新米神様の実力
『――どうしたの?』
携帯の電子音が響き、その先からどこか気の抜ける声が響いた。
「見つけたぞ。場所は――」
妖魔女王から目を離すことなく、ホムラは電話先で慌てふためくハクトに一方的に現在位置を告げて携帯を切った。
「……あの狐への電話ね?」
「だったらどうした?神相手には勝てないだろうから退散しようってか?」
歯をむき出しにしたホムラが、煽るように妖魔女王へと言葉をたたきつける。けれどその余裕ある笑みは崩れない。
空気が張り詰めていく。人間のそれではない強烈な悪寒を与えるプレッシャーが、ホムラの限界を探るように強くなっていく。
額に脂汗がにじんだ。背筋はもう凍ったように悪寒ばかりを感じていた。全身の産毛が逆立ち、体が震えようとした。
奥歯を強くかみしめて、ホムラは恐怖心を押し殺す。
視界がフラッシュバックする。
閃光とともに、過去の光景がホムラの視界に重なる。
宙を舞う長い黒髪、持ち上げられた両親の体。必死にもがく両親の首が折れる。
息が苦しくなる。絶望が心に広がる。
けれど、折れない。復讐の機会が、憎き悪を滅ぼす機会が来た今、倒れている場合ではないとホムラは心奮わせる。
一拍、二拍――きしむような心臓の鼓動を感じながら、ホムラは妖魔女王の顔をにらんだ。
その顔に、微笑が浮かぶ。そこに、ホムラは狂気を幻視した。
「ふふっ、いいわよ。子供と一緒に遊ぶのも親の務めだものね」
そんな言葉とともに、ぶわりと女の黒髪が伸びた。その姿は、けれど今度はホムラに絶望の過去を呼び起こさせることはなかった。
代わりにホムラの意識の海の中で浮かび上がった気泡は、つい先日対峙した怪物と成り果てた少女幽霊が、無数の漆黒の腕を振るう様子だった。
改めて少女幽霊と目の前の妖魔女王を重ねてみて、そっくりだとホムラは思った。
妖魔女王があの少女幽霊に力を与えた、あるいはその出現に干渉したという話も信ぴょう性があるものに思えてならなかった。
「いくわよ?」
「昔のようにはいかねぇよッ」
自分に言い聞かせるように叫んだホムラへと、まずは試しの一撃とばかりに大振りな動きで髪の束が振り下ろされた。
ホムラと少年幽霊はそれぞれ逆方向へと横っ飛びに回避。大地にたたきつけられた黒髪は、まるでノコギリのように地面を切り裂き、そこに深い溝を作り出した。
少年は、恐怖に顔を引きつらせながら女から距離をとる。
顔色を変えたホムラは、けれど逃げることなく女の周りを回るように走る。今重要なのは、時間稼ぎだった。ここで女に逃げられないようにして、ハクトの到着を待つ。それがただの人間でしかないホムラにできる、唯一のことだった。
本当は、ここでホムラが命を懸けて体を張る必要はないかもしれなかった。明らかに目の前にある石碑は、女と関係しているようだった。それはつまり、この場は退避して、改めてハクトを連れてくれば人外同士の頂上決戦を勝手に繰り広げてくれるということで。
けれどそんな未来を、ホムラは拒絶した。
次の時には妖魔女王は現れないかもしれない、ハクトと戦わずに済むように逃げるかもしれない、石碑にもさしたる意味がないかもしれない――そして何より、妖魔女王とハクトとの戦いに、ホムラ自身はただの一歩も踏み込むことができないだろうから。
胸の内にくすぶる復讐心を慰めるために、ホムラは立ち向かう。せめて一発くらい食らわせないと、怒りが収まりそうになかった。
横なぎに迫る髪。
体を地面に投げ出すようにしてその攻撃をかわす。
空中で軌道を変えた髪が、ホムラをとらえようと迫る。
腕立て伏せのような状態から勢いよく腕を伸ばして飛び起きて、走る。
向かう先は、女のもと。
そこはあるいは、多分このあたりで最も危険な場所。けれどそれでも、今のホムラには逃げるという選択肢は思い浮かばなかった。
心のどこかではこんなところで命を散らす必要はないだろうと叫んでいた。うるせえ死ぬつもりはないんだよ――そう怒鳴って、声を押さえつける。
お願いだから私たちのために危険なことをしないで――懐かしい母の声を振り切って、ホムラは前に走る。
お前は強い子だな――かつて膝をすりむいても涙をこらえていたホムラの頭を優しくなでた、父のごつごつした手を思いだす。その後に続くはずだった「けど泣いてもいいんだぞ」という言葉は、聞こえないふりをした。
走る、走る、走る。
殺法陣とでも呼ぶべき殺意の円の中に、ホムラは飛び込む。
それは明らかな自殺行為。自ら死へと飛び込む行為に、ほかならなかった――が。
ホムラは、一人ではない。それを、妖魔女王は理解していなかった。
上空から、弾丸のように地面に飛んできた少年幽霊が、今にもホムラに向かって振り下ろされようとしていた黒髪の束を踏みつける。
質量のない幽霊とはいえ恐るべき速度の乗った蹴りは、幽世の存在である妖魔女王に確かな威力を発揮した。
いくら自由に動かせるといっても、髪は髪。少年の勢いに耐え切れずたわんだ髪をさらに押し込み、少年は妖魔女王の頭部を蹴り――勢いあまって地面へと沈んでいった。
そして、そんな少年幽霊に交代するように、ホムラが最後の一歩を踏む。
すでに呼吸は荒く、肺が悲鳴を上げていた。
けれど高ぶったホムラは、それらすべてを無視して、強く拳を握りしめた。
揺れる女の視界の中で、ホムラが拳を振りかぶる。
反射的に弾丸のように射出した髪の束が、ホムラの肩を浅くないだ。
けれど、それはホムラの体勢を崩すには至らなかった。
髪の檻を潜り抜け、膝を伸ばし、拳を振り上げる。
バランスを崩して石碑から落ちていく妖魔女王、その頬に、ホムラの拳が叩きつけられる。
人間を殴るのと、まったく変わらない感触。
「おおおおおおおおおッ」
振りぬかれた拳が、女の体を錐もみ回転させながら吹き飛ばす。
くるくる回る髪が、ホムラの体を鞭打つように襲って飛んでいく。
荒い呼吸を繰り返しながら、達成感に満ちた顔でホムラは拳を突き出す。その拳に当てるように、少年もまた拳を突き出した。
阿吽の呼吸で連携を成功させた二人は、けれど視線を妖魔女王から視線を外すことはなかった。
長く伸びた黒髪を広げる女は、地面に倒れこんだまま呆然と頬をさすっていた。白い指が、赤くはれた頬を撫でる。チクリと、痛みが女を襲う。
そして次の瞬間、ホムラは一瞬意識が飛びかけた。
それほどの怒気、あるいは殺意が妖魔女王の体からほとばしり、ホムラを襲っていた。
冷や水を浴びせられたように一瞬にして高揚していた心が冷えた。手足が酷く震え、呼吸さえままならなくなる。
いつの時代から生きているかもわからない、怪物。ただの人間がそんな存在を怒らせて待っているのは死だけ。
ゆっくりと、女が起き上がる。その髪が、彼女の怒りを示すように激しく揺れる。
ホムラは動け、動けと己の体に叫んだ。恐怖を飲み込めと、あんな奴に殺されてたまるかと、己を叱咤する。
体は、まさしく蛇ににらまれた蛙のようにピクリともしない。
慌てふためく少年が、動こうとしないホムラへと手を伸ばす。その手のひらは、ホムラの腕をすり抜ける。
女の長い黒髪が編まれて太いロープのようになる。その先は指のように五本に枝分かれして、手の形を取り始める。
大きな手で、誰かもわからないように潰してやろうと、そんな言葉が聞こえた気がした。
ホムラは、動けない。
妖魔女王の手が、視界を覆う。
燃えるような夕陽に染まり始めた空を包み隠すように広がる手のひらが、ホムラの視界に影を落とす。
空気をうならせながら、手のひらが近づく。
心に諦めが去来する。無力に、惨めに、死ぬ。仇を討つこともできず、返り討ちにあって、それで終わり。
そうして、ホムラの人生は――
「はあッ」
――終わらなかった。
威勢のいい掛け声と共に、ホムラに迫っていた黒髪の巨大な腕がはじけ飛んだ。そして、一人の青年が軽やかなステップでホムラと妖魔女王の前に降り立った。
「なんで逃げてないの⁉っていうか連絡が遅すぎるよ!」
「……見つけないと報告できないだろ」
至極あっさりと妖魔女王に背を向けて、空から現れたハクトがホムラに愚痴を言う。気づけば体を包み込んでいた恐怖は消えていて、ホムラはそのことを確認するようにゆっくりと言葉を紡いだ。
それから、すぐにホムラは顔を引きつらせる。
こちらに顔を向けるハクトの、その後ろ。髪を引きちぎられた上に強敵でもなんでもないとばかりに悠々と背を向けるハクトにいらだった妖魔女王が髪を振るう。
「おい!うし――」
後ろから攻撃が来るぞと、言おうとして。けれどそんな助言は女が髪を振りぬくのに間に合うことはなかった。
そして、パシン、と軽い音が響いた。
空気を切り裂いて鞭のようにしなった髪を、ハクトはあっさりと後ろ手で受け止め、つかんでいた。
「……覚えのある嫌な攻撃手段だね」
顔をしかめたハクトの手の中で髪がうごめき、その先端が首に巻き付こうと迫る。
ハクトが、全力で髪を引き寄せる。
超人どころじゃない恐るべき力で引っ張られた髪がブチブチと勢いよくちぎれる。
ハクトは引きちぎった髪を見つめる。女の頭から離れた髪が動く様子はなかった。
髪を捨てながら、ハクトはホムラと少年幽霊を背後に守るようにして女に向き合う。女がたじろいだように一歩背後へと後退りする。
「うん、思ったよりは何とかなりそうだね。これはユキメの協力もいらなかったかな?」
そう告げながら、ハクトが軽く地面を踏み鳴らす。その一瞬、ハクトの足から大地へと莫大なエネルギーが流れたのを女は感じた。
それは、妖魔女王を自称する女が司る力とは対極にある聖なる力。あるいは、生者の根幹をなすエネルギー。
相反する膨大な力の奔流を感じて、妖魔女王はまるで自分の足元が崩れたような錯覚を抱いた。
それは間違っていて、けれど同時に正しくもあった。
大地は崩れず、けれど、大地は激しく揺れた。突如地面から無数に伸び始めた多数の植物によって。
その植物たちは、先ほどの女の髪による攻撃を参考にするように、枝葉をしならせて襲い掛かる。
気づけば周囲を取り囲んでいた木々の枝葉を、妖魔女王は間一髪のところで躱す。
その次の瞬間、木々の枝が地面に叩きつけられ、まるで空から鋼鉄でも振って来たように大地が割れた。
激しく飛び散った石くれが女の額を強打した。
視界が揺らぐ。現世への干渉を可能とした幽霊は、肉体という制約に再び囚われることになる。つまり、その弱点もまた生身の肉体とほとんど変わらなかった。
軽い脳震盪状態になった女へと、枝の鞭がおそいかかる。
回避は、できなかった。
振りぬかれた枝が腹部を直撃し、女の体が軽く宙を舞う。
必死の形相で髪を制御。沈黙を続ける枝に髪を絡めて体を引っ張り上げる。
足の真下を鋭い枝が貫いた。
間一髪のところで串刺しになることを免れた女は、防戦一方な状況に怒りを覚えた。
強さに、自負があった。長い時間を生きていた分だけ魂の核とでも呼べるものが増し、女はこれまで敵がいなかった。それゆえに退屈で、気晴らしにひとを殺してみたりした。
けれど今、そんな気晴らしの対象であったはずの人間に殴られ、世界に満ちる負の感情を宿した魂に干渉して生み出したはずの自分の子と呼ぶべき存在に蹴られ、さらには異常な力を持つ怪物になすすべもなくやられていて。
枝の嵐をギリギリのところで掻い潜りながら、女はひりひりと痛む頬に手を当てた。
「……ゆるさない」
どす黒い霧が、女の体からあふれ出す。密林のごとく乱立する木々の枝葉が絡み合ったそこで、妖魔女王は立ちはだかる脅威に対抗するために新たな力を求めた。
「……どうなってんだ、これ?」
突如出現した鬱蒼と生い茂る木々。それはまるで動物のようにグニャグニャと動き、効果範囲から逃れようと奮闘する女を襲い、閉じ込め続けていた。その必死な戦いを眺めるばかりのハクトは、文字通り格が違った。これまでも薄々感じていたことではあったが、目の前で命に干渉するような技を見せられて、本当に神なんだな、とホムラは思った。
「あ、信じてなかったね?」
「まあ、な。お前だっていきなり目の前に現れた人間そっくりな奴が『僕は神です』なんて言ってきて、はいそうですか、なんて納得しないだろ?」
「うーん、死神だったらすぐに頷いたかも」
「……いや、お前生命神で、死神なんて存在と対極じゃないのか?というか、死神っているのか?」
「神は神だよ。基本的にその全てが大事なんだ。それと、今の神の社会に死神はいないね。できるだけ人の社会に干渉しないっていうのが今の協定らしいよ」
「神が協定、なぁ……」
まあこんなとんでもない力を持っていたら、それを使う制限を自ら課してくれた方がいいわな、とホムラは突如静まり返った森を見ながら思った。半径六、七メートルほどの狭い土地。そこに鬱蒼と生い茂る森は、とうとう妖魔女王を斃したらしく、戦闘の音が消えていた。
「斃した、んだよな?」
相変わらずハクトを前に怯えて背中に隠れる少年幽霊のことを鬱陶しく思いながら、ホムラが尋ねる。けれど、ハクトは険しい表情で木々の先を睨んでいた。
その顔が、わずかに引きつったのをホムラが見た瞬間。
木々が、吹き飛んだ。
砂塵が吹き抜け、その強風に吹き飛ばされまいとホムラは手で顔を覆いながら体勢を低くした。
吹き抜ける風に乗って来た葉が、ホムラの腕を切り裂いて後方に流れて行った。巨大な木の破片は、ハクトが殴り飛ばすことでホムラに直撃することはなかった。
九死に一生を得たことに気づかないまま、ホムラは風を感じなくなってゆっくりと目を開けた。
強くつぶっていたせいか焦点が定まっていなかった視界が、次第に明瞭になっていく。砂が張り付いた顔を袖で軽く拭ってから、ホムラは視界の先に広がる光景を直視して、息を飲んだ。
大破した木々の先には、一人の怪物がいた。漆黒の髪で全身を覆った、女。まるでライダースーツのように肌にぴったりと張り付いた、髪で編まれた服。その防御性能と運動補助機能は、もはや疑うまでもなかった。
腕を振りぬいたような動きで止まっていた女の、手の軌道。その上にある木々の太い幹が軒並み折れて、そこから上が吹き飛んでいた。
女の背には、まだ無事な枝がおそいかかっていて。けれど鋭くとがった枝の先端も、鞭のようにしなる枝も、妖魔女王の体に十分なダメージを与えられているようには見えなかった。
妖魔女王の動きを止めるべく、木々の枝葉が伸び、しなり、その体にまとわりつく。女を絞め殺すようにギチギチと音を立てて体を縛る枝は、けれど女が軽く動くだけであっさりと引きちぎられ、力なく地面に落ちていった。
軽く、けれど恐るべき速度で女が後ろへと腕を振る。叩きつけられた拳が木の枝に深く食い込み、そして。
次の瞬間、木ははじけ、女の後方へと吹き飛んでいった。
盛大な破壊音が響き、砂塵が吹く。
「……中々強そうだね」
まだどこか余裕を感じさせる声で、けれど額に若干汗をにじませながらハクトがつぶやいた。




