三毛島寧々子(4)
「――なんなら、今ここで試してみる?」
……どこの少女漫画ですかね、これ???
私はスマホ越しとはいえ間近に迫った美しすぎる顔を前に、驚きや恥ずかしさを通り越して脳みそを完全にフリーズさせていた。人間、予想外過ぎる事象には何も出来なくなるのは本当らしい。
彼の艶々とした黒い瞳には豆鉄砲を食らった鳩のような顔の自分が鮮明に映っている。
なんせ顔と顔の距離が本当に近い。
彼がローテーブルに手をついてこちらに乗り出しているので、実質数十センチしかない。
もし今、手に持っているスマホを下げたら。
本当にキスが出来てしまうのだけれど――
「……狗賀君」
私はじっと彼の瞳の中の自分と目を合わせながら、
「私、初めてのキスは好きな人とするって決めてるの」
頭に浮かんだことを、
「だから、狗賀君とはキスしません」
まるで機械音声のように淡々と言った。
というか、それしか出来なかった。テンパりすぎて。
対する狗賀君は少しだけ目を眇めると、思いのほかあっさりと身を引いた。
物理的な距離が開いたことで、私は知らずに止めていた息を大きく吐き出す。
それでようやく平静さを取り戻せたことで、段々と怒りが湧いてきた私は真正面から狗賀君を精一杯、睨みつけた。
「狗賀君、冗談にしては性質悪すぎるから。あまり度が過ぎると出禁にするよ」
ある程度の揶揄いや冗談は許容するが、今のは私の感覚としては完全にアウト判定である。狗賀君自身も多少はやり過ぎた自覚があるらしく、これについては「分かった、悪かった」と素直に謝ってくれた。よしよし。
でも、まだ足りない。
私はスマホをテーブルの上に置くと、再度狗賀君と目線を合わせる。
「それにもし狗賀君のことが好きな子にこんなことしたら、絶対に冗談じゃ済まされなかったからね? 本気じゃないのにキスなんて大切なものを持ちだしたらダメだよ」
自分でも説教臭い自覚はあったが、大事なことなので敢えて言及した。なんせ狗賀君は校内一……いや、もしかしなくてもこの地域で一番モテると言っても過言ではないイケメン様である。
そんな人にキスなんか迫られたら、身持ちの軽い子やもともと狗賀君に想いを寄せてる子なんかは絶対にチャンスを逃さないだろう。昨今、肉食系女子も多いのだ。
と、私が余計と知りつつ親切心からそう助言すると、何故か狗賀君は思いっきり不満そうな表情を浮かべていた。まぁ一つしか違わない女子高生に説教されても面白くはないだろうし、それで不機嫌になったのかと思いきや、
「……先輩は俺が他の子にもこういうことする奴だと思ってる?」
どうやら別の部分が引っ掛かったらしい。
彼は心外だと言わんばかりのため息を吐く。そして乱雑に前髪を掻き上げた後、またもやテーブル越しに身を乗り出し私に向かっておもむろに左手を伸ばしてきた。
驚いて反射的に目を瞑り肩を竦めた私の頬に触れる直前で、その手はピタリと止まる。
気まずい沈黙の中、私がおそるおそる目を開ければ……一切の揶揄いを含まない、真剣な瞳の色が飛び込んできて。
どこか恐ろしいのに、その美しい黒から目が逸らせない。
「先輩、三つ目の質問は?」
「……あ。え、えっと……」
――質問。そうだ質問。私たちはゲームをしていたのだ。
ゲームを始めたからには、きちんと終わらせなければならない。
色々なことが起こって頭は絶賛混乱しているが、準備してきたことは意外と忘れないものだ。
私は咄嗟に考えてきた質問内容について頭を回転させ、
「狗賀、君の……」
「うん。俺の何が知りたい?」
その柔らかいけれど逃げることを赦さない声に導かれるように、言葉を紡いだ。
「……一か月前の」
「ん……ん?」
「一日の献立を全部教えて」
「…………は?」
言い切った瞬間に、私は自分で自分を褒めてあげたい気分だった。
たぶん狗賀君が期待した質問内容からはかけ離れているに違いない。
ちなみにこれは本気でゲームに勝つために考えたガチの質問である。協力者である大河さん曰く「一食ならともかく三食なんて絶対思い出せないと思いますよぉ!」とのこと。
根本的なゲームの主旨からは外れている質問なのは百も承知。だけどぶっちゃけ狗賀君はパンツの色くらいなら余裕で答えちゃいそうな雰囲気があるので、確実に勝つためには手段は選んでいられなかったのである。
あまりにも予想外だったのか、狗賀君はキョトンと無防備な顔で私を見ていた。あからさまに肩透かしを食らった形だろう。
彼の素の表情はやっぱりどこか幼くて、普段からこういう顔をしていれば年下感が増すし親近感が湧くなとこっそり思う。クールな印象よりも、私はこちらの狗賀君の方が正直好ましい。
「……流石にこれは予想してなかったな」
ポツリと零した後、狗賀君は身体を後ろに倒してソファーに深く沈み込んだ。
再び物理的な距離を確保出来て精神的なゆとりを得た私は、満を持してニッコリ笑ってみせる。
「降参ってことでいいかな?」
「あー……うん。思い出せないんで、降参」
「やった! リベンジ成功! ありがとう大河さん!」
思わず小さくガッツポーズを決めた私は、上機嫌で自分のカップへと手を伸ばす――が、それはあっさりと阻まれてしまった。
急に動かせなくなった手首に熱を感じて視線を下げれば、褐色の大きくて骨張った手にがっちりと掴まれていて。
「――大河さんって、誰?」
一瞬、ぞくり、と体感温度が下がった気がした。
反射的に顔を上げれば、表面的には穏やかな表情をした狗賀君とかち合う。
が、短い付き合いながらも流石に分かった――目が笑ってない。
「先輩、答えて」
一難去ってまた一難とはまさにこのことだろうか。
返答を間違えるととんでもないことになりそうな気がして背筋に緊張が奔る。
拘束された手の感触の生々しさに思考を取られそうになりながらも、私はなんとか口を開いた。
「……た、大河さんは……私の恩人みたいな人で……」
「恩人? さん付けしてるってことは年上だよな?」
「う、うん。たぶん二十代半ば、くらいかな?」
「どういう繋がり?」
「え? あ、その、仕事の」
「仕事って何の? というか、その男とはいつから知り合いなんだよ?」
「い、一年くらい前、かな? ……って、男っ!?」
詰問ラッシュに逆らえず言われるがままに答え続けていた私は、男という単語に反応してパチパチと目を瞬かせた。それで狗賀君から勘違いされている点にようやく気づく。
「大河さんは女の人だから! フルネームは大河美虎さん!」
「……女の人?」
「う、うん! 凄くほんわかしてて可愛らしい人なの!」
私が渾身の力で首を縦に振ると、狗賀君から放たれていた冷たい気配が薄まっていくのを感じる。
危機は脱した――その手応えに思わず気を緩ませた私は、
「大河さんはデビュー時からお世話になってる担当編集さんで……あっ」
完全に言わなくてもいいことまで、そのままペロッと喋ってしまった。
慌てて口を閉じ、視線を逸らしながらなんとか誤魔化せないかと無い知恵を絞る。
しかし当然ながら良いアイディアなど生まれてくるはずもなく――
「――先輩、語るに落ちるって言葉知ってる?」
未だに手首は掴んだままの狗賀君にトドメを刺された。
効果はないと知りつつも、私は本日何度目か分からない抗議の視線を狗賀君に向ける。
「っも、元はと言えば狗賀君が問い詰めてくるからでしょう!?」
「まぁそうだけど。でも、口を滑らしたのは先輩だろ? いい加減、観念しなって」
どこか勝ち誇ったようなその顔があまりにも眩しいほどにイケメンで。
私は未だに捕まれたままの手首をぶんぶん振りながら、リアルで「ぐぬぬ」と声を漏らした。