生者は死者を煩わす
小さなうめき声を聞いて、ホムラと少年ははっと顔を見合わせる。雨上がりの世界には、遠くから人々が織りなす喧騒が聞こえ始めていた。生活音と人の気配が戻った中、ホムラはひとまず道路に積み上げられている人たちを見つめた。
彼らはホムラが事務所を構える建物の二階から上にいた人々、あるいは建物の前を偶然通りがかった者たちだと思われた。そして彼らは怪物少女の腹の中にとらわれて、おそらくは少女が怪物となるための栄養源にされていたと思われて。
そんな人々の意識が覚醒していることに気づいて、ホムラは慌てて建物の無事を確認して、そこにそびえる灰色の建築物と変わりない外見を見て安堵の息を漏らした。まるで狐につままれたような思いだったが、ひとまずは突如建物が倒壊したなんて馬鹿げた状況にならなくてよかったと、ほっと息を吐いて。
そんなホムラの視界の中で、焦燥をにじませた少年が真剣な顔で両手を振っていた。慌てる少年が、ホムラの体を指さし、両手を挙げてぎょっとしたような顔をして、何かを握った片手を耳に当てる動作をする。
ホムラは、少年に指さされた自分の体へと視線を向けて――顔をひきつらせた。
そこには、すでに赤黒く変色し始めた血でべったりと濡れた穴だらけの白衣があった。怪物少女との闘い後修復された建物とは違って、ホムラの服はその戦いの後を色濃く残していた。
すなわち、一目見て重症だとわかる状態だった。雨によって多少流されたとはいえ、衣服に染み付いた赤色の濃さは、流れ出た血の量を明確に物語っていた。
慌てるホムラが、ひとまず説明なしで事務所に逃げ戻ろうとした、その時。
昏倒していた女の一人が、ゆっくりと目を開いた。
その目がゆっくりと焦点を定め、頭を押さえながら女が立ち上がって。
周囲を観察するように見回した女が、自分と同じように車道に放り出されて倒れる人たちの姿に息をのみ、そして走り去っていこうとする赤い人物を見た。
ホムラと女の目があって。
吹き抜けた風が、ホムラの体を撫でて、女に強烈な血の匂いを届けた。
「ひっ」
しゃくりあげるように小さな悲鳴が、零れ落ちて。
そして、女は周囲一帯に響き渡るほどの大声を上げた。
「勘弁してくれ……」
こっちはさっさと休みたいんだ――そう思っても、今この場から逃げ出すとろくなことにならないと悟ったホムラは、足を止めてその場に座り込む。集団昏倒事件、その被疑者として追われて警察に質問攻めされるよりは、血だらけの格好で自分も被害者ですと叫んだほうがましだという判断だった。
あーあ、と少年が肩を竦めてホムラの周囲を漂う。その顔には、先ほどの泣きそうな表情はなかった。
ふわふわと漂う気苦労のなさそうな少年の顔を見ながら、ホムラは小さくため息を吐いて。
くしゅん――くしゃみとともに雨に体温を奪われた体を震わせた。
「だから、気づいたらこうなってたんだ。夢を見てる気がして、そこでよくわからない黒い霧に襲われて、気づいたら道路に投げ出されてたんだ」
もう何度目かわからない話を繰り返す。気が狂ったように思えてくるのは、適当にまとめた話の滑稽さゆえか、そんな話を何度も繰り返しているせいか。病室にて警察官から質問攻めにあいながら、ホムラはやってられるかと心の中で吐き捨てた。
警察もまた、これ以上ホムラからろくな情報が手に入らないだろうと感じて、心の中でため息を吐いた。体に一切の傷はなく、けれど事件現場周辺に飛び散っていた血のすべてがホムラのものであったということが判明して。
明らかに致死レベルの失血をしておいてぴんぴんしているホムラは、まさに警察官にとっては怪物に等しい得体のしれない存在だった。
わざわざ事前に採血しておいた血をばらまくという猟奇的な行動が、警察官の脳裏に思い浮かぶ。けれどそれでも、建物の中にいた者たちが全員昏睡状態で道路に放り出されていた、その方法と動機がわからなくて。目撃情報は一切なく、さらには被害者たちに一切の異常が見られなかったという事実も相まって、まるでオカルトの類だった。
そうして、警官の一人は思い出す。いま目の前で病室のベッドの上でけだるそうに質問攻めにあい続けている男が、霊能探偵などという怪しげな探偵であるということを。
「……まさか、黒魔術とかそういうおかしな術で周囲の人を催眠にかけたとか……」
「んなわけあるか。21世紀のこのご時世にそんな神秘を口にする阿呆がいるとは思わなかったな」
あざけるようなホムラの言葉を聞いて、お前が言うなと警官の男は眉間に深いしわを刻んだ。けれどさすがにその怒気をホムラにぶつけるようなことはせず、代わりに手帳に充てていたボールペンが大きく震え、紙面に強く線を刻んだ。
居心地の悪い張り詰めた空気が病室の中に広がって。
そんな空気を吹き飛ばすように、ノックもなしにいきなりがらりと扉が開いた。
「おう、思ったより元気そうだな?」
片手をあげてのっそりと部屋に入って来たのは、ホムラもよく知る警察官の遠藤と、その背後には最近遠藤の付き人的な立場に収まりつつあるアヤネだった。
遠藤は二言三言警官たちと言葉を交わし、疲れた様子の二人を部屋から退出させた。
「久しぶりです、先生。大けがを負ったという話でしたが……?」
遠藤より先にホムラが横わたるベッドに駆け寄ったアヤネが、ホムラの全身を軽く観察してから口を開いた。疑問形なのは、ホムラの血色がよく、さらにはぱっと見たところ怪我が見当たらなかったからだ。
複雑骨折した足をぶら下げているとか、包帯でぐるぐる巻きになっているとか、そうでなくてもどこかにばんそうこうの一枚くらいあるだろうと思っていたがゆえに、元気そうなホムラの姿にアヤネは拍子抜けした。
「あー、重症、ではあったな。なんでか知らんが治ったが?」
「……はい?」
自分の言葉が全く要領を得ないものであることがわかっていて、ホムラは苦い顔でアヤネに告げた。その表情に宿るどこか寂しげな様子を見て、何かとてつもないことがあったに違いないとアヤネは思った。
「大丈夫なのですよね?」
「問題はないな。ただまあ、異常の有無を確認するために今晩は検査入院らしいが。ったく、無駄な出費だよ」
「それだけ軽口を叩ければ大丈夫だろうな。……で、何があった?」
遠藤の問いかけに、ホムラは一度言葉を閉ざす。話をためらうほどのことかと、アヤネがごくりとのどを鳴らし、遠藤も空気を改める。
そんな二人の顔を一瞥して、ホムラは強く拳を握りながら口を開いた。
「……会ったんだよ。あの女に」
「あの女……まさか、あいつか⁉」
突如大声を上げた遠藤に「病室ですよ」と注意したアヤネは、二人に向かってどの女のことかと尋ねた。
アヤネが事情をほとんど知らないことに思い至った遠藤が、これ以上話を聞かせていいのかとホムラに視線を問う。その返事は、肩を竦めるという何と受け取ってよいか悩むものだった。
「……話すぞ」
「…………面倒だから勝手にやってくれ」
こっちは疲れたんだ――そう言って上半身をベッドの上に投げ出したホムラに一瞥をくれて、遠藤はアヤネに向き合ってホムラの過去について、そしてホムラたち家族を襲った幽霊のことを話し始めた。
そのすべてを聞き終わって、アヤネは言葉を失って立ち尽くした。
「……気が狂った男がおかしなことを語ってると思っただろ」
どこか捨て鉢なホムラに、アヤネは勢いよく首を横に振る。
感極まったように、その目じりに涙を浮かべて口を開く。
「そんな、そんなことありません。だって、先生は私の兄の言葉をちゃんと届けてくれましたから。私は、先生が嘘なんてついていないってわかってますから」
アヤネはかつて、殺人事件の容疑者として追われて行方をくらませた兄の無実を証明するために、ホムラに依頼をしたことがあった。その結果は、兄はすでに口封じのために殺されていたという悲惨なものだったが、自分がホムラに救われたという強い思いは、今もなおアヤネの心の中の深いところに刻まれていた。
だから、アヤネはホムラが幽霊を確かに見ているのだと考えていた。そうして、どこか厭世的な、幽霊が見える自分が排除されないようにとおびえた様子だったホムラの力になりたいと思って、そして何よりホムラのように苦しみの中にある人々を救いたいと思って、アヤネは警察官を目指した。
それは今から十年以上前、まだ大学生だったホムラと、高校生のアヤネの出会いの物語。
そしてアヤネの意識は、ホムラの両親を殺したという残忍な幽霊のことへと移っていく。大の大人二人を軽く殺し、ホムラに幽霊を見る能力を与えた怪物。
もしその幽霊に自分も霊視能力をもらえたらホムラの最大の理解者になれたのに――その苦しみを近くで見てきたにもかかわらず、アヤネは不謹慎にもそんなことを考えた。
「……ん?幽霊って、人に、というかこの世界の全ての物質に触れられないのでしたよね?」
幽霊が人を殺す――ひどくオカルトじみたその話を咀嚼したアヤネは、当然のごとくそんな疑問に行き当たった。
「ああ。幽霊は物質に干渉できないし、言葉を交わすこともできない。それは事実だ。だが、例外がいるらしい。あの女に……女に干渉されたと思われる、怪物になった少女の幽霊」
「なんだその少女の幽霊ってのは?」
「今回の騒動の原因だ。数日前から事務所に来ていた少女の幽霊で、たぶん俺の探偵業務のことをあの女から聞いていたはずだ」
「それで、ただの幽霊がお前を血まみれにしたってか?お前に触って?それとも呪いみたいな方法でか?」
「物理攻撃だ。真っ黒な腕を振るって、殴って来た。強烈だぞ。軽く押されるだけでコンクリートに手形ができるんだからな。まさしく怪物だ……んでもって、紆余曲折、というか別の幽霊がその怪物の力を奪って無力化して、その力のおかげで俺の傷が癒えたってわけだ」
意味が分からん、と遠藤がつぶやく。アヤネは話の展開についていけずに目を白黒させていた。そんな二人を見ていたせいかこれまで心の中にあった混乱が消え、冷静さを取り戻したホムラは一連の出来事について再び考え始めた。
妖魔女王と名乗る女。彼女の干渉によって生まれるという幽霊、女を母と呼ぶ少年幽霊、怪物となった少女、幽霊が物質に干渉できるようになっていたこと、異様な漆黒の腕、体内に取り込まれていた人、少年幽霊からホムラに渡された癒しあるいは復元の力、再び現れた女、その逃亡――
視界の中、遠くを見つめながら笑った女の姿を思い出した。
「……誰かを、見ていた?」
ホムラは小さくつぶやいて、そして。
「その通りだよ」
ふわりと、一陣の風が病室に吹き抜けた。
ドアも窓も閉まっている病室に、だ。
ぎょっと目をむいたホムラが、声が聞こえてきたほうを睨む。そこには、狩衣姿の少年らしい人物が立っていた。
これまでそこにいなかったはずの存在が現れたことにホムラに遅れて気づいた遠藤とアヤネがとっさに臨戦態勢になる。
そんな二人を無視して、日が落ちていくような藍色のコントラストが美しい和服に身を包んだ、少年とも少女とも判別のつかない、どこか浮世離れした人物。つややかな黒髪をたなびかせるその人物が、一歩ホムラのほうへと踏み出す。
ベッドから飛び降りたホムラが体勢を低くする。明らかに人外――それも妖魔女王と名乗った復讐相手と同等の力を持っていそうな存在を前に、ホムラは額を冷汗が伝うのを感じていた。
「……誰だ?」
ごくりと唾を飲み込む音がひどくはっきりと耳に響いた。張り詰めた空気の中、目の前の存在だけがひょうひょうとしていた。
「初めまして、霊能探偵ホムラさん。僕はハクト。賦活をつかさどる妖狐にして、生命神の一柱だよ」
恭しく頭を下げたその人物には、確かに人離れした気配があった。だが、いきなり現れた神などと告げられてはいそうですかと納得できるほどホムラは超常的な存在に対する許容値が低くなかった。神と幽霊など、ホムラにとってみれば人外という意味で似たような存在だった。
そんなホムラの疑念を知ってか知らずか、ハクトは小さく肩を竦めながら言葉を続ける。その声には不思議な力強さがあった。声を聴いているだけで体の奥底に熱が灯るような、自分の生を強く意識させるような力があった。
「僕は新米の神なんだ。まだ任命されてから日の浅い、ね。そんな僕の管理区域内で、不審な存在を感じたんだ。そう、ホムラさんと因縁のある妖魔女王のことだよ」
「……あのクソのお仲間か?」
「違うよ。僕は神。ホムラさんがこれまで出会った者たちの中では猫又あたりが一番近いんじゃないかな。僕は妖の出でね、まあ元人間の魂が狐となって、神に昇華した変わり者だよ」
そう告げた瞬間、突如目の前にいるハクトの姿が揺らいだ。その体が急激に小さくなり、そしてその次の瞬間には、そこには橙色の毛並みが美しい一匹の狐の姿があった。
「……は?」
目を見開いて茫然と狐を見つめるホムラが、頬をつねる。痛かった。少なくとも夢ではなさそうだった。
「……おいおい」
自分の目がおかしくなったのかと手の甲でごしごしとこすっても、遠藤の視界からは突如現れた狐の姿は消えなかった。
その狐は、これで僕の正体はわかってもらえただろう?と狐の姿のままで語っていた。ホムラほどオカルトに親和性のない遠藤は、もはや自分の生きてきた現実がおかしくなりつつあるとしか思えなかった。天変地異の前触れか、あるいは、自分はとっくに気がくるっているのか。
できれば後者であってくれと思いながら、遠藤は狐を睨んだ。
そして。
「か……かわいい~!」
目をハートマークにしたアヤネが、しゃべる狐であるハクトへと両手を広げてとびかかった。
ひょい、とハクトがアヤネの突撃を躱す。
ぐぺ、と床に衝突したアヤネが間の抜けた声を漏らし、うめく。
「なんでよけるんですか⁉」
「お嫁さんがいるからだよ。とってもかわいい子でね、僕の体に女性の匂いがついていると嫉妬して、こう鼻先をこすりつけてきたり、全身を使って自分の匂いに僕を染めてくるんだ。まあたまになら役得かなって思うけど、毎回そんな目に合うのは嫌だし、何より視線が怖いんだよね」
やれやれとぼやくハクトをよそに、アヤネは虚空を見上げながらだらしなく口を半開きにしていた。
「もふもふ二匹が体をこすりつける。嫉妬して、ぎゅうぎゅうとおしくらまんじゅうをして……ごくり」
ちょっとこの人怖いんだけど――救いを求める目でハクトがホムラを見る。それによってようやく金縛りから解けたホムラが、ああ、と緩慢な動きで再始動して――再びその手で自分の反対の頬を引っ張った。
痛かった。
両頬を赤く染めたホムラがそれで、と半ば茫然とベッドに腰を下ろしながら床に座るハクトを見つめる。
自称神の狐であるハクトは、ぴょんとベッドに向けて飛び上がったかと思うと再び人に化けてホムラの隣に座った。
「ホムラさんを襲った妖魔女王は神たちの間でも妖怪……妖の中で世界に害をなす存在に認定されているんだ。そして、その討伐命令が僕に下された。けれどあの神出鬼没な存在はなかなか僕の前に姿を現してくれないんだ。そこで、ホムラさんの存在だよ」
パン、と手を合わせたハクトが祈るような顔でホムラを見る。やや童顔とはいえすでに高校生くらいの容姿をしているハクトに上目遣いをされても吐き気がするだけだと思いながら、ホムラは眉間に深いしわを刻んで考える。
ホムラにとって最も優先すべきは、妖魔女王と名乗ったあの女を排除することだ。そのためならば、例え目の前のハクトと名乗る存在が化け物だろうが本当に神だろうが、そして自分をいいように利用するつもりであってもどうでもよかった。
それに、ホムラには戦力が必要だった。怪物と呼ぶにふさわしい力を持っているらしい妖魔女王を倒すための力が、必要だった。
「……ハクトって言ったか。お前、戦えるか?」
「もちろん戦えるよ。これでも神の中ではかなり上位の力を持ってるからね。まあ、ユキメほどじゃないけど……」
「ならいい。俺はあの女を見つけ出す。お前があいつを殺す。それでいいな?」
「うん、それでいいよ。……あ、依頼料はどうしよう?」
「神のくせに依頼料を心配するのかよ……」
「言ったでしょ?元人間の魂が転生して狐になったって。だからある程度人間社会の知識はあるんだよ。まあほとんどが狐になってからの知識なんだけどね」
そう言いながらハクトは目を細めて病室を見回した。まるで懐かしむような光が、その黒目の奥に見えた気がした。ホムラもつられて部屋を見回す。そこには病的なまでに白い壁をさらす、消毒液などの独特のにおいが香る病室があるだけだった。
「依頼料はいらない。お前の力が事実だとしたらこっちから頼みたい話だからな」
「うん、よろしくね、ホムラさん」
ハクトとホムラは強く手を握った。
そんなハクトは、よだれをたらしそうな顔で自分を見つめるアヤネから逃げるようにいそいそと立ち上がり、次の瞬間にはその場から一瞬にして姿を消した。
「……神、なぁ。ホムラ、お前本気か?」
「ああ、神だかなんだか知らないが、あの女をこの世界から消せるなら何でもいい」
強く拳を握って、ホムラはそう口にする。その目には、怒気と、そして確かな希望の光が宿っていた。
探し続けていた女に遭遇できて、ハクトという得体のしれない神という味方が現れて、そして何より――ホムラは病室の端でなぜか床にひざまずくような体勢で頭を下げている少年幽霊へと視線を向けた。
「……いつまでそうして頭を下げてんだよ?」
ホムラの声を聴いてはっと顔を上げた少年は、きょろきょろと周囲を見回してほっと安堵の息を吐いた。そんな少年幽霊のかしこまった姿を視界の端にとらえていたために、ホムラは突如現れたハクトと協力するという決断をすることができていた。
ホムラと視線が合った少年が、ぱたぱたと手を振る。慌てているせいかその身振りは残念なもので、ただの一つもホムラにその意思は伝わらなかった。
この幽霊が来てからまるで引き寄せられるようにあの女に近づいている気がする――そう思いながら、ホムラは小さく口の端を吊り上げた。




