しい男だった。グリエディナに暴力を振るってしまう自分について思い悩んでいるに違いない。こんなことが続けば、いずれ心が壊れてしまう。
それにその異常な行いをいつまでも隠せるとは限らない。ずいぶんと注意深く痕跡を隠しているようだが、それでもいつかはミスを犯してバレる日が来るかもしれない。
終わりは見えている。それでもリコヴェールは可能な限り続けていきたいと思っている。
妹にはずっと奪われてきた。憎んでいた。だがそれは、ここまでするほどのことだっただろうか。
ネックレスを手に取りじっと見る。
古びた銀製のネックレス。高級な品物ではない。平民でも手が届く安物だ。だがリコヴェールにとって、大切な思い出の品だった。
これが全ての始まりだった。
リコヴェールは幼い頃、父方の従兄に恋をしていた。
彼は騎士として王家に仕えていた。12歳も年上の彼は、精悍でたくましくてかっこよかった。荒々しくも勇ましい騎士としての活躍を話してもらうのが好きだった。
リコヴェールは恋焦がれていたが、彼の方は年下の従妹を恋愛対象とはみなさなかった。それでもリコヴェールは、いつか絶対に振り向かせると心に決めていた。
そんな彼に対して一度だけわがままを言った。王都で行われた秋の祭りの夜。銀製のネックレスを買って欲しいとねだった。幼い頃から妹にねだられてきたリコヴェールは、それがよくないことだとわかっていた。それでもこの夜だけはねだった。
祭りの露店で売られるような安物の銀製のネックレス。幼いリコヴェールにはまだ似合わない大人びたものだ。こういうアクセサリがあれば早く大人になれると思った。なにより、好きな人に贈り物をしてもらうということが重要だった。
生まれて初めてのおねだりを、彼は苦笑しながらも受け入れてくれた。このネックレスが似合うような素敵な淑女となって、彼の心を射止めようと改めて決意した。
それが恋の終わりだった。
かねてより、王国は隣国と緊張状態にあった。国境間の肥沃な土地をめぐる話し合いは決裂し、小規模な戦いへと発展した。
どこの国にでもある、当たり前のつまらない紛争だった。
彼は騎士としてその戦いに参加し、帰らぬ人となった。
リコヴェールは当時12歳だった。早く大人になって彼と結ばれたいと励んできたためか、年のわりに賢い令嬢だった。彼の死はあまりに突然だった。リコヴェールは年に似合わぬ半端な賢さのせいで、何を憎めばいいのかわからなくなった。
彼を殺した敵兵を憎めばいいのか。戦闘を指揮した隣国の指揮官を憎めばいいのか。領土を譲らなかった隣国そのものを憎めばいいのか。
彼を死地に追いやった王国の指揮官を憎めばいいのか。戦争を避けられなかった王家を憎めばいいのか。
紛争の火種となった土地を憎めばいいのか。あるいは、こんな運命をもたらした神を憎めばいいのか。
リコヴェールはやり場のない憎しみを持て余していた。何にぶつけるか決められずに悩み苦しんでいた。
そんな時、思い出のネックレスを妹にねだられた。
リコヴェールはその時、奪われる哀しみより先に思った。思ってしまった。
――ああ、ちょうどいい。
土地とか国とか運命とか、憎むには大きくて漠然とし過ぎている。そんなものを恨むより、妹を憎む方が楽だった。だから全ての憎しみを妹にぶつけることにした。
それからは妹に仕返しをするためだけに生きてきた。
ドレスやアクセサリーもただ奪われるだけではない。どんな物をどう見せれば妹が欲しがるかを入念に調べ、妹の好みの把握に努めた。
妹を陥れる手段として学園では精神魔法を専攻に選び、熱心に学んだ。
婚約相手も熟慮した。妹の好みに合い、両親が妹を任せてもいいと認められる相手を入念に探した。婚約を結んでからは機会があれば家に招き、妹が嫉妬するように仲の良さをさりげなく見せつけた。
そしてすべては上手くいった。グリエディナは見事、こちらの用意した婚約者に喰いついた。婚約者に仕込んでいた魔法は正常に機能し、グリエディナは不幸な結婚生活を送ることになった。
限界に達したグリエディナは、事前に魔法で刻み付けたように、あのネックレスをつけて自分の下にやって来た。どれほど苦しんでいるかをグリエディナ自身の口から聞いた。
その記憶を消して自分が関わった証拠を残さない。そして思い出のネックレスを取り戻す。
それで仕返しは完了するはずだった。
グリエディナの記憶を消そうとしたとき、リコヴェールはこの仕返しを繰り返せることを知った。
グリエディナにかけた精神魔法はまだ生きている。このネックレスを再び渡せば同じことを繰り返すだろう。精神魔法を受け入れた今の状態なら、夫の暴力で受けたストレスを消すことだって可能だ。
本来ならそんなことは必要なかった。仕返しによって憎しみの心は満たされた。もう十分なはずだ。
でも、気づいてしまったのだ。
彼のことを思い出す時、常に怒りと憎しみが共にあった。彼が死んでしまった理不尽への憤りがどうしようもなく湧き上がってきた。
だが、妹への仕返しを果たした時だけは違った。
憎しみの心が満たされた時だけは、楽しかった彼との思い出を、穏やかに思い返すことができるのだ。
それが一時のことに過ぎないと、リコヴェールは気づいていた。仕返しをした充足感は時間と共に薄れていく。そうするとまた憎しみに囚われる。
だから、リコヴェールは繰り返すことにした。
妹のことは憎い。だがここまで苦しみを長引かせるほどのことではなかったはずだ。巻き込まれたカーズアルトに至っては完全に被害者だ。
自分のしていることは歪つでおぞましく、愚かなことだ。こんなことはやめるべきだ。
とっくの昔にどこかが狂ってしまったのだろう。そもそも思い出のネックレスを仕返しの道具にしている時点で正気の沙汰ではない。
わかっている。わかっていても、やめることはできない。
手にしたネックレスをぎゅっと握りしめ、彼との思い出にひたる。
この安らかな時間を手放すなんて、リコヴェールにはできないことだった。
終わり
恋愛もののお話で、ずるいずるいとねだってばかりの妹をしばしば見かけます。
そんな妹に対して姉が仕返しをする話を自分でも書いてみようと思いました。
この手の妹は長年にわたって姉から物を奪います。
それに対する仕返しも長期間に及ぶものだったらどうなるかと考えていたらこういう話になりました。
当初は「異世界(恋愛)」のつもりで書いていましたが、恋愛要素が薄くなったのでジャンルは「ヒューマンドラマ」を選びました。
相変わらずお話づくりはままなりません。
2024/9/23 16:10頃
読み返して気になった細かなところをいくつか修正しました。
2024/9/23 22:10頃
誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!
2024/9/24、9/25、9/26、9/27、9/29、2025/1/13、6/20
誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!