新米神様とその伴侶
新たな力の使い方を見せる妖魔女王。それはもはや、人間からかけ離れた外見をしていた。黒いスーツに全身を包みこんだ女は、背後の木へと振りぬいた腕を見つめて、その次にはさらに髪を編んで腕を覆う髪を太くした。
ひとまわり大きくなったいびつな片腕を握り、女がハクトを見る。ハクトもまた、今度は視線を逸らすことなく女を睨んでいた。
「……勝てるのか?」
ぴりぴりと張り詰めた空気の中、ホムラはハクトに確認した。
大丈夫だよ、ハクトはあっさりと答えて見せた。
「何せ僕は生命神だからね。肉体性能を越えた力を出す肉弾戦特化の相手に負けるわけがないよ」
とても強そうには見えないひょろりと長い腕を曲げ、力こぶを作る動きをして見せる。けれど――と続く言葉は、先ほどとは違ってあまり余裕はなかった。
「悪いけど、あまり守れそうにはないんだ。だから、ホムラさんたちは少し下がってもらっていてもいい?」
守ってもらっている身として否やはなかった。ホムラは静かに頷き、頼むと一言残してハクトに背を向ける。
ぼうっとハクトを見ていた幽霊を睨む。我に返ったらしい少年幽霊が、ホムラの恐ろしい形相を見てびくりと肩を跳ねさせる。行くぞ、と顎で退避を促すホムラに従い、ハクトを一瞥してから少年幽霊はホムラの背を追って退避した。
「さて、巻き込んでしまいそうなホムラさんたちも下がってくれたことだし、本気を出してあげるよ」
パシンと手のひらに拳を打ち込んだハクトが不敵に笑う。対して、妖魔女王は何の反応も見せずにそこに立っていた。
体を取り囲む黒髪がうごめき、拳がさらに肥大化する。
まるで影のようだと、変幻自在な髪の鎧を見てハクトは思った。
一歩。大量の土砂を巻き上げながら走り出したハクトと妖魔女王が、森の中に広がる円形の大地で衝突した。
苦虫をかみつぶしたような顔をしながら、ホムラは轟音の発生源を睨んでいた。森の中ほど。上り坂の途中で足を止めたホムラが、山鳴りのような恐ろしい音を響かせて戦うハクトの勝利を祈る。
無力な自分が、嫌だった。
あの場所に自分も立てていて、あそこで戦えたらどんなに良かっただろうと、ホムラは歯ぎしりしながら戦闘によって巻き上がった土煙を見つめた。夕日を帯びてきらきらと輝く砂塵は、きれいで、けれどひどく醜悪なものに見えた。
「うお⁉」
そんなホムラの顔を心配気に覗き込んだ少年幽霊の顔が、ホムラの視界にドアップで映る。まるでキスをするような距離の近さに、ホムラが慌てて体をのけぞらせた。
大丈夫、と確認するように少年がさらに前に出る。少しだけ青い顔をしながら、なんでもねぇよ、と先ほどまでの想いを幽霊に見透かされていたかもしれないという気恥ずかしやらなにやらで、ホムラはぶっきらぼうに言葉を吐き捨てた。
それから、一度離れるために傾斜の上を睨み、それから背後へと目を向ける。
「……大丈夫だろうな」
風にのって流れて行く声は、誰にも届かず戦闘の轟音にかき消される――はずだった。
「大丈夫よ」
突如響いた女性の声に、ホムラは盛大に顔を引きつらせる。すぐに警戒モードに映らなかったのは、先ほど目の前で繰り広げられた理解不能な戦いにどこか放心していたのと、その声に聞き覚えがあったから。
気配もなくいきなり声をかけて来た相手を睨みつけながら、脅かすんじゃねぇ、とホムラは告げる。
そこに立っていたのは、生命神ハクトの妻だという、ユキメという女だった。
「大丈夫よ、ハクトは強いから」
手負いの獣のように威嚇するホムラをくすりと笑い、ユキメは澄んだ瞳をハクトの方へと向ける。その目には、確かな信頼の光があった。
「あいつは……強いんだよな?」
ホムラは、ハクトのこともユキメのことも、ほとんど知らない。あるいはそれはハクトたちも同じだったが、それはともかく、ホムラはこの戦いの勝利を、そして妖魔女王をこの世界から本当に排除できるんだろうな、というわずかな疑いの想いをユキメに告げる。
ハクトは強いのか、妖魔女王を斃せるのか、それに対するユキメの答えは、まるで氷のように冷え冷えとした視線だった。
その目の光に飲まれて、ホムラは言葉を失った。目の前の存在が人ではないと、ようやく理解した気がした。なまじ人の姿をしていて、人のように言葉を交わせるから、ホムラの中でユキメは人の枠に入っていた。どこか一風変わった、仙人や武人、といった印象。
けれど、違うのだと、目の前の存在は決して人間ではないのだと、その視線がホムラに突き付ける。ホムラのことなど、蟻やミジンコと等しい存在としか思っていない眼。羽虫を見る視線には、隠し切れない怒りが含まれていた。
「ハクトは負けないわ」
それだけ言って、ユキメはホムラから視線を外す。
ホムラはこれ以上逃げる気にもならなくて。何より、自分たちはさらに遠くへと逃げるから、と今のユキメに告げるのを躊躇した。
だから、ホムラと少年幽霊はユキメに並んでハクトと妖魔女王の戦いが生んだ、空へと立ち昇る砂嵐を見つめ続けた。
「…………あ」
そんな声が、隣のユキメの口から零れ落ちる。
ホムラがちらりと視線を向けた先には、瞳に焦燥をにじませるユキメがいた。
ハクトは負けないんじゃなかったのかと、そんな揶揄するような言葉が口からこぼれそうになった。けれど今はそんなことを言っている場合ではないだろうと、必死で飲み込んだ。
慌てたユキメの体の輪郭が、揺らぐ。人間から真っ白な美しい狐の姿に変化した――あるいは戻ったユキメが、とてつもない速度で山を駆け下り、ハクトの下へと走り出す。
完全に置いてけぼりになったホムラと少年幽霊は反射的に顔を見合わせ、そしてどちらからともなくユキメを追った。
戦いは、苛烈を極めた。髪による強化スーツじみた攻撃力と防御力を有した装備。それはいくらちぎれても復活し、ハクトの攻撃は女に通っているようには思えなかった。
胴体に拳を直撃させても、拳に返ってくるのは水を殴ったような感覚。衝撃吸収材のごとく巧みな編み込みが為されたスーツは、驚異の衝撃吸収能力を有していた。
基本的に肉弾戦を得意とするハクトにとってひどく相性が悪い相手――だが、その地力に差がありすぎた。
全く疲れを見せないハクトとは違って、女は戦いが続くほどに動きに精彩を欠いていった。それはあるいは、まだ神になりたてで師匠にしごかれた経験が記憶に新しいハクトと、強敵との戦いの勘を忘れて等しい妖魔女王の戦闘慣れや体力の差だった。
ほぼ互角の能力を有した二人の戦いはそのうちにハクトの一方的なものになる――はずで。
「ハクト!」
突然耳に届いたその声に、ハクトはぎょっと目を見開き、あろうことか妖魔女王から視線を逸らして声の主の方を振り向いた。それは、今の妖魔女王相手なら視線を逸らしてもどうとでもなるという確証と、愛するユキメが戦いのど真ん中に飛び込んできたことに対する困惑、そしてその声に込められた焦りに対する動揺ゆえだった。
振り向いた先、森の木々の間を光のように走りぬけるユキメがいた。その背後には、誰もいない。少なくともユキメが別の何者かに襲われているわけではないと、ハクトはホッと安堵の息を漏らす。
息を荒らげながら叩き込まれた妖魔女王の大きな拳を片手で軽く受け止める。集中力が切れてしまっているのか、あるいは髪を動かすのにもかなりのエネルギーを要するのか、真実のほどは不明だったが、それはひどく力のないパンチだった。
あっさりとハクトに拳を受け止められた女が歯ぎしりする。何より、一方的にあしらわれる中、もう警戒する必要もないとばかりに別の存在へと意識を向けるハクトが気に食わなくて、彼女は隠していた手札を切ることにした。
ぶわりと、妖魔女王の体を、拳を覆っていた大量の髪が、ほどけ、一斉にハクトへと襲い掛かる。編み込まれ、圧縮されていた大量の髪が、ハクトを取り囲む。
そのまま、糸の牢獄でハクトを縛り上げ、圧殺する――というのが妖魔女王の奥の手の一つで。
けれど、賦活という司る力で自身の筋力をさらに強化したハクトは、突然襲い掛かった糸の津波にあっさりと対応し、糸を引きちぎって圧殺から逃れる。
その目の前に、やっぱり慌てた様子のユキメの姿があった。
大丈夫だよと、こんな攻撃くらいでどうにかなったりはしないよと、ハクトは強化した動体視力でひげの一本までしっかりと視認したユキメに向かって、微笑んで。
「違う!その相手じゃ――」
喉から口にかけて、その構造だけを人間のそれに作り変えたユキメが、叫ぶ。それは、嗅覚によって感じ取った、妖魔女王でない存在への警鐘。
だが、その知らせは少しばかり遅かった。
突如、ハクトに引きちぎられて地面に落ちていた髪の毛が勢いよく動き出す。
否。それは、これまでハクトが気を抜く瞬間をじっと待っていた第三者が操る、ちぎられたものに混じった髪だった。
急速に蠢く髪がハクトの片足に絡みつく。とっさに引きちぎろうとしたが、髪の操作の方が一歩早く、ハクトの足が勢いよく引っ張られ、足が滑る。
体が傾き、ハクトは顔面から地面に叩きつけられそうなところで、腕立て伏せの体勢になってどうにか地面との激突を免れる。
そして、その視界の端の土が、突如盛り上がって。
怒気に顔を染めた人間の生首が――首だけの人間と見紛うほど体と頭のサイズがアンバランスな人面犬が、地面から飛び出した。
その顔を見て、走馬灯のようにいくつもの記憶がハクトの脳裏を駆け巡る。かつて、まだハクトがただの一匹の妖狐だった時のこと。狐としての母親の転生体である幼女と共に、ハクトはその人面犬から必死で逃げたことを思い出した。それは、妖魔女王の能力を見て思い出した、髪を自由自在に伸ばして操り、人を襲う個体だった。
当時のハクトはまだ弱くて、逃げるしかなかった。その時の苦い記憶が、呼び覚まされた。
鋭い真っ白な歯が、近づく。慌てて術で肉体を強化するも、一歩遅れた。
人面犬が、ハクトの首に噛みついた。
ブチブチと、肉を引きちぎるような音が響く。
腐っても妖。そして何より、首元の防御などそれほど力を入れていなかったハクトは、たやすく首の肉を噛みちぎられた。
傷から、だくだくと血が流れだす。
ハクトを傷つけた人面犬を、ユキメが頭突きで吹き飛ばす。
今が好機と、あるいはあらかじめそのタイミングを知っていたように、妖魔女王がハクトとユキメへと髪を伸ばす。
空中で無防備だったユキメは、なすすべなくその髪に体を拘束されて――次の瞬間、髪の束縛の中からユキメの姿が消える。
ハクトへと伸ばしていたはずの髪が、突如断ち切られる。視界が、揺らいだ。
妖魔女王の視界には、倒れるハクトの姿も、流れ出た血の跡も、自分が直接力を分け与えた実験体である妖、その人面犬の姿もなかった。
気づけば、妖魔女王の周囲は鬱蒼と生い茂る森だった。まるで、先ほどハクトが妖魔女王を仕留めるために生み出した森のようで。
一つ、白いものが木々の枝の上で動く。それは、雪のように白い毛並みをした狐だった。ユキメが、無感情な瞳で妖魔女王を見下ろしていた。
その視線が気に食わなくて、妖魔女王は一束の髪をユキメに向かって振りぬいた。
頭部がつぶれ、白い毛皮が赤く染まる。力尽きたその体が落下する――ことなく、ふっと幻影のように姿を消す。
そして、また一体、今度は女の視界の右端に白い影が映る。そこには、傷一つないユキメがいた。相変わらず、その目は無機質で、取るに足らないとあざけるように女を見下ろしていた。
潰す。死体も血の跡も消える。
さらにもう一体、潰す、もう一体、潰す、もう一体、もう一体、もう一体、もう一体――
気づけば周囲の木々の上には無数の白い狐の姿があった。妖魔女王は、気が狂ったようにその白い狐たちへと髪を振り続けた。
それが、ユキメの幻惑の術によって見せられている幻だと気づくことなく。
「ハクト!」
恐怖にふるえる声で名前を呼び、ユキメがハクトに駆け寄る。一瞬で狐から人の姿に変わったユキメが、地面に倒れているハクトへと手を伸ばす。必死になって、首の傷口からこれ以上血が失われないようにと、傷を手で覆う。
「死なないで、死なないでよ、ハクト!」
気づけば、ユキメの目からは涙が流れていた。心が酷く揺れていた。ハクトを失う恐怖と絶望で、どうにかなってしまいそうだった。
ハクトの血が、真っ白なユキメの手を染める。命の証明である熱を宿した血が、手を伝って地面に零れ落ちていく。
幻影に囚われている妖魔女王が振りぬいた髪の鞭が、何もない上空を切り裂いた。
「だい、じょ、ぶだよ」
ユキメの手の中で震えながら、青白い顔でハクトが気丈に微笑む。明らかに、致命傷。痛みを必死に我慢するハクトが目を閉じる。まるで、永遠の別れに向かって眠りにつくようで、ユキメは声にならない悲鳴を上げた。
大丈夫と、そう言いたげにハクトが反対の手でユキメの手を上から握る。
「あああああああ!許せない、許せないぃぃぃぃ!美しい顔をしているから、あなたは愛されているのね!そうに違いないわ!私も、私もあなたみたいな容姿があれば幸せになれるのよ。愛してもらえるのよ!だから顔を頂戴!私に、その美しい顔をよこしなさいよ!」
「うるさいのよッ」
ホムラの血で口を真っ赤に染める人面犬の空気を読まない言葉を一喝して、ユキメが術を発動する。
怒りに任せて発動した幻想は、女に絶望の世界を見せる。それは、狂気によって歪んで醜い顔を一度美貌に変え、鏡で人面犬自身に見せながらゆっくりと顔を歪めていくというもの。
最初は喜色に顔を染めていた人面犬は、それから絶望の悲鳴を上げる。せっかく手に入れた美貌が奪われる夢。
「いや、いやあああぁぁぁぁぁッ」
絹を裂くような絶叫が、人面犬の口からほとばしった。
そんな耳障りな声を無視して、ユキメはハクトの首を抑え続ける。血は、止まらなかった。ハクトの体が、急速に冷えていく。命が、その腕の中から失われていく。
嫌だと、叫んだ。泣き叫んだ。ハクトを失いたくないと、みっともなく悲鳴を上げた。
けれど、ユキメには何もできない。手のひらと傷口の間から零れ落ちる血は、勢いを落としながらも止まることなく大地を濡らし続ける。
もう、駄目だ――そう、暗い絶望の感情がユキメの心に広がって。
ハクトの口が、小さく動いた。
「何!ハクト⁉」
最期の言葉を、ハクトの声を聞き逃してなるものかと、ユキメが顔を近づける。涙やら何やらでぐしゃぐしゃになった顔をハクトの目の前に近づけて、耳を澄ます。
そんなユキメに小さく笑って、ハクトは口を動かした。
「――賦活」
ハクトの口から零れ落ちたのは、そんな、ユキメが予想もしていなかった言葉だった。
それは、別れの言葉ではなかった。むしろ、ユキメの心に広がっていた絶望を全てきれいさっぱり吹き飛ばしてしまう、魔法の言葉。
まるで世界にその存在を知らしめるように告げられた言葉と共に、ハクトの存在感が急激に膨張する。全身が淡い光に包み込まれ、柔らかな光が体を温める。
もう大丈夫だと、ユキメは安堵の吐息を漏らした。手を離した首の傷から血が溢れることはなく、空気にさらされたその傷口は、ユキメの視界の中で急速に癒えていった。
ハクトは、生命神の一柱である。一口に生命神といってもその力は色々で。自身の生命力を分け与えることのできる力、自分を命の経路のようにして一方から他方へと生命力を映す力、子宝に恵まれる祝福を授ける力、病に負けないようにする力、爪の先や切った髪を宿らせることでその者を健康に保つ力等、様々な方法で命を司る神がいる。
そんな神たちの中で、ハクトは最上位クラスの能力を司る神である。その力の根源は、賦活。あるいは活性化と呼んでもいい。それは、抽象的に言えば「対象の命の輝きを強める」と言ったもの。妖気というエネルギーを送り込むことで生命を活性化させ、それによって火事場の馬鹿力のような筋力を発揮させたり、木々を生やすだけでなくその成長の方向性を操作して枝で鞭のように攻撃することを可能としたり、世界という命に干渉して倒壊した建物を復元して見せたりと、慣れればとんでもない力を行使できる。
そして当然、ハクトは自分の体を癒すこともできた。
とはいえハクトはまだ新米。神としての力に慣れているわけでもなく、その能力はある程度の集中を要した。肉体を活性化して筋力を引き上げる程度ならまだしも、致命傷を癒すというのには極度の集中力が必要だった。
そして、ぎりぎりのところでハクトはイメージをまとめ、術を行使するに至った。まるで針穴に糸を通すような繊細さを持って、ハクトは自分の体を癒しきった。
その目が、うっすらと開く。
視界の中に、泣きはらしたユキメの顔が映った。
「……酷い顔だね」
ハクトが、手を伸ばしてユキメの涙をぬぐう。
「馬鹿」
そう言って笑いながら、ユキメはハクトを強く抱きしめた。
「……どうしろって言うんだよ」
たどり着いたその場所には、抱き合うハクトとユキメ、まるで狂ったようにおかしな方向へと攻撃を繰り出している妖魔女王と、絶望に泡を吹いて倒れている人面犬。四者を確認し、ホムラはもう一度「どうすんだよ」とつぶやいて空を仰いだ。




