【短編版】だってわたくし、悪女ですもの
初恋を拗らせた令嬢の悪巧みの話です
好きなお話だったので、連載版を開始しました。
良かったら読んでみてください♪
設定は少し変えています。
それは、ユーシス様のお誕生日に開かれたパーティでのことでした。大国である我が国の王子のお誕生日には、国内外からたくさんの招待客がいらっしゃっています。ですが主役のはずなのにしばらくの間、ユーシス様はご不在でした。
一体どうしたのだろうと怪しむ周囲に、婚約者であるわたくしが愛想を振りまき、場を取り繕っていたときです。
会場の扉が勢いよく開いて、ようやくユーシス様が登場なさいました。赤い正装は、彼の黒い髪によく馴染んでいます。二週間前までは優しかった紫色の瞳は、厳しくわたくしだけを射抜いていました。
ユーシス様は、その腕にわたくしの妹レティシアを抱いています。
会場中がわたくし達に注目する中、ユーシス様は叫びました。
「メイベル! 貴様と私の婚約は今日で終わりだ! 可憐なレティシアに毒を盛り、命を奪おうとしたと、許しがたい大罪を犯したのだから! 彼女は生死の境を彷徨い、心を病み、毎日泣いて過ごしているのだぞ」
二歳違いのレティシアはわたくしによく似た美しい少女なのですが、わたくしよりも儚げな外見をしておりました。
金髪の髪は丁寧に整えられ、ピンク色の可愛らしいドレスを着ております。外見に気を使う余裕のある娘が、心を病んでいるはずがないのですが、殿方はそれが分からないのでしょう。
それにしても生死の境とは大袈裟なことです。せいぜいお腹が痛くなったとか、その程度でしょう。
「悪女という噂を信じず、貴様を愛そうとしたにもかかわらずこの仕打ち。貴様は城から永久追放だ。当然、私との婚約も破棄する! 私は新たにレティシアと婚約を結んだ。親の決めた婚約者ではなく、真実の愛に目覚めたのだ!」
ユーシス様は、腕の中のレティシアを強く抱きしめました。すがるようにレティシアは抱きしめ返し、大きな瞳で上目遣いにユーシス様を見上げました。きっと男性だったら、誰もがイチコロでしょう。
レティシアが毒で倒れたのは二週間ほど前のことです。
死には至りませんでしたが、それがわたくしのせいだとされ、このところ、周囲には白い目を向けられておりました。つまりわたくしがユーシス様と仲の良いレティシアに嫉妬して、彼女を殺そうとしたのだと、誰もが噂をしていたのです。
無理もございません。十五歳になったレティシアは小鳥のように自由で猫のように気ままで、そうして花のように甘い表情を周囲に振りまいておりましたから、宮廷内の男性は皆くらくらしておりました。毒事件が起こる前も、ユーシス様が彼女を目で追っているのには気がついておりましたもの。
いずれこうなるだろうということは承知しておりました。
婚約が破棄された以上、この窮屈なパーティにいる理由もありません。さっさと出ていこうと思ったところで、招待客の中からすっと、背の高い男性が進み出ました。
温かみのある薄茶色の髪の毛は、ノーウェア公爵の家系のものでしょう。わたくしの横に彼は来て、厳しい顔をユーシス様とレティシアに向けました。間違いなく、公爵家嫡男エドワード様でございました。
多くの女性に狙われているのに、未だ独身で、誰とも婚約を結んでいない方です。彼は強い声で言いました。
「彼女が実の妹に毒を盛ったなどと、そんなはずはありません」
まあ!
わたくし、驚いてしまいました。まだこのお城の中に、王家に意見できる方がいらっしゃったなんて!
エドワード様は言います。
「あなたのことを、ずっと昔からお慕いしておりました。あなたのことだけを見てきました。そのあなたが、妹君を殺そうとするはずがない。ですが、婚約を破棄されたということならば、私の妻になってくださいませんか?」
なんて嬉しいお言葉でしょうか。疑念が掛けられてから、誰もわたくしを庇ってくださらなかったのに。
美貌と教養を兼ね備えたわたくしに恋する男性は多いのですが、彼が今まで言い寄って来なかったのはユーシス様と婚約関係にあったからでしょう。わたくしが婚約している間もずっと恋をしてくださっていたなんて、純愛でとても素敵なことだと思います。
ですがわたくしは、彼の服の袖を掴んで、見上げました。男性なら皆、この参ってしまうだろうという表情を浮かべながらにこりと言いました。
「エドワード様。わたくし、レティシアに毒を盛りました。だってとっても生意気なんですもの」
「――え」
驚愕の表情のエドワード様が、小さく声を出した瞬間、ユーシス様が顔を真っ赤にして叫びました。
「近衛兵ども、この悪女をつまみ出せ!」
騒然とする皆様に向かって、わたくし、淑女の礼儀としてお辞儀をひとつして差し上げました。
「皆様、お騒がせして申し訳ございません。メイベル・インターレイクは去りますわ。どうかパーティの続きをお楽しみくださいませ」
顔を上げた瞬間、レティシアが勝ち誇ったかのように微笑んだ表情は、きっとわたくしにしか見えなかったことでしょう。
即日、わたくしの処分が決まりました。決めたのは亡くなった両親の代わりにわたくし達兄妹の面倒を見ていた叔父様のサイラス・ハイマー伯でした。
ユーシス様と婚約を決めたとき、あれほど喜んでくださった叔父様は、カンカンに怒ってわたくしに会いたくもないようです。彼の言伝を伝えに来た使者は、こう言いました。
“今日中に領地へ下がり、使用人と結婚しろ”
粗相をした一族の娘を適当な男と結婚させ、地方へ追いやるのは叔父様のいつもの手でした。
分かりきっていた命令でしたので、素直にわたくしは頷きました。
◇◆◇
結婚相手はすでに準備を終え、城の外で待っているということでしたので、わたくしも慌ただしく準備をしました。まごまごして、ユーシス様がやっぱりわたくしを処刑するだなんて言い出さないうちに、叔父様の領地へと逃げることができればひとまずの安住を得ることができます。
使用人は誰も付いて来たがりませんでした。仕方がないから、わたくしは一人、城の外に出ます。
直前で、ぬらりとジャスティンお兄様がわたくしの前に現れました。
「あらジャスティンお兄様。わたくしと一緒に領地に行ってくださるの?」
「行くわけないだろ、僕は王家に目をつけられたくない。だがお前らしくもないヘマをしたなメイベル、これでお前はしばらく城に出入り禁止だし、領地に謹慎だ」
インターレイク家の三兄妹が誇りに思う金髪が、夕日を受けて輝いていました。ハンサムなお兄様は、その顔を呆れたように微笑ませます。
「殿下との婚約破棄の上に、実の妹に毒を盛った悪女とは、誰も関わり合いになりたくない。正直僕も、お前が大事じゃなきゃ、見送りにだって来たくないくらいだ」
「わたくし、毒なんて盛っていません」
「さっきは認めだだろう」
「婚約破棄で弱った乙女の心の隙間に入り込もうと言い寄る殿方を黙らせたかっただけですわ」
「お前の性格の悪さを愛しているよ。妹でないなら妻にしたいくらいだ。さぞ素晴らしい家庭になるだろうさ」
はあ、とお兄様はため息を吐きました。
「いいかメイベル。お前の夫になる男は従順で朴訥とした善良な男だ。平民だから、お前の言いなりになるかもしれない。顔も悪くはないし、お前は絶対に気にいるだろう。だがもし彼を気に入ったとしても、体の関係を持つな。いいや、持ってもかまわないが、誰にも気取られるな」
「あら、なぜ?」
「いずれ殿下がレティシアに飽きてお前を求めるかもしれない。その時に、平民のお手つきの女など嫌がるだろうからな。まあすでに、処女ではないだろうが」
「お兄様はわたくしを純潔だと思ってくださらないの?」
「冗談はよせ! 十四の時、三十も過ぎた公爵と良い仲になっていたのを知っているんだ。当時からお前は悪女だと囁かれていたぞ」
「わたくしたち、体の関係はございませんでしたのよ?」
「お前が純潔かそうでないかは問題じゃない。殿下がそう思っていることが重要だ。うっかり平民の子を妊娠したら、二度とお呼びはかからない。かかったとしても愛人止まりだ。それにエドワードが再びお前を求めるかもしれない。そうじゃなくとも、レティシアがお前に助けを求めるかもしれない。その時に誰かの目に止まったら、再びお前は賭けのテーブルの上に並べられるはずだ」
「そんなに心配なさらなくとも分かりましたわ。
それじゃあお兄様、お手紙を書いてね。わたくしもたくさん書きますから」
素直にそう頷いて、お兄様とお別れをしようとしたときです。背後から呼び止められました。
「夫の名を知りたくないのか」
ゆっくりと振り返ります。
「そう言えば、聞きそびれておりましたわ。誰ですの?」
「ウィリアム・ウェストだ。両親のいない孤児で、年は僕と同じ二十三。お前の五つ上だ。
叔父がよく使う小間使いの一人で、信頼もされている。
馬の扱いは王国で一番だと思うよ、僕の馬もいつも彼に任せている。お前のようなじゃじゃ馬の世話も上手いといいが」
わたくしはにっこりとお兄様に笑いかけました。
「とても慰めになるお言葉、ありがとうございます」
そう返事をすると、今度こそお城を出ていきました。
夫は城を出た先、橋の上で二頭の馬と共に佇んでおりました。何の身分もない男性。着ている服もお世辞にも質の良いものとは言えませんし、ところどころ傷んでいます。
焦げ茶色の髪の毛はウェーブがかって、後ろでひとつに束ねられています。それが彼の側にいる馬の尾に、よく似ていました。
彼こそが、叔父様の家の使用人、ウィリアム・ウェストです。わたくしに気がつくと、彼は一礼いたしました。近くで見ると、なかなか整った顔立ちをしています。髪を整え、きちんとした服を与えれば、貴族のご婦人方の人気者になりそうです。
わたくしは彼に話しかけました。
「こんなところで、何をしてらっしゃるの?」
「妻を迎えに来ました」
無機質な返答でしたが、思わず微笑んでしまいます。
「ではあなたがわたくしの夫ですのね? ウィリアムさん、ウィルと呼んでよろしいですか?」
「お好きにどうぞ」そっけない返事です。
夫婦の対面だというのに、愛情も幸福も彼にはないようでした。
「わたくしと結婚できるなんて、あなたは運の良い男性ですわ」
彼は黙り込みました。青みがかった灰色の瞳がじっとわたくしを見つめたかと思うと、次の瞬間、馬の上に抱え上げられました。
「きゃあ!」思わず叫んでしまいました。門兵たちがこちらを見ます。
すかさずウィルはもう一頭の馬に乗りました。
「参りましょう、メイベル様」
慌ててわたくしは言います。
「待って、わたくし、一人で馬に乗ったことなんてないの。あなたが後ろで支えてくださらないと、とても領地へたどり着けません」
一瞬、ウィルは躊躇いがちに目を伏せました。
「ですが――」
「領地に着く前に落馬で妻を死なせたとあっては、あなたの立場にも関わることではないのですか?」
なおもわたくしが言うと、彼はおずおずとわたくしの後ろに乗りました。
細身に思えましたのに、彼の体はすっぽりとわたくしを包みこんでしまいました。体温と彼の匂いを感じ、ほんの少しだけ、安らぎを覚えます。
「これでよろしいですか?」
彼が話すと、息がわたくしの髪にかかりました。
「ええ、完璧ですわ」わたくしはそれだけ答えておきました。
宿屋に着くまで、会話はありませんでした。長い間馬に乗っていたから体のあちこちが痛かったですし、二人共とても疲れていました。
ですが部屋で簡単な食事を終えたとき、沈黙に耐えかねたのか、彼の方から話しかけて来ました。
「覚えておいでですか、メイベル様」
わたくしがベッドで横になっていた時です。床に体を横たえていた彼はそう言いました。
「お小さい頃は、毎日顔を合わせていたんですよ」
「あなたとわたくしが?」
「あなたは六歳で、俺は十一歳でした。当時あなた方三兄妹はハイマー家で面倒を見られていて、あなたは俺にぞっこんでした。いつも後を付いて来たがったんですよ。風呂や便所まで」
「まさか」
部屋は暗くて、彼の輪郭しか見えません。過去を思い出したのか、ウィルが笑った気配がしました。
「俺を見つけるといつも腕の中に飛び込んできました。『ウィル、あなたのお顔ってとっても好み。結婚してもいいわよ』あなたはそうおっしゃった。今でも忘れません、本当に可愛らしかった」
「少しも覚えていないわ。それであなたは、なんて答えたんです?」
「機会があれば。俺はそう答えました」
「では機会を与えられて嬉しいでしょう?」
和やかな会話だったはずです。なのに、わたくしの言葉を最後にして、彼は黙り込みました。
ふいの沈黙に驚いて、今度はわたくしから話しかけます。
「あの、ウィル。気を悪くされたらごめんなさい。身分の低い方と話すことに慣れていませんの。だってわたくしはあなたにとって雲の上のような存在でしょう? 高嶺の花ですもの、結婚できて嬉しいのだと、そう思ったの」
やがて彼の返事がありました。
「俺はあなたの夫になれと命令がありましたが、建前だけだと聞いています。あなたが反省している様子を、逐一ハイマー様へ報告しろとのことですから」
「内偵ということね。よろしくてよ」
「内偵とは違います。隠れて探るつもりはありませんから。ハイマー様はほとぼりが冷めたらあなたを呼び戻すおつもりでいらっしゃいます」
「叔父様はわたくしを城に戻すつもりなの?」
あれほど怒っていらしたのに、まだわたくしに利用価値を見出しているということなのでしょうか。ジャスティンお兄様も、そう言えばそのようなことを言っていましたっけ。
「ええ、そう聞いていますよ。だから俺とあなたの結婚は偽装だと」
それだけ聞くと、ウィルに利点はないように思いました。暗がりの輪郭に向かって問いかけます。
「なぜあなたはわたくしとの結婚に同意したの?」
「あなたが城に戻ったら、報酬をくださると、ハイマー様は書面にて約束してくださいました。俺が一生かかっても稼げないような額です」
なるほど、愛ではなくお金のためということです。
「叔父様にとっては姉でも妹でも変わらない、駒でしかないということですのね。姪と王子の婚約だなんて、家にとって悪い話しじゃありませんもの。でも、わたくしを蔑ろにするような態度は大変腹立たしいものですわ。もしまたお城に戻ったなら、レティシアに嫌がらせしてしまいそう。あなたも叔父様にそうご報告してください」
「なぜ自分が領地に隔離されるのか分かっていないご様子ですね」
「心当たりは少ししかありません。王子が妹に心変わりしたから、妹に毒を盛ったことくらいですもの」
ぶはっ、と彼が吹き出しました。
カーテンを開けている窓から、月の光が入ってきて、ウィルの顔を照らしていました。
垂れ目気味の目が更に垂れています。楽しそうな彼の様子に、わたくしの気分は俄然良くなりました。
ウィルは言います。
「それがすべてでは」
「だけどそれって全部でっち上げですもの。レティシアは自作自演です」
「あなたはそう主張されたが、皆、そうは思わなかったし、パーティでは遂にお認めになったとお聞きしましたが」
「わたくし、毒を盛って、その相手を生かしておくような下手は打ちません。生きているということは、あの子が自分でやったんです」
目を丸くしているウィルに向かって、わたくしは微笑みかけました。
「だってわたくし、悪女ですもの」
◇◆◇
領地のお城に着いた時、懐かしさに目を細めました。
両親がまだ生きておりましたずっと小さい頃、暮らしていたお城に、十数年ぶりに住むことになっていました。叔父様はずっと王都で暮らしていましたけれど、管理を任された方が実のよく手入れをしてくださっていたので、お城は綺麗なままでした。
お城を見るなり、ウィルは感嘆の声をあげました。
「すごい。こんなところに俺が住むなんて、考えてもみませんでした」
結婚が解消されるまでの間ですけれど、わたくしたちの仮住まいです。城の主になったわけではございませんでした。領地であれば悪さもできないというのが、叔父様の考えだったのです。
「ウィルのご実家はどのようなところなの?」
「この領地の隣で、農場を営んでいました。子供の頃連れ立って両親が他界してからは、ハイマー家で面倒を見ていただいておりましたが」
「あら、わたくしと同じでございますね」
笑いかけると、ウィルも微笑んでくれました。
領地の小さな教会で、わたくしたちは慎ましやかな結婚式を挙げました。参列者は誰もいませんでした。
わたくしはウィリアム・ウェストの妻になり、ウィリアム・ウェストはわたくしの夫になりました。けれど結婚は偽証で、数ヶ月もしたら、再びわたくしは城に戻されるのでしょう。
使用人は数人だけいましたが、夜になると近くの家まで帰ってしまいますし、毎日やってくるわけではありませんでした。だから、ほとんどわたくしとウィルの二人だけの生活でした。
日中の多くを、わたくしは本を読んだり刺繍をして家の中で過ごしていました。ウィルもそんなわたくしを見張っているのか、やはり家にいることが多くありました。
こんなことがありました。
その日、彼は庭で飼っている鶏を夕食に出すつもりでした。いつもわたくしの目の前にやってくるのは、綺麗に調理された料理ですから、暇をもてあましたこともあり、彼の仕事を観察していました。
彼は一羽にあたりをつけ、鉈を構えました。背後から、わたくしは声をかけます。
「どうやって捌くのですか?」
「うわっ」
驚いた彼が鉈を落とし、地面に突き刺さります。
ウィルはわたくしを手招きすると少年のように笑いました。彼の笑顔は気に入っています。
「見てみますか? 確かに俺の妻になるのなら、動物を潰して肉にすることも、畑仕事をすることも覚えてもらわないと」
もちろん本当の妻にする気などないのですから、彼の冗談です。
それから彼は、間髪入れずに鶏の首を切り落としました。
「ぎゃあ!」
あまりに驚いて、わたくしは尻もちをついてしまいました。ぎょっとしたようにウィルは目を見開き、すぐにわたくしに手を伸ばしました。
「すみません、それほどびっくりされるなんて思っていなくて。確かに刺激が強すぎたかもしれません」
言いながら彼の手がわたくしの手に触れ、引っ張り上げられました。
「怪我はありませんか」
問いかけに答えられずに、ぼーっと、未だ繋がれたままの彼の手を見つめていました。まるでそこだけ熱を持っているみたいです。
「メイベル様?」
「あ、ごめんなさい。大丈夫ですわ」
なんとかそう、答えました。
使用人がいないとき、食事を作るのも、洗濯をするのも、掃除をするのも彼の役割でした。眠る部屋は別々でした。けれどそれ以外はずっとウィルと一緒に、わたくしは過ごしました。家事をする彼の側について行って、彼が使用人の仕事をこなすのを、見ていました。
素直に認めると、わたくしは誠実な彼を気に入っておりました。日に焼けた肌も、ウェーブがかった髪の毛も、背の高さも、主張しない性格も、なにもかもこの領地にふさわしいものに思えたのです。
お兄様はこれを警戒していたに違いありません。恋多きこのわたくしが、ウィルを気に入ることを。
ですがこの地に、お兄様はおりません。わたくしは自由でした。
夕食を食べていたある時、ウィルが、こんなことを言いました。
「ずっと家にいるのも良いですが、領地を回ってみませんか? 花が綺麗だと領民が言っているのを聞きました」
「まあ、領民に会ったことがあるのですか?」
わたくしの返事に、彼は苦笑しました。
「彼らを妖精かなにかだと思っているんですか? 少し外に出てみれば、彼らの生活が広がっていますよ」
「そう、では明日は、領地を回ってみましょう。わたくし、馬に乗れませんから、この前と同じようにウィルが後ろから支えてくださいね?」
言うと、彼は微笑み頷きました。
ウィルの言う通り、領地は美しい場所でした。放牧された動物たちは草を食み、色とりどりの花が咲きほこっておりました。領地中が甘い匂いにつつまれているようでした。
会う人達は素朴で、ウィルと既に顔見知りらしく、にこやかに挨拶をしてくれます。
わたくしたちは二人、馬に乗りながらその間を抜けました。温かでしっかりした彼の体に支えながら領地を回っていると、王都での生活の方がむしろ幻だったかのように思ってしまいます。
ある場所で、ウィルは馬を止めました。
森の中でした。
少し躊躇いながら、彼は言います。
「メイベル様、よかったら、見せたい場所があるのですが。少し歩きますが、いいですか? それとも抱えますか?」
抱えてもらうのも悪くないかもしれないと思いながらも、わたくしは答えました。
「足があるのですもの、歩きますわ」
その場所には、本当にすぐに着きました。
木々のない草原に、群生する花が咲き、そよ風に揺れていました。
「どうでしょうか。気に入ってくださるといいですけど」
不安げなウィルの声に、わたくしは振り返りました。
「ウィル、とっても素敵です! こんなに素敵な贈り物、今まで貰ったことがありません!」
それは本心からの言葉でしたけれど、ウィルは申し訳なさそうに言いました。
「俺には、貴族の方のような誇らしい才能も財産もありません。それでも、あなたの喜ぶ顔が見たかった。見れてよかった。連れてこられて、本当によかったです」
感激で涙が出そうでした。わたくしの夫は、なんて可愛い方なのでしょう?
けれど彼にとって、これは偽りの結婚です。
感動を気付かれないように、わたくしはお花畑に座りました。そうすると、彼も隣に座ります。
「小さい頃、メイベル様は花をくれましたよ。花を器用に編んで、冠を作り俺の頭に乗せてくれました。覚えてないでしょうけど」
「花冠なら今も作って差し上げますわ」
言いながら、花を摘み、編んでいきます。その様子を、ウィルは微笑みながら見ていました。
きっとユーシス様や叔父様や妹のレティシアは、わたくしが領地で好きでもない男と結婚し、虚しく過ごすことをお望みだったのでしょう。ですが、彼らの望みは叶いませんでした。
領地の暮らしは、思っていたよりも遥かに素晴らしいものだったからです。
畑を作り家畜を肉にし、時間があれば領地を周り、雨の日は室内で過ごしました。誰の悪意も陰口もない場所です。
気候は晴れが多くおだやかで、王都にはない自然は豊かで、領民たちは素朴で、中には幼い頃のわたくしを覚えている人もいて、親切で、皆わたくしを慕っておりました。
ウィルが叔父様に、わたくしが反省していると伝えないように、レティシアの悪口を言うことだけは、忘れないようにしていました。
ウィルと過ごすようになって、三ヶ月ほど経った頃でしょうか。領地での生活にもすっかり慣れ、季節は夏も終わろうとしていました。
その日は雨で、二人してお城の中で過ごしていました。その頃になると、お茶くらいは一人でいれられるようになっていましたので、わたくしとウィルの分のお茶をいれて、彼のところに持っていこうと思っていました。
ウィルは居間の窓辺で椅子に座りながら、雨の降る庭をぼうっと見つめておりました。
端正な横顔は、貴族の殿方にはない、生きる強さが現れているように思います。引き締まった体も、日焼けした肌も、それら全てが彼という完璧な存在を形作っているかのように思いました。
「メイベル様、お茶をいれてくださったのですか。お望みであれば、俺がしましたのに」
静かな笑顔に、どうしようもなく愛おしさがこみ上げます。
カップをテーブルに置いた後、椅子に座るウィルの膝の上に、わたくしは腰掛けました。
「抱きしめてくださいまし」
ウィルは驚いたようでしたが、わたくしの言葉に素直に従いました。彼の腕が、おずおずとわたくしの体に回されます。
わたくしの心臓はドキドキと、うるさいくらいに鳴っていました。
「あのね、違うのですわ。わたくしがウィルにお茶をいれてあげたかったの。わたくし、ウィルが好きですもの。わたくし、偉いでしょう? 頭を撫でてくださいまし」
言うと、彼は頭を撫でてくれました。わたくしは彼を見上げます。困ったように、彼は微笑んでいました。
「今日は甘えたい日ですか」
間髪入れずにわたくしは言いました。
「次はキスをしてくださいまし」
ウィルの目が暗く澱みました。
「それはできません」
「なぜですの? 結婚式ではしてくださったではございませんか」
それ以来、ありませんけれども。
体を離し、彼の前に立ちました。
ウィルはじっとわたくしを見上げたまま、言葉を探すように、黙っています。耐えきれずにわたくしから言いました。
「こんなに可愛いわたくしがいて、手を出さないのはとても不思議です」
もう一度彼の手を握ります。抵抗はありませんでしたが、彼はわたくしを拒否するように、首を横に振っていました。
「よしてください、メイベル様」
「なぜ? わたくしはあなたの妻なのに」
「この結婚は偽りです。あなたの叔父様がそうおっしゃった。いつかメイベル様を宮廷に戻すつもりでいるから、絶対に手を出すなと。手を出したら殺すとまで言われています」
「そんなの脅しでしょう?」
「俺には分かりません。本気かもしれません」
「わたくしが嫌いですか? 悪女と言われ続けていますから」
その問いかけにも、彼は首を横に振りました。
「嫌いではありません。少しも、嫌いではないのです」
ざあざあと、雨の音がしていました。
わたくしの言うことを何でも聞いてくれたウィルの初めての拒否に、傷ついている自分に驚いていました。
「ウィル、あなたは意気地なしですわ!」
そういうと、わたくしは部屋を後にしました。数時間後に居間を覗くと、わたくしがいれた紅茶は、綺麗に片付けられておりました。
数日の間、気まずい空気がわたくし達の間に漂っていました。挨拶もわたくしは返せませんでした。
ある晴れた日、気分転換に領地を回ろうと思い立ちました。もちろん、一人でです。ですがウィルは付いてくると言い出しました。
断りましたが、彼は意固地です。わたくしに何かあったら、叔父様からの報酬が受け取れないので、彼も必死なのでしょう。仕方がないので受け入れます。
わたくしが一人で馬に乗ると、ウィルは信じられないものを見たかのように驚愕の表情を浮かべました。
「一人で馬に乗れたのですか?」
「わたくしは淑女ですもの。当然です」
冷たくそう言い放ち、馬を蹴りました。少し間を開けて、ウィルは付いてきました。
しばらく無言で馬を走らせていました。
わたくしは考えに没頭していました。だから、直前までそれに気が付かなかったのです。
道の上に、うさぎが突然飛び出してきました。避けようとして馬を操りますが、上手くできません。馬は混乱に陥り、前足を高く掲げました。
――瞬間、なるようになってしまえ、と思ったことは確かでした。
大衆の目の前で王子に婚約破棄されて、与えられた夫はわたくしを決して愛してはくれません。穏やかさは得ても、心からの幸福を得ることは、できないのです。
だから半ば、自暴自棄でした。わたくしの体が地面に落ちて、ガラス細工のように粉々になってしまえばいいと思いました。そうすれば皆、わたくしがいかに繊細で透明で、美しい存在だったのかを思い知ると思ったのです。
ですがわたくしの体は怪我どころか、土で汚れることもございませんでした。
「うっ……」
わたくしの体は、ウィルにしっかりと抱きとめられていたからです。
わたくしの体重を受け止めたウィルは腕の骨を折っていました。これではまるで、わたくしがガラス細工のように繊細ではないことが証明されてしまったかのようです。
家で、お医者様の処置を受けた後、ウィルはただこう言いました。
「名誉の負傷です。メイベル様をお守りできたのですから」
打ち身もあり、いつものようには動けず、ソファーに寝転がりながら屈託のない笑顔を浮かべるウィルに、ほんの少しだけ心が揺らぎそうになったあとで、慌てて思い直しました。
「確かに、わたくしに何かあったら、あなたは叔父様から報酬が受け取れなくなってしまいますものね」
「違いますメイベル様。あなたに何かあったら、俺はきっと死んでしまう」
「どうして?」
椅子から立ち上がり、わたくしはウィルに寄っていきました。わずかの期待が首をもたげます。
ウィルはわたくしに手を伸ばしました。その手が、わたくしの髪の一房に触れた瞬間、彼は言いました。
「あなたが好きです」
言って彼は目を閉じました。
恋って素晴らしいものでしょう? 喜びに溢れた楽しいものです。なのに、彼はまるで言ってはならないことを言ってしまったかのような苦悶の表情を浮かべていました。そんな顔を見ると、わたくしも悲しくなってしまいます。
「続きを、教えてくださいまし」
再び開いた彼の目は、救いを求めるかのように揺れていました。そうして限界だったかのように、一気に言いました。
「メイベル様が、とても好きです。あなたは俺を覚えていないでしょうけれど、俺は小さい頃のあなたも、そうして成長したあなたもよく知っていました。気がつけばいつだって目で追っていた。身の程知らずと知っていても、憧れは止められなかった。結婚の話を受けた時、飛び上がるほど嬉しかった。でも、その思いを封じなければと思った。
俺は親のない孤児です。あなたは同じだとおっしゃってくれたがまるで違う。俺には何もない。誇れるものも、広大な領地も、財産も教養も、愛の他には、何もない。それでどうして他の方を差し置いて、俺があなたを幸せにすると言えるでしょうか?」
それは愛の告白でした。嬉しくて目も合わせられず、彼の手ばかり見ながら、わたくしはもじもじと答えました。
「それは女性が領地や財産や教養を男性に求めた場合でしょう? 愛を欲する女性には、夏の日差しのように愛を絶えず注いでくださる男性が一番いいのです」
「あなたがそういう女性だと?」
「はい、そう思います」
ふいに彼は目を細めました。
「ここに来る一ヶ月ほど前でしょうか、一度城で会いましたよ。会話を数度、その時も、とても嬉しかった」
「ここに来る二ヶ月前です。あなたはメイドさんと結婚するとか言っていました」
わたくしの訂正に、彼は目を丸くしました。
「覚えておいででしたか。ええ、そうです」
「彼女はわたくしとあなたの結婚に悲しんだのではありませんか?」
「誰かが俺との縁談を仕組みましたが、会ったこともない娘ですよ。今回の話で流れましたし、もう別の男と結婚したはずです」
では彼の心に憂いはないはずです。わたくしはますます分からなくなってしまいました。
「あなたはわたくしが好きで、手の届く距離にいるのに、なぜその想いを伝えてくださらなかったのですか?」
「いつかあなたは、貴族の社会に戻っていかれる方です。誰か立派な金持ちと結婚するはずです。その時に、俺の存在が邪魔になりたくなかった。あなたの幸せの道の上に、俺は不要ですから」
「それではあなたは、わたくしを守るために手を出さないというの?」
彼は無言で頷きました。
「どうして? 恋をして手を出さないということが、そんなことが殿方にできるのですか?」
「あなたを自分よりも愛している人間にならできます」
本当なのかしら。
お城にいる頃、口説こうと近づいてくる男性たちは、誰しもわたくしをものにしたがりました。大切だから手を出さないというのは、わたくしにはあまり分からないことでした。
だけど、もしかすると本当なのかもしれません。だって彼は平民ですもの。わたくし達貴族とは考え方が違うのかもしれません。
だとしたら彼の苦しげな表情も理解できます。わたくしが好きなのに、わたくしのために自分の望みを封じてきたのです。
ウィルを、以前にも増して愛おしいと思いました。
「ねえウィル。キスをしてもよろしいですか?」
唇にキスをしましたが、抵抗はありませんでした。それをいいことに、再び唇を重ねました。
砂糖菓子のように、甘い甘いキスでした。そのままゆっくりと、首筋に、そうしてシャツのはだけた胸元に、順にキスをしました。
ウィルが呻きますが、痛みからの声ではありませんでした。彼の瞳が、熱を帯びてわたくしを見つめています。胸が高まっていました。
「わたくし、もう我慢ができません。わたくしを庇ってくださった姿、とても格好良かったです。怪我が治ったら、わたくしを本物の妻にしてくださいまし」
ウィルの温かな手がわたくしの頬に触れました。もう彼の目に迷いはありません。
わたくしは、今まで全然知りませんでした。男性が、心の底から愛する女性にむける眼差しが、これほどまでに慈愛に満ちているものだとは。
「ウィル、わたくし、悪女でございます」
「知っています」彼は言います。「本当はそうじゃないことも」
「わたくし、処女ではありません。十四の時に、三十の男性と恋をしました」
「問題ありません」彼は言います。「今、俺と恋をしていればそれでいい」
「わたくし、妹に毒を盛りました」
「それでもいい」わたくしの手を握りながら、彼は言います。固く固く、手が握られます。
「メイベル様。俺の妻になってください」
世間で言われるわたくしの噂が、嘘でも事実でも、彼にとってはどちらでもいいのです。
世界中に自慢したいと思います。世界で一番素敵な男性、それがわたくしの夫なのです。
「はい、喜んで」
わたくしもそう、答えました。
彼は幸福そうに微笑みました。
「怪我が治る前でもいいと言ったら、答えてくださいますか」
わたくしの心は幸福に満たされます。
「もちろんです」
その日、わたくしと彼は初めて同じ部屋で夜を過ごしました。
◇◆◇
その日々は、とてもとても幸福だったのだと思います。わたくしとウィルは本当の夫婦になって、ただただ毎日、喜びと共に過ごしました。ウィルはわたくしの様子を叔父様に報告しました。文面はわたくしが考えました。
概要はこうです。“反省はしていないが、領地での暮らしを気に入っている模様”
ですが夢はいつか覚めてしまうものです。一方的に与えられたものは、一方的に奪われてしまうのだと、気づくべきだったのでしょう。幸福な暮らしは一通の手紙により、唐突に終わりを告げました。
ジャスティンお兄様とは度々手紙の交流がありましたが、レティシアから手紙が来るのは初めてのことです。
“メイベルへ
ユーシス殿下は大変な癇癪持ちで、機嫌を取るのに毎日苦労しています。酒や暴食を止めるようにいいましたが聞く耳を持たず、わたしに怒鳴ってきます。彼の体重はこの数ヶ月で倍に増えたように感じます。以前の美しさは彼にはありません。おまけに彼は、わたしに飽きて、他の令嬢に目移りしています。
どうか、わたしを助けてください。王都に戻ってきてください。――あなたを愛する妹より”
かなりの疲弊が感じられる文面です。わたくしたち、別に仲が悪い姉妹ではありませんでした。幼い頃に両親を亡くし、三兄妹、叔父の圧政にも屈さずに、力を合わせて生きてきたのです。レティシアがたまたま、わたくしをライバル視して、なにかと張り合ってくるだけなのです。そのプライドの高いあの子がこんな手紙を寄越すなんて。
たった一人の妹です。心配は事実でした。
わたくしはウィルに言いました。
「手紙が参りました。妹からです。王都に戻ってきて欲しいとのことでした。助けが必要なようです」
「あなたに毒を盛られたと嘘を吐くような方ですよ」
「ですがわたくしの妹です」
「愛しているのですか」
「愛しています」
「では戻りましょう」
迷いなく彼は言いました。迷ったのはむしろわたくしでした。
「ですが戻れば、きっとこの暮らしがなくなってしまいます。わたくしとあなたは、引き裂かれてしまうかもしれません」
「そうはさせません。俺達の関係は隠しておくんです。それでレティシア様を助けたら、またこの場所に戻ってきましょう」
「……そうですわね、そういたしましょう」
心が暗いのは、この先の暮らしを思ったからです。結局領地は叔父様のものです。わたくしとウィルの暮らしがいくら穏やかといえど、わたくしたちの土地ではないのです。少し考え、わたくしは言いました。
「ウィル、わたくし、提案があるのですけれど。何もかも手に入るかもしれません」
王都に着いたのは夕闇の中でした。城には裏口からこっそり入りました。予めジャスティンお兄様には連絡していましたから、彼はわたくしたちの到着を今か今かと待ちわびていたようでした。
わたくしが城に入るなり、お兄様はすぐにやってきました。隣に佇むウィルに向かって微かに頷きます。
「ウィル、数ヶ月の勤め、ご苦労だったな。メイベルはここで引き受ける」
「いいえ彼も一緒です」
ぐい、とわたくしはウィルの腕を掴みました。
「わたくしたち、本物の結婚をしたんですの。でもまだ周囲には秘密にしておいてくださいまし」
ぎょっとしたようにお兄様は目を見開き、わたくしとウィルを交互に見て、どうやら本当だと分かったところで天を仰ぎました。
「……危惧していたことが現実になるとは。
メイベル。お前が王都に戻りたがらないのはおかしいと思っていたんだ。誰にも言っていないだろうな?」
「ジャスティン様が一人目です」
ウィルの答えに、お兄様は頷きます。
「ならばいい、僕は聞かなかったことにするから。二人でもいいから、さっさと入れ。レティシアの様子はそれはそれはひどい。僕の手には負えない」
レティシアの部屋に行くなり、お兄様の嘆きの理由が分かりました。
美しかったレティシアはひどくやつれ、亡霊のように顔色が悪くありました。わたくしを見るなり、彼女は喚きます。
「どうしてもっと早く戻ってこないのよ! 助けを求めたのに!」
レティシアはわたくしの背後に目を向けました。その目が吊り上がります。
「なぜ従僕がいるの?」
「信頼できる人だからよ」
「嫌よ! 出ていって!」
「彼は安全よ」
そう言っても、レティシアはウィルを睨みつけたままです。ウィルはわたくしに囁きました。
「俺はハイマー様に会ってきます」
叔父に会うと言ってから、彼はわたくしの手を取りキスをしました。それだけでわたくしの心臓が脈打ちます。
彼の目には燃えるような愛情が灯っていました。だから心配などなにもないのだと、わたくしは思いました。
二人きりになり、レティシアをソファーに座らせ、わたくしも隣にかけました。
「一体どうしたの」
聞いた瞬間、レティシアはわあわあと泣き出してしまいました。
「メイベルはどうやってユーシス様と何年も婚約できていたの? わたし、耐えられない! ぶくぶく太って、もう全然格好良くないんだもの。それにわたしの言うことなんて少しも聞かないわ! わたしの目の前で、他の令嬢を追いかけ回すのよ!」
「それがあの人よ。まさか、正面切って小言を言っているわけじゃないんでしょう?」
レティシアの顔は青ざめました。
「どうしよう言ってしまったわ。だって我慢できないんですもの」
「だめよ。いいこと? ユーシス様は大きな赤ん坊なの。褒めてあやして伸ばすのよ。わがままを決して叱ってはダメだし、他の女性に夢中になっているときは、一歩引いて待っているの。そうしたら、そのうち戻って来るから」
「そんなの無理! メイベルはどうして耐えられていたの?」
微笑みだけを返しました。耐えられたわけ、ないじゃありませんか。
「お願いメイベル、わたしを守って。不安なの。昔、嫌な目つきでわたしたちを見る公爵がいたでしょう? あの時もメイベルはわたしを守ってくれていた。自分が壁になってくれたでしょう? ユーシス様との婚約破棄だって、あなたはきっと気付いていたのに、身を引いてくれたじゃない。今回だって守ってよ!」
わたくしが悪女と呼ばれるようになったきっかけであるあの公爵は、若い娘が好きなようでした。欲望がわたくしとレティシアに向いていました。
ですからわたくしは、彼に気があるそぶりをして、レティシアから目を逸らさせていたのでした。
インターレイク家の娘のうち、どちらかに傷がつかなければ、叔父様の庇護は変わらずありました。まだ幼さから抜け出せない当時のわたくしたちは、たった一つの下手も打ってはならなかったのです。
「手は二つに一つよ。ユーシス様を諦めるのか、諦めずに耐えるのか。……わたくしの考えを言います。諦めなさい。将来の王妃の座なんて手に入れたところで、虚しいだけ、愛はないもの」
「彼を諦めるなんて絶対に嫌!」
「なら耐えるしかないわ」
冷たいと思われるかもしれません。でもわたくしがユーシス様と婚約している時も、それしか方法はありませんでした。
その日の夕食は、国王夫妻とユーシス様とわたくしたち三兄妹、他に王家のお気に入りが招かれました。
わたくしがレティシアに毒を盛ったとされたことなど、皆忘れてしまったかのようににこやかです。
ジャスティンお兄様はホッとしていたようですけれど、罪が許されたことなど、正直わたくしにはどうでもよろしいことでした。いち早く部屋に戻って、ウィルの腕の中で安らぎを得ることばかりを考えていました。
ユーシス様のお隣には、別の家の美しい娘がおりました。レティシアはそれを離れた席から青ざめた顔で見るだけです。宮廷内の恋愛模様が変わったことは明らかでした。
なるほどユーシス様はわたくしへの興味を失っているのでしょう。許されたわけではなく、興味がなくなったのです。
わたくしの隣には、ノーウェア公爵嫡男エドワード様が座っておりました。爽やかな笑みでわたくしのグラスにワインを注ぎます。
「メイベル様、あの時は大変失礼な真似をしてしまい、申し訳ありませんでした。あなたの冗談に面食らってしまって反応できなかったのもお恥ずかしい」
「いいえ、驚きましたけれども、別に平気ですわ」まったくなんとも思っていませんので。
向かいに座るお兄様がわたくしを睨んでいます。下手を打つなよとその視線は告げていました。
エドワード様はわたくしの耳元で囁きます。
「正式な手続きを踏みました。あなたの叔父様に許可をいただきましたよ」
「許可? 一体、なんの?」
はて、どのようなお話なのかわたくしは分かりませんでした。
小首をかしげて尋ねると、彼はあっさりと言います。
「結婚のです」
聞いた瞬間、声をあげて笑ってしまいました。一体どんな面白い話がされたのかと、テーブルに並ぶ数人がわたくしを見るのが分かりました。
「ふふ、とっても面白い冗談ですわ! あいにくわたくし、もう結婚しておりますの。わたくしは今、メイベル・ウェストでございますから、誰とも結婚できないのですわ」
エドワード様のユーモアのセンスは流石でございましたが、彼は心外だとでも言いたげな表情を浮かべています。
「結婚は無効だったと聞きました。ついさっき、あなたの叔父様からです」
ふいに心臓が冷えたように思いました。エドワード様は冗談を言ったわけではなかったのでしょうか。
彼は続けます。
「あなたの偽りの夫は、あなたの護衛に過ぎなかったそうじゃありませんか。先程金を受け取り、その足で故郷へ戻ったと聞きましたよ。あなたの身の安全の確保のために、結婚したことにして地方に下がらせただけだったと、ハイマー公はおっしゃった」
「まさか!」
立ち上がった衝撃で椅子が背後に倒れました。誰もがおしゃべりを止め、わたくしに注目していました。
「メイベル、座れ」
ジャスティンお兄様がすかさず言います。
「皆さん失礼しました。妹は今日王都に着いたばかりで疲れが溜まっているようです。問題ありません。だろうメイベル」
返事ができないわたくしに変わって、上座から陽気な声が飛んできました。
「お転婆と無邪気さは相変わらずだな! メイベル、久しぶりに会ったんだ、私の隣に来るといい」
ユーシス様が手招きします。確かに見る影もなく太ってらっしゃいます。
わたくしは素直に従い、彼の隣に座り直しました。けれど頭の中では、ウィルのことがぐるぐる回っています。
きっと嘘か、勘違いでしょう。
ウィルはわたくしを愛しているはずです。部屋に戻ったら、彼の温かな笑顔があるはずです。わたくしは夕食の残りを少し持っていって、彼と二人で食べるつもりです。
けれど夕食が終わり、部屋に戻ったとき、そこは蛻の殻でした。
「嘘よ!」わたくしは叫びました。
「ウィル! ウィリアム! どこにいるの? 出てきて! こんな冗談、よくないですわ! 少しも面白くありません!」
部屋中をひっくり返しながら彼を探しました。
付いてきたジャスティンお兄様とレティシアが顔を見合わせた気配がします。
「メイベル、彼は去ったのよ」青白い顔をしたレティシアが、今ばかりは同情したような表情を浮かべています。
「お姉様を捨てて、お金を取ったのよ」
お兄様も言います。
「元々そういう職務だったはずだ。お前を守り、許しが出るまで側にいるのが彼の役目だった。役目を全うし、彼は仕事を辞めた。あれだけの報酬があればどんなことだってできるだろう。窮屈な使用人の職を辞すことは、十分考えられる」
ありえません。考えられません。
「わたくしを愛しているはずです!」
振り返った先にいる血を分けた兄妹たちは、二人共哀れな身内を見る表情をしていました。わたくしの頬に涙が伝い、慌てて袖で拭います。
「お前の考えは、こうだったんだろう。サイラス叔父からウィルに報酬が渡ったら、二人でどこかの土地を買って暮らす――」それは確かに、わたくしが提案したことでした。「そんな夢物語、無理だって分からなかったのか。愛だけで飯が食えたら、誰も飢えない。愛なんて無駄だ」
「愛は無駄じゃありません。彼はわたくしを愛しています。愛しているはずです。でしょう? ウィル――……」
彼からの返事はありません。
ぼろぼろと流れる涙が止められませんでした。ジャスティンお兄様がわたくしをその腕に抱きしめます。
「可愛いメイベル。まだ愛なんて信じているのか」
はあ、とお兄様はため息を吐きました。
「僕らは現実に生きなくてはならない。お前はエドワードと結婚するんだ」
ウィルがいなくなって、一週間が経ちました。抜け殻になった気分でした。顔に張り付いた笑顔と本心でない言葉を吐くのは、今までの十七年間で慣れたつもりでした。けれどたった数ヶ月の幸福のせいで、それがひどく苦痛に思えるのでした。
ユーシス様に相手にされないレティシアを支えながら、いつだって領地での暮らしを思い返していました。
温かな思い出は全て色褪せ、感情が氷の剣のようにわたくしの胸に突き刺さります。それなのに、わたくしは思い出を反芻することを止められませんでした。
一体、どこが悪かったのでしょうか。なにがいけなかったのでしょうか。どうしたらウィルは側にいてくれるのでしょうか。そればかりを、繰り返し考えました。
ウィルの行方は噂で聞きました。
両親がかつて失った農場を買い戻し、結婚の準備をしているそうです。相手は以前結婚話が出ていたメイドの少女だと、そう言う人もいました。
「ウィルはモテる男だ。誠実で、今じゃ小金持ち。僕が平民の女だったらきっと好きになってた。だがお前は貴族の娘だ。愛なんて所詮まやかしだ。結婚は現実だ。初恋など諦めて現実的な男としろ」
何もかもお見通しだ、とでも言うように、ジャスティンお兄様はそう言いました。
愛なんて、無駄だったのでしょうか。
わたくしが彼を愛したのが、全て無駄だったのでしょうか。
愛を叶えたくて、そのために必死に動いたことは、ひとつも報われなかったというのでしょうか。
ですが初恋を――……。
初恋を、ずっと抱えたまま、わたくしは生きておりました。彼との思い出だけが生きる糧でした。そう簡単に、捨てられるはずがないのです。
結婚の話はトントン拍子に進んでいきました。もちろん、わたくしとエドワード様の結婚です。彼は毎日わたくしに会いに来て、お話してくださいました。彼の話はわたくしの左の耳から入り、右の耳へと抜けていきましたけれども。
「結婚式は領地でしよう。祖父母が高齢で、王都には来れないんだ。すぐに旅立とうと思うんだが、いいね?」
その言葉に、なんと返事をしたか覚えておりませんけれども、侍女たちは急いで旅の準備を始めました。もしかするとそのまま、エドワード様の領地で暮らすのかもしれません。あまり興味のないことでした。
「メイベルがいなくなって、わたし、どうしたらいいの? ユーシス様はもうわたしを見てくれないのよ!」
エドワード様の領地に旅立つ日、レティシアはわたくしにすがりつき、わあわあと泣きました。
けれど、遠くから聞こえてくるようでした。なるようにしかなりません。ユーシス様を選んだのはレティシア自身なのですから。
「メイベル、大丈夫か。ぼーっとしてるが……」
エドワード様が待つ馬車に乗り込む寸前で、ジャスティンお兄様がそう声をかけてきました。
「まさか、まだウィリアム・ウェストを愛しているのか?」
その言葉だけが、嫌にはっきりとわたくしの中に落ちてきました。ウィリアムの名前が、わたくしを突然現実に引き戻したのです。
「いいえ、まさか愛していませんわ。わたくし、現実を見ることにしたんですもの」
声は、自分で想定していたよりも上ずっていましたが、お兄様は納得したようでした。
「……そうか、良かった。あいつは有能な男だから、近く僕の従者にしようと思っていたんだ。農場から呼び戻そうと誘うつもりだが、お前がまだ彼を想っていたら、それもできなかったからな」
彼はわたくしを振って、少しも心は痛まずに出世するのでしょう。
じくじくと痛む心を気取られないように、わたくしは必死に微笑みを浮かべました。
「わたくしと彼の間には、なにもありませんでした。だって結婚は偽りだったんですもの」
ジャスティンお兄様が、明らかに安堵を浮かべました。
「僕からの餞別だ。結婚式の後に開け」
お兄様が渡してきたのは、一通の手紙でした。宛名も、差出人もありません。
「ごめんなメイベル」
彼はわたくしを馬車に押し込みながら、目も合わせずにそう言いました。言葉の意味を確かめようとする間もなく、馬車が動き出します。
「さあ、行こうか」
エドワード様はそう言うと、馬車を、ウィルと暮らした領地とは真反対に走らせました。
王都がどんどん遠ざかります。新しい暮らしが始まる期待は、あまりありませんでした。
将来への夢を語るエドワード様に曖昧な返事をしながら、わたくしはお兄様の言いつけを破り、手紙を開きました。たった一行の、メッセージがありました。
“愛してしまって、すみませんでした”
見間違えるはずのない、ウィルの筆跡です。急いでいたのか、走り書きでした。
「どういうこと?」
ウィルはわたくしを愛していたのでしょうか。
なぜ彼が謝るの? わたくしを騙していたから?
だけど彼がわたくしを愛していたのなら、謝るはずがありません。この手紙には、きっと別の意味があるはずです。きっと、そのはずでした。
――あ。
その瞬間、何もかも気がついてしまいました。
なぜウィルが姿を消したのか。
なぜお兄様があんな表情を浮かべながらごめんと言ったのか。
分かってしまったのです。
すべてはお兄様の仕業だったのです。
レティシアを使ってわたくしを呼び戻し、エドワード様の恋心を利用したのです。もしかするとエドワード様に、わたくしがまんざらでもないとお伝えしているのかもしれません。全ては公爵夫人を身内に持つためだけに企んだのでしょう。叔父様のご機嫌取りの意味もあったのかもしれません。
それができたのはお兄様だけです。
だってわたくしとウィルの関係を知っていたのは、お兄様だけなのですから。
お兄様はわたくしにウィルが去ったと言い、ウィルにわたくしが飽きたと言ったのでしょう。彼の恋を諦めさせるために。
きっとそうに決まっています。じゃなきゃウィルがいなくなるわけありませんもの。
だけど人にもご自分にも甘いお兄様です。
保身のため、叔父様にわたくしとウィルの関係は言えませんでしたし、ウィルの手紙を盗み見て、たったこれだけの文章ならいいだろうと、わたくしに渡してくださるくらいには、お兄様はお人好しでした。人一倍愛を否定するくせに、わたくしたち妹を誰よりも愛しているのもお兄様なのです。だから良心の呵責に耐えかねて、この手紙をわたくしにくれたのでしょう。
ああ、なんだ。そうだったのね。
わたくしは手紙を抱きしめました。固く凍りつきそうだった心が、あっという間にほぐれていくように感じました。
まだ将来の希望を語るエドワード様の服の端を引っ張って、わたくしは彼を見上げました。
「エドワード様。わたくし、悪女でございます」
「知っています」彼はぎょっとしたような表情を浮かべた後で、ぎこちなく言います。「そういう噂があるということは」
「わたくし、処女ではありません。十四の時に、三十の男性と恋をしました」
「――はい!?」彼の顔は青ざめました。
「わたくし、妹に毒を盛りました」
「ま、まさか。あれはレティシア嬢の狂言でしょう?」
「そう思いますか?」
「そうで、ないなら。そうでないなら何だというのです!」
「わたくし、平民の男性を愛しました。その男性を手に入れるためなら、誰を殺してもいいと考えています。それでも、わたくしを愛し、結婚してくださいますか」
エドワード様が顔を引き攣らせ、ほとんど叫ぶように言いました。
「だとしたら無理です!」
何もかも、ウィルとは異なる反応でした。わたくしも叫び返しました。
「わたくし、やっぱりあなたとは結婚できません!」
ホッとしたようにエドワード様は何度も頷きました。
「ええ、私も全く同じセリフを言おうと思っていました!」
「エドワード様! 馬車を止めてくださいまし! 馬をお借りいたします!」
言うやいなやわたくしは馬車の外に飛び出して、御者から馬を奪って走り出しました。
馬を走らせながら、わたくしは自分が笑っていることに気が付きました。回りくどいことをしなくても、初めからただ、彼のところに走って行けば良かったのです。わたくしに必要なことは、一番最初から、それだけでした。
――ここに、わたくしの罪を告白します。
ずっと幼い頃の話です。両親が亡くなって心細くて、怖い叔父の家で暮らしていた頃のことです。
わたくしには、大好きで大好きでたまらない、少し年上の男の子がおりました。
彼は優しくて頭が良くて、かっこよかったのです。わたくしは彼と結婚するつもりでした。けれど、数年もしないうちに、わたくしたち兄妹は別の家に預けられ、その男の子とは、離れ離れになってしまいました。
でもずっと、彼のことを想っていました。心の中にある温かな彼との思い出があれば、どんな噂を立てられてもへっちゃらでした。
やがて、この国の王子とわたくしの婚約がまとまりました。初恋を大切にしながらも、わたくしはユーシス様と結婚するつもりでした。本当に、そのつもりだったのです。
でも、運命はやってきてしまいました。
偶然、叔父の用事を仰せつかった彼と、お城で再会してしまったのです。思わず声をかけてしまいました。成長した彼を当然知っていました。だってこっそり、見つめていましたから。
わたくしが彼を覚えているとは少しも気付かれないように、あくまで叔父の使用人として見かけたことがあるだけのように、気さくに、爽やかに、話しかけました。
止まっていた時が動き出したかのように思いました。王子と結婚なんてしてはだめだと気が付きました。彼はもうすぐ結婚するのだと言っていました。だとしたら、どうにかしないと――。そう、思いました。
便秘薬を、毒薬なのだと妹に偽り話ました。薄めれば死ぬことはないけれど、体調不良は起こせるから、嫌いな人の飲み物に入れるつもりなのだと、真意を悟られないように、彼女の前で、そう言いました。
レティシアは、子供の頃からわたくしに張り合ってきました。わたくしのものをなんだって欲しがりました。ユーシス様を欲しがっていることは知っていました。だからきっと、なるようになるのだと思いました。
叔父は粗相をした娘を、適当な男と結婚させ地方に下がらせるという手を多用していました。わたくしは叔父にとって未だ価値のある駒でしたから、いずれは地方から呼び戻すつもりだろうと思いました。であれば、口が固く実直な信頼できる男性で、わたくしと年が近い方と、結婚させるのではないかと予測しました。
あとは、彼――ウィリアム・ウェストがわたくしを愛すれば、わたくしの計画はすべて上手くいくはずでした。
その最後の部分で、これほどしくじるとは、思ってもみなかったのです。
城に戻ると、数時間は経っているのに、ジャスティンお兄様はまだ門の近くにいて、わたくしに気付くと驚愕の表情で怒り出しました。
「メイベル! なんで戻ってくるんだ!」
彼の相手をしている時間も惜しいのですが、これだけは伝えたかったのです。だから戻りました。
「ジャスティンお兄様、レティシアを守ってね。ユーシス様と結婚なんてさせてはだめよ。本当の幸せを掴むためには、彼を諦めろって、どうかそう言って」
「お前から言えよ」
「わたくし、急いでいるんですもの」
「何に急いで――」
言いかけて、お兄様はわたくしの手に握りしめられている手紙に気づいたようです。
「後悔するぞ」
「いいえ? まさか」
お兄様は泣きそうな顔になりました。
「僕は今までだって、ずっと守ってきた。お前たち二人共をだ」
「知っていますわ。ですがこれからは、わたくしのことは守らなくて大丈夫です」
お兄様は声を喉につまらせました。
「いいやこれからだって、守るさ。お前のことも。今までと変わらず、必死にさ」
胸が痛みました。お兄様もお兄様なりに、わたくしの幸せを、ずっと考えてくれていたのでしょうから。悲しいのは互いが思い浮かべる幸せに、大きな違いがあることです。
「どうかお兄様も、こんなお城からは早くお逃げになって」
お兄様は泣き笑いのような情けない表情を浮かべました。
「どこへ逃げろと言うんだ?」
「どこへだって」
「どうやって」
「二本の足で」
それだけ言うと、唖然とするお兄様を残して、わたくしは馬を蹴りました。エドワード様と向かった場所の、ちょうど真反対の橋の方へ――。
ですが、橋の真ん中付近に差し掛かったところで、勢いづいていた心は、突如しぼんでしまいました。
馬の足も徐々にゆっくりになり、人間の足で歩いた方が早いような速度になって、遂には止まりました。
橋の真ん中には、わたくしを凝視する一人の男性が一頭の馬とともに佇んでいたのです。
「こんなところで、何をしてらっしゃるの?」
「妻を迎えに来ました」
無機質に彼は答えました。
わたくしは肝心なことを忘れていました。
わたくしがずっと彼を慕っていたとしても、わたくしがもう愛していないと告げられた彼が、同じ気持ちでいるなんて、どうして分かるというのでしょう。
彼はメイドさんと結婚するという噂でした。妻ということは、もう既に、結婚したということでしょう。
「そ、そうですの……」
結婚おめでとうございますと、たった一言そういうべきなのに、言葉の続きを言えないわたくしに向かって、彼は大声で笑い出しました。
「妻というのは、あなたのことですよ!」
瞬間、もう隠しきれないほど強く心臓がときめきました。
「で、でも結婚の準備をされていると聞きました」
ウィルは、わたくしが大好きな笑顔で笑いました。
「あなたとの結婚に決まっているじゃないですか。俺が結婚したいのは、あなた以外にはいません。大急ぎで土地を得て、二人で暮らす家を得て、生活の基盤を整えました。あらかた準備を終えたので、あなたを攫いにやってきました。手紙を読んで、俺を信じてくれたなら、待っていてくれるんじゃないかと、わずかな期待に賭けました」
ならば彼は、賭けに見事に勝ったのです。わたくしが黙っていたからでしょうか、彼は不安げに表情を曇らせました。
「……やっぱり、俺ではだめでしょうか」
慌ててわたくしは言いました。
「いいえ、いいえ! もちろんいいですわ!」
言いながら馬を降り、彼の腕の中に入り込みます。がっちりと彼は抱きしめ返してくれました。
「だけど、あなたはわたくしが愛していないと伝えられたのでしょう? どうして信じてくれたのですか?」
「あなたの企みに、すべて気がついていたからです」
「企みって?」とぼけようとしたけれど無駄でした。彼の指が、壊れ物を扱うようにわたくしの髪に触れました。
「あなたは我が儘で世間知らずで、ごく自然に人を見下す節があるけど、そんなあなたごと俺は愛してしまいました。
だからこそ気付いたんです。一緒に暮らす中で、あなたも俺のことを覚えていて、ずっと好きでいてくれていたのだろうなということに。俺と結婚するために、どこまで何をやったか、予想していました。
そこまでしたあなたが、そう簡単に俺を諦めるとは思えません。もしあなたが小さい頃と同じように俺の胸に飛び込んで来てくれるのなら、何が何でも連れて帰るつもりでした。そうでないなら、まあ、それまでです」
「いつ、気がついたんです?」
「お一人で馬に乗った頃からです」
「あら、随分と遅かったのですね?」
わたくしが言うと、彼はますます笑いました。わたくしもまた精一杯、彼を強く抱きしめました。
「わたくし、飛び込んだでしょう? 何度だって、あなたの胸に飛び込みます。だからあなたは、両手を広げて待っていてくださいまし」
もうしばらくこうしていたかったのですが、城の門から鋭い声が聞こえてきました。
「おいそこの新婚! のんびりしているとまた引き離すぞ! 領地なり農場なり、どこへでも行ってくれ! 後のことは、仕方ないから僕がやっておく!」
ウィルがわたくしを、馬の上に乗せました。
「ウィル、わたくしの後ろに」
「もちろんそのつもりです」
彼の両腕がわたくしを包むように回され、馬は走り出します。
ウィルの声が、すぐ背後でしました。
「ハイマー様はお怒りになるでしょうね。俺を殺すおつもりかもしれません」
「そうはならないでしょう」わたくしはきっぱりと言い切りました。
「叔父の心配事は今、レティシアとユーシス様の婚約です。だけどもしそこが切れれば、他の娘を差し出すことに頭を巡らせるでしょう。地方に逃げた悪女のわたくしのことなどすぐ忘れ、眼中にさえないはずです」
「そこまで考えていたのですか?」訝しげなウィルの声に、わたくしは答えます。
「それ以上のことを考えています。
その先も、そのもっともっと先も、わたくしとあなたの幸福な暮らしを、ずっとずっと遥か先まで考えていますわ。幸せになれるパターンは何通りもございます。ウィル、心配なんていりません! わたくしに任せてくださいませ!」
彼が吹き出した気配がしました。
「流石ですね、メイベル様は」
彼が笑ったので、わたくしの気分は俄然良くなります。
なんだかとてもおかしくなって、ケラケラと笑いながら、わたくしは胸を張って答えました。
「だってわたくし、悪女ですもの!」
〈おしまい〉
最後までお読みいただきありがとうございました!
感想、評価いただけると嬉しいです、今後の励みになります。
実は妹レティシアと兄ジャスティンの話も連作として想定していて、今回書ききれなかった余白の部分を埋めていきたいなとぼんやり思っています。本当に書くかはまだ未定です。
他にも色々書いているので、良かったら覗いてみてください!