例外の怪物
走る。街を、雨に飲まれた世界を、ホムラは疾走する。
染み込んだ雨水で衣服は体にべっとりと張り付き、重かった。走るたびに、白衣の裾から雨水が飛び、地面を濡らす。
水たまりを踏みしめた拍子に飛んだ雫が、ズボンにかかる。ばしゃり、とどこか遠くのことのように音が聞こえた。
「……?」
肺が痛かった。運動不足な状況で急激に動いた弊害か、ひどく頭が重くて、体が言うことを聞かなかった。それは、決して雨と運動だけのせいだとは、思えなかった。
荒い呼吸を繰り返しながら、ホムラは周囲を睨む。
立ち込める雨の先には、人影一つ見えなかった。動く者が、なかった。
過ぎ去っていく景色の中、信号の光だけが無機質に時を刻んでいた。
まるで世界から人が全て消えてしまったように、ホムラは一人だった。
悪寒が強くなる。
人の気配が消えた街が、その異様さを物語る。
足が重かった。まるで、前に進みたくないと叫ぶように。
息が切れる。体が重い。
けれど、ホムラは走って、走って、そして、事務所に――事務所だった場所に、たどり着いた。
「……………は?」
ぽかんと、口を開いて立ち尽くす。開きっぱなしの口から漏れ出た言葉は、ホムラの意識に上ることはなかった。
視界の前に、がれきの山があった。右を見て、左を見る。半壊した左右の建物は、ホムラの記憶にある近隣の家。
そして、目の前。探偵事務所があったはずのビルは、まるで内部から爆発したように一階と二階が吹き飛び、崩れていた。
がれきの山。明らかな異常事態なのに、周囲には誰もいない。そのこと自体が異常で、そしてホムラの目には、異常の核と思しき漆黒の霧が見えていた。
おそらくは、幽霊とか妖怪とかその手の類の何か。ホムラがこれまで出会ったことのない怪物が、そこにいた。
まるで目覚めるように、がれきの奥から黒々とした霧が一気に噴き出した。闇の粒子とでもいうような、霧。
一瞬虫の大軍のように思われたそれは、まるで意志があるように動き、無数の手の形を取ってがれきの山を持ち上げて。
「……くそが」
その先から、見覚えのある少女が――ホムラに依頼をしに探偵事務所を訪れていた少女が、いた。
白目のない真っ黒な目が、双眸の中でぐるぐると蠢いていた。光を飲み込むような一対の目が自分を捉えたという予感がして、ホムラは震えを抑えるように歯を強く噛みしめ、恐怖を飲み込んだ。
漆黒の霧を手足のように操る怪物が、そこにいた。かつては人間だった、そしてこの世界から消滅することができずにあり続けた人間の魂だったもの。それはもはや、幽霊などではなかった。悪霊、あるいは、単純に化け物。
人間という枠から両足共に抜け出た怪物が、ホムラの目の前にいた。
逃げろと、体が叫んでいた。おぞましい怪物と、現世に干渉できるという異常を前に、幽霊を見ることができるただの人間でしかないホムラに、できることなどなくて。
だが、ホムラはここで黙って逃げ出すような殊勝な性格ではなかった。
事務所の看板を取り囲んでいたアルミ枠、壊れてバラバラになったそれを握って、構える。このまま尻尾を巻いて逃げられるかと、ホムラは覚悟を決めて一歩を踏み出した。
漆黒の手が、地面に叩きつけられる。
ギリギリのところで回避すれば、手は大地に沈んだ。
物体への干渉能力はないのか――そう思いながら斜め後ろをちらりと見たホムラは、盛大に顔をしかめた。
手は地面に触れることができなかったのではなく、地面に触れ、そしてぱっと見では気づけないほどあっさりと地面にめり込んでいた。
持ち上げられた手の下、大地には手形が刻まれていた。まるで圧縮機でも使ったような破壊を前に、ホムラは逃げ出すべきだったと後悔した。
雨で視界が悪い中、怪物少女が腕を振りぬく。
しゃがんで、横っ飛びで躱して、ホムラは前を通過した霧の腕にアルミサッシを振り下ろした。
ぐにゃりとアルミが曲がる。霧の腕には、変化なし。
棒を捨てて、前へ走る。
真下から、衝撃。
地面の下を這い進んでいた腕が、アスファルトごとホムラの体を吹き飛ばした。
宙を舞うホムラは、避けることも叶わず、振りぬかれた漆黒の腕の攻撃を食らって吹き飛んだ。
数度地面を跳ね、車道を挟んで反対側の建物の壁に衝突した。
全身が揺さぶられるような衝撃。視界が真っ白に染まり、口の中に血の味が広がった。
骨が折れるような音、体を伝う血の感覚。
降りしきる雨が、ホムラにはやけに冷たく感じられた。
腹の底から、怒りがにじんだ。
それはかつての自分、そして今の自分の無力さに対する怒りだった。
化け物たち相手に、何もできない自分に対する、怒り。
震える拳を握った。
かすむ視界の中、ゆっくりと少女がこちらに迫っていた。
漆黒の腕が、ホムラの体をつかみ、持ち上げる。
『どうして、お母さんとお父さんを救ってくれないの?どうして?ねぇ、どうして?』
テレビの砂嵐の音のような、ノイズ混じりの声が少女の口から響いた。喋れるのかよこの化け物が――心の中でホムラは毒づいた。
「はっ、俺が生者で、依頼料が無ければ仕事じゃねぇからだよ」
震える手で、言葉を紡ぐ。漆黒の腕に力が入り、バキボキと全身の骨が折れる音がした。獣のように喉を迸る絶叫をどこか他人事のように聞きながら、ホムラは怪物少女を睨んだ。
「……くそ幽霊が」
視界が、かすんでいく。
闇に落ちていく世界の中、真っ黒な少女の中に白い光が見えた気がした。




