狐の神様
ホムラは実体なき幽霊や精霊の類が見える、ただそれだけの人間だ。妖魔女王という仇敵を倒すために鍛えてきたとはいえ、その力は人間の枠組みを超えることも、超人レベルに至っていることもなくて。
だから、その結果は当然といえば当然だった。
少年精霊に物を落とされて妨害をされながらも、深見が振りぬいた髪の束はホムラの体に直撃した。
肺から空気が強制的に吐き出された。恐るべき衝撃で脳が揺れ、思考が吹き飛んだ。
それから、衝撃。
地面をはねたホムラは、全身が熱を帯び、激しい痛みを感じていた。
まったく太刀打ちできていなかった。
吹き飛んだホムラを、心配げに依頼主の女が見つめていた。その視線を感じながら、ホムラは口内に負った傷のせいで口の端からこぼれる血を舐めながら体を起こす。
全身が激しく痛んだ。視界が明滅して、くぐもった悲鳴がのどを震わせる。
にやにやと笑う深見を見て、ホムラは自分を叱咤する。あの程度の野郎にいいようにされてたまるかと、せめて一発入れてやると。
そんなホムラへと深見が髪を伸ばす。まるで精神的に甚振るように、その髪は地面を這うようにゆっくりとホムラに迫った。
痛む体に鞭打って、ホムラは深見の髪を払う。蛇のように揺れる髪は、くるりとホムラの腕に巻き付く。そして、恐るべき膂力でホムラの体は空中へと持ち上げられた。
体表を髪が這い進む。全身を縛り上げられたホムラの首に、髪が巻き付く。
その光景は、あるいはかつてホムラが妖魔女王にされた状態とそっくりだった。髪で体を縛り上げた妖魔女王、無力でなすすべなく宙づりにされるホムラ。加虐心に満ちた深見の顔さえそっくりだった。
ゆっくりと近づいてくる深見が、その歩みに合わせてホムラの首を少しずつ締め上げていく。それでも、ホムラは気丈に笑って見せる。
うっとうしい少年精霊の攻撃を深見は髪ではじく。これ以上の面倒はごめんだと、まるで羽虫を払うように深見は宙を漂う少年精霊を髪で吹き飛ばした。
顔を苦悶にゆがめた少年の姿が横にそびえる壁の先に消える。髪の鞭がコンクリートを穿ち、ぱらぱらと破片が舞い散った。
「……無様だね。彼女を信じないからこんなことになるんだよ」
あざ笑う深見の言葉を聞いて、ホムラが表情を消す。その目に宿る憎悪の光が、深見には理解できなかったし、気づきもしなかった。
「彼女ってのは、妖魔女王のことか?」
「そう、その通りだよ。僕にこの力を授けてくれた偉大なる女王、玉藻前の系譜に連なる女王のことさ」
玉藻前。それは御伽草子などに語られる、鳥羽紹鴎を篭絡した魅惑の妖狐。仇敵を調べる中で得た知識を思い出しながら、ホムラは深見を、その体の奥に宿っている妖魔女王の力のかけらをにらんだ。
「君にも、声が聞こえたんだろう?手を取ってと、そう呼ばれたんだろう?」
深見の言っていることは、正しくない。なぜならホムラは、おぞましい力の破片に選ばれたわけではなく、強制的に力を流し込まれたのだから。だからホムラは、妖魔女王の力に呼びかけられたという経験はなくて。
そして、自ら力を受け入れた深見と、強制的に力を与えられたホムラの違いは、嫌悪という形で互いに現れていた。
妖魔女王の呼びかけに答えず、力を霊視能力にのみ費やすホムラに、深見は怒りすら覚えていた。このような素晴らしい力を使うことなく、霊視にとどめているホムラのことが、深見には悪に思えた。
そしてホムラもまた、幽霊にかかわる力を進んで求め、妖魔女王のような畜生に自ら落ちた深見のことが気持ち悪くてならなかった。
ホムラが血の混じった唾を深見に吐く。赤い液体が深見の頬にあたり、飛び散る。
無表情で顔を袖でぬぐった深見が、髪を強く締め上げる。
呼吸が、できなくなる。顔が赤くなり、首元をかきむしるようにホムラがまだ動く片腕で首を絞める髪を引きちぎろうとあがく。
それほどまでに追い詰められてなお妖魔女王の力を受け入れて「正しく使う」気のないホムラに、深見は失望した。
髪に、力を入れる。無能なホムラの首を折り、悪たるその命をこの世から消し飛ばそうと、考えて。
「何だ⁉」
突如ほとばしった純白の光が、深見の目を焼いた。その光は、まるでホムラに後光が差したように、ホムラの背後から放たれていた。
純白の光とともに、柔らかな森の風が吹き抜ける。木のにおい、太陽のにおい、水で湿った大地のにおい、腐葉土のにおい、獣のにおい――。
そして、光が収まった次の瞬間、深見の前を高速で影が通り過ぎ、ホムラを縛っていた髪のすべてを引きちぎっていった。
「まったく、ホムラさんって結構無茶をするよね」
そんなことをぼやきながら、一人の青年がホムラを横抱きにして女性の隣に降り立つ。女が指をあてていた一枚の紙が、パタパタと音を立てていた。
「……誰だ?」
明らかに人間離れした、突如現れた青年。視力を取り戻しつつある深見は視線の先にホムラを抱く新たな人物と、その存在を呆けたように見つめる女と、女をかばうように立って深見をにらむ男――体が透き通った幽霊の姿があった。
青年の茶色っぽい橙色の髪がはためく。危機感をあらわに、深見がその人物へと問いかける。すなわち、何者かと。
ちらりと男に一瞥をくれた青年の髪が跳ねる。
それは髪ではなかった。やや長めの髪の中から延びる三角は、一対の耳。狐の耳だと、深見は思った。
「初めまして。僕はハクト。この辺りの妖や妖怪を管理する神の一柱だよ」
ピコピコと耳を揺らしながら、現れたハクトが深見に告げた。
ホムラにある依頼をした女は、なすすべもなく倒れるホムラを見て恐怖と絶望の中にいた。怪物のように髪を動かす深見。化け物じみたその姿を見て、自分もホムラの次に同じような目に合うのだろうと女は思った。
かつて、深見をペテン師呼ばわりして。髪をつかんで引きずるほどに深見に恨まれているという自覚のあった女は、恐怖の中で必死に思考を巡らせた。
そんな中、一枚の白い紙が女の目に留まった。乱雑に折りたたまれた紙を開く動きは、無意識のものだった。
藁にもすがる思いで紙に視線を下ろした女が見たのは、ひらがなの五十音表によく似た、けれど少しだけ違う字の足された紙面だった。数字と、男と女の文字、特徴的な鳥居、そして「はい」と「いいえ」の文字。
それは、ホムラがハクトやそのほかの幽霊と意思疎通を図る際に利用しているこっくりさんを呼ぶ紙だった。
女は、一瞬思考を停止させて。
そして、反射的にその紙面へと指を伸ばした。
くぐもったホムラの悲鳴が聞こえた。
女は、現実から逃避するようにありったけの思いを込めて、祈った。
震える口を動かして、呼びかける。
「こっくりさん、こっくりさん、おいでください」
わかっていた。こんな行為になんの意味もないということを。そもそもこっくりさんを呼ぶ際には硬貨を使うはずで、確か二人以上でテーブルの上で行うものだったはずと、冷静なようでどこか現実を離れした意識で女はそう考えて。
けれど、女は救いを求めた。
真摯に、祈り続けた。
そして、そんな女に寄り添うように、一人の手が重なった。
それは、女の亡き恋人。そして、ホムラに自分の本当の最期の言葉を届けてもらうべく、ホムラに近づいていた幽霊だった。
男は、祈った。
祈って、祈って、願って。
そして、奇跡は起きた。
ここら一帯を治める神は、どんな運命のいたずらか、妖狐で。
そして、狐を呼び寄せるこっくりさんの呼びかけに答えて、ハクトが姿を現した。
「……神?」
ハクトの言葉を口の中で繰り返した深見がうつむく。そして次の瞬間、顔を上げて盛大に笑った。
不思議そうにハクトが首を傾げる。
「神、神ねぇ。この世界に、神なんていないさ。神なんて存在がいれば、僕はもっと救いのある人生を送れていたはずだからね」
怒気に顔をゆがめて、深見がハクトをにらむ。自分を愛してくれない神など、いてもいなくても同じだと、そんな神はいなくていいのだと、そう自分に言い聞かせているようにハクトには思えた。
「そんな力を手にしておいて神を否定するの?」
「もちろん。これは偉大なる女王の力だよ。神のちからじゃないからね」
そう、と短くつぶやいて。
そして次の瞬間、まるで瞬間移動したように深見の懐にもぐりこんだハクトが拳を振りぬいた。
みぞおちに拳が直撃した深見の体がくの字に折れ、宙に浮きあがる。
開かれた口からは空気と唾が飛び、それに顔をしかめながらハクトは深見の顔面を掌でつかむ。
力を、注ぐ。
「がああああああああ⁉」
まるで魂を切り裂かれたような痛みを覚えて、深見ががくがくと体を震わせながら絶叫する。死を覚えるようなその声に、女が恐怖に顔を引きつらせる。救いだと思われたハクトが、女には悪魔のように思えた。
「消えろ!」
純白の光が、ハクトの体から立ち上る。それは、賦活の力の奔流。
可視化されるほどに濃密な生命の輝きを秘めたエネルギーが深見の体の力を引き上げ、その奥、魂にこびりつくように存在する妖魔女王の力の断片を吹き飛ばす。
慌てて逃げ出すように、あるいは深見の体内から追い出されるように、真っ黒な霧がその肌から噴き出した。
「散れッ」
大気に満ちる生命のエネルギーを活性化させ、ハクトが妖魔女王の力を散らそうとする。
けれど、妖魔女王の力のかけらは、最後のあがきを見せた。巧みに風に乗ったその霧は、すぐそばにいた存在めがけて走った。恐怖という心の隙間を作った、女のもとへと。
女を守る幽霊が、覚悟を決めて両手を広げる。彼女には触れさせないと、霧をにらみ。その視界に、一人の男の背中が割り込んだ。
「させるかよ!」
漆黒の霧の進路上に、ホムラが割り込む。殴りつけるように、ホムラが霧へと拳をふるう。
その手は、もちろん霧に触れることはかなわなくて。
けれど、霧はまるでホムラに飲まれるように触れた拳から勢いよく吸収されていき、そのすべてがホムラの体に飲み込まれた。
ハクトの手から離れた深見の体が地面に崩れ落ちる。
「ええ……?」
あろうことか妖魔女王の力を吸収してしまったホムラを見ながら、ハクトは茫然と目をしばたたかせた。
ホムラが体の状況を確認するように拳を握り、開く。違和感は、なかった。それと同時に、ホムラの脳に一つの直感がよぎった。
妖魔女王から受け継ぎ、ホムラ自身のものとなった霊能力の、上昇。先ほど取り込んだ霧がその強化に使われたとするならば――新たな力の使い方を、ホムラは直感的に理解して。
ハクトから視線をそらすように背後へと振り向いたホムラが、ポカンと目を見開いたホムラを見つめていた男の幽霊へと手を伸ばす。
その肩に、触れて。
「……え、修哉?」
男の幽霊の姿が、世界に浮かび上がった。ホムラという特異な存在に橋渡しされた幽霊の姿が、女の目に映った。見覚えのある背中のように思えた。
男が、振り向く。その顔を見て、女は息をのんだ。
死んだはずの、恋人の姿が、そこにあった。傷一つない、けれど体がうっすらと透けた男。愛しの存在の名を呼ぶ。
夢だと思った。都合のいい幻覚を見ているのだと、そう思って。
けれど先ほどまで見ていた悪夢を思えば実に現実的だと、女は思った。
男が、ゆるりと微笑む。女の視界が、にじんだ。
泣くな、泣くなと心に言い聞かせる。けれどそうするほどに涙がとめどなくあふれてきた。
流れる涙をぬぐうように男が手を伸ばす。その指は、生者である女に触れることは叶わず、肌を浅く透過した。
そうして、男は自分の現状を、自分は死者だということを思い出して、寂しそうに笑った。
「由佳、大好きだよ」
その声が、女に届いたかどうかは、こらえきれなくなった嗚咽が示していた。
女を見ていた幽霊の輪郭が、ぼやけていく。
心残りを果たした男。彼の魂をこの世界につなぎとめていた鎖が切れたことで、男は成仏しようとしていた。
「前を向いて、ゆっくりでいいから、歩いて行って」
ちらりと背後を向いて、ホムラに目礼して。
男の姿が、霞と消える。
伸ばした女の手は、何もつかまない。けれどその心には、確かなぬくもりが、思いがあふれていて。大切な記憶を抱きしめるように自らの体を抱きかかえて、女は泣いた。
コンクリートジャングルの暗がりに、その泣き声はいつまでも響き続けた。




