少年幽霊への報酬
「……欲しいものはあるか?」
相変わらずソファに寝そべりながら本を読んでいたホムラが、まるで虚空へと独り言をつぶやくように告げた。もちろん、大きな独り言、というわけではない。
本の先、相変わらずふわふわと宙を漂っている少年幽霊に投げかけられた言葉だった。
そんな本人はと言えば、はて、と不思議そうに首を傾げて、無垢な瞳をホムラに向けていた。
何?と傾げられた首を見て、ホムラはしおりを挟んで本をテーブルの上へと放り――テーブルの端にぶつかった本は、乾いた音を立てて床へと落ちていった。
小さなため息を一つ。しゃがんで本を持ち上げればはらりとしおりが舞い降りて、もう一つため息。
「報酬だ、報酬。ガキの幽霊の時にはしっかり働いてもらったからな」
でも報酬なんていらないだろ、って前に言ってなかった?と少年は身振りで語る。その意味するところを正確に理解できたのは、前言を撤回することに対する恥ずかしさがホムラにあった故か、あるいは少年と過ごした時間がだいぶ長くなってきたことによるものか。
退院してからかれこれ一週間。これといった依頼もなくのんびりと日々を送っていたホムラは、少年の働きに応えるべく報酬を考えていた。
だが、浮かばなかった。大前提として、少年はこの世界のあらゆるものに触れない。だから例えば何か好きなものでも買えと給料を渡したところで何の意味もない。かといって多くの幽霊が求めて来た復讐や生前の家族に言葉を伝える、あるいはそもそも自分は何者だったのかを調べてほしいと言った頼みも、少年が持っているようには思えなかった。よく言えば達観している、悪く言えば乾いている。幽霊としては異端に該当する少年の望みが、ホムラにはよくわからなかった。
そうして悩んでいるうちに、ホムラは自分がどうしてこんなことで頭を悩ませなければならないのかと、考えるのがばかばかしくなった。それゆえ、いっそのこと少年本人に聞いてみる、という決断に出たのだった。
少年はふわふわと宙を漂い、それから、思いついたように手を叩く動作をする――拳が手を貫通して、少年はぎょっと目を見開いた。どうやら自分の体自体も透過する対象であると初めて認識したらしかった。
呆然と自分の手を見下ろし、ゆっくりとその手に触れようとする。指が体表に触れる。感触を感じない。ためらいながら、指をさらに奥へと差す。指先が、手のひらに食い込み、貫通した。
少年の顔が青白く――と言ってももともと相当白かったが――なり、勢いよく顔を上げてホムラの方を見た。
「幽霊は自分の体に触れられないぞ?」
動転した様子の少年を見ながら、何をいまさら、とホムラはソファの背もたれに肘を突きながらあくびをした。
自分にとっては重大事件なのだと、そう主張するように少年は手をバタバタと動かして――はた、と首を傾げた。
自分は何かを考えていて、ひらめいた気がする――と。
うんうんと首をひねる少年は、自分の手を反対の手が貫通したことがあまりにも衝撃的で、それまでの思考が完全に抜け落ちてしまっていた。何を話していたんだっけ、と少年がホムラに視線で問う。
もはやため息をつく気力もなく、ホムラはだらりとソファに体重を預けながら「報酬の件だ」とつぶやいた。
ぽんと手を打とうとして――手が当たらないことに気づいた少年は、インパクトの強い光景を見ないために両手を離し、それから腕を動かして四角を表現する。その四角の中で、手を動かす。ホムラは理解できず首を傾げる。む、と小さく歩を膨らませた少年が両手で影絵のワニやら狐やらを作って動かす。
「動物園に行きたい、のか?」
違う、と少年が首を振る。上を見ながら少しだけ考えてから、今度は全身を使って歩くような動作、何かを食べるような動き、肩に担いだものを水平方向に慎重に動かす。
「……祭り、か?」
またしても首が横に振られる。いい加減面倒になったホムラが、例のごとくポケットから取り出したこっくりさんのシートを使って意思疎通を図ろうとした――が、それを当の少年自身が首を振って拒否した。
「ああ?」
めんどくせぇと声音に乗せながら、ホムラが少年を睨む。蛇ににらまれたように動きを固くした少年だったが、その意志は固いようでホムラは眉間に深いしわを刻んだまま取り出していた紙をしまいなおした。
実のところ、少年はホムラと肉体言語で語るこの時間が嫌いではなかった。それは、少年にとって唯一の他者との交流だからだ。言葉は交わせない者の、自分を見ることができるホムラとであれば、相互コミュニケーションが可能なのだ。一方的に自分が聞いているわけではなくて、自分の意見が相手に伝わり、相手の中に自分がいる――そんな関係が、少年はひどく心地よく思えた。
幽霊になってからどうにも自分は寂しがり屋になったのではないかと、過去を覚えていないながらに少年は考えた。
「で、結局報酬として何が欲しいんだ?いや、何かしたいことがあるのか?」
首を横に振る。欲しい物があるのか、という言葉には肯定。
少年は何かを物を望んでいた。四角くて、影絵、あるいは動物、物を食べる、何かを運ぶ――やっぱり動物園しか出てこなくて、お手上げだとばかりにホムラは小さく首を振る。
少年が手を動かす。今度は、耳に手を当てて、双眼鏡のように丸めた手を目に当てて、そして四角を表現する。目と耳を使う、四角い物。ピンと来ていない様子のホムラに、少年はさらに空中で座った体勢になり、手に持った薄い物をかざして読むような動きをする。それから、マイクを口元に寄せるような動き。にこやかに笑う。
その光景には、不思議な既視感があった。心の奥、柔らかい部分が刺激された。
懐かしい、過ぎ去った朝の光景が思い浮かんだ。学校に行くための準備をしている幼い自分、会社が近いためややのんびりしている父と、ぱたぱたと歩き回って出勤の準備をしている母。一目で時間が分かるし、聞き流す形ではあるけど情報収集につながるからとつけられていた――
「テレビか」
確信を込めてつぶやいたホムラに、少年は強くうなずいた。それから、二人は半ば反射的に部屋を見回した。当然、そこには少年が求めるテレビはない。暇な時間は全て読書に費やしてしまえるホムラは、テレビなどという代物を必要としていなかった。
悩んだのは一瞬だった。少年の一度の働きにテレビがふさわしいかどうか、それから金銭面のこと。
結論は、命を救ってくれた少年にテレビを買うくらいの蓄えはあるというもので。
クイズで若干精神的な疲労を感じてはいたものの、ホムラはさっさと家電量販店にでも行くかと立ち上がった。
くるるるる――小さな音が響き、宙を漂う少年幽霊がぱちくりを目を瞬かせる。
「腹減った……」
店の中、相変わらず白衣を身に着けたホムラが、空を見上げながら小さくつぶやいた。なんかヤバくね――横を通り抜ける女子高生の声に眉をひそめて、ホムラは視線だけ動かして周囲を見回す。数名の人間とばっちり目が合った。ホムラに向けられた目だった。それは、これまでにない視線だった。おかしなもの、あるいは不気味なものを見る目。白衣姿がそんなにおかしいだろうかと考えて。
そして、気づく。ついさっきまで、誰にも見えない幽霊と自分が話していたということに。
急速に心が冷えていった。
油断していたと、そう思った。
人間という生物は、良くも悪くも社会的な生物だ。社会という集団を形成することで困難を乗り越えて来て、高度に発展してきたと言えば聞こえがいいが、それは社会という集団に不適合だと判断した者を、生存のためだと容易く切り捨ててしまえるという性質も持っているとホムラは考えていた。
例えば、幽霊が見えるという異常に侵されたホムラから、人が離れていったように。
それはホムラが高校生だった頃のことだ。親戚の家に引き取られ、やや怯えのにじんだ目を向けられながらも静かに暮らしていた時代。
最初は、ホムラとて周囲に幽霊が見えることを話したりはしなかった。それは、ホムラ自身が自分の見ている世界を信用していなかったことと、そのことを口にすればあの怖い女が再び現れて今度こそ自分を殺してしまうと思ったからで。
けれど、月日が経てば痛みの記憶は消えていく。恐怖も薄れ、慣れが自分が異常者だという事実を忘れさせて。
そうしてふとした弾みに、ホムラは当時の親友に幽霊が見えることを話した。
その男なら理解してくれると、そう思った。
けれど、ホムラに向けられた目は、侮蔑、あるいは嘲笑のにじんだものだった。
その後、彼から言われた言葉はもう覚えてはいなかった。
想像すれば、まるでとってつけたような声が響く。「その年で幽霊なんて信じてるのかよ」「幽霊とかガキかよ」「何言ってんだお前」――それらは、おそらくは全てホムラの妄想。けれど確かにそんな言葉を、ホムラは聞いた気がした。
それは自分の「保護者」が吐き捨てた言葉だっただろうかと、そう考えながら、ホムラは周囲の視線をすっぱりと無視してテレビ選びに戻った。
ぱらぱらとカタログをめくる。そこには無数の、どれも同じようなテレビが並んでいて、面倒になったホムラは即座にカタログを閉じ、心躍らせながらテレビの森の中を漂っている少年へと視線を向けた。もうアイツに任せてしまえと思考を放り出して、ホムラは少年の背を追って歩き出した。
その心と顔にはもう、かつての絶望はなかった。




