三毛島寧々子(11)
私が狗賀君に撃沈させられている間にも時間は流れ、開会式はしめやかに行われた。
そしてすぐに男女別れての個人戦が開始となる。
今日は男女ともに一回戦から四回戦まで執り行われ、明日は準々決勝から決勝戦までという日程だ。
ほどなく狗賀君の出番もやってくる。
会場内はとにかく声援や私語は極力控えるのがマナーのため、私も大河さんも余計な話はせずに、観戦に集中した。
狗賀君の剣道を生で見るのは当然ながら初めてのことだ。
何度か体育館の近くで休憩中の道着姿を見かけたことはあったが、それだけ。
本当は知り合いになった後に何度か様子を見に行こうかと迷うこともあった。けれど出来なかったのは、狗賀君に煩わしいと思われたくなかったからだ。
ただの避難所としての役割が、領分を超えて近づいてくること。
それが場合によっては想像以上の苦痛になることを私は知っている。
今日のことだって、本当は話を切り出すまで散々苦悩した。観戦許可を取る上でわざわざ『取材』を言い訳として用意して使うくらいには。
それでも、どうしても。
私は狗賀君が努力し続けてきた剣道を間近で見てみたかったのだ。
その結果として、私は自分の我儘を優先してでも今日ここに来れたことを心から感謝した。
――瞬きすらも惜しむほどに、美しいものがそこにはあった。
ルールなどは事前に軽く調べた程度で付け焼刃の知識しかない。
だから良し悪しを正しく判じる材料も当然ない――だけど、彼の動き一つ一つが洗練されていることは本能的に理解出来た。
相手と対峙する際の独特な緊張感。細かく揺れる竹刀の先。小刻みに動くすり足。
籠手を狙う相手をいなし、後方へと大きく距離を取る。
しかし次の瞬間にはもう力強く踏み出していて、すれ違いざまに相手の胴元へと狗賀君の竹刀が吸い込まれるように打ち込まれる。
打ち込む際に張り上げる声の大きさに鼓膜がびりびりと痺れた。
低く重く鋭い声が体育館で反響する頃には、判定役の持つ旗が高らかに上げられていて。
「っ先生! これ勝ったんですよね!?」
声を潜めながらもはしゃぐ大河さんに返事をすることも出来ず、私はただただ呆然としていた。
試合が終わったと同時に選手の健闘を讃える拍手が鳴り響く。
あまりの喜びように一際目立つ我が高の女子グループには目もくれず、狗賀君は礼節に則って深く一礼し舞台を降りた。
するとそんな彼に駆け寄ってくる人物がいた。我が高のジャージを着た女子。おそらくは剣道部のマネージャーだろう。タオルと給水ボトルを差し出しながら、満面の笑みを浮かべる女の子はとても可愛らしい。
面を取った狗賀君は素直にそれを受け取って体育館の隅で休息を取っている。
そんな彼に興奮したように何やら話しかけている女子マネージャーに対し、応援席にいる女子グループは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「うわぁ修羅場ぁ……」
横でぽつりと呟かれた大河さんの声がすべてを物語っている。
しかし私はそんなことよりも先ほどの試合を脳内で反芻するのに忙しかった。
――――書きたい。
あの動きを、躍動感を、緊張感を、爽快感を。
私は自分なりの文章に書き起こしたくてうずうずしていた。ああ、どうして受験なんてものがあるのだろうか。せっかくの夏休み、思う存分この衝動を執筆にぶつけたい。
次回作は絶対に剣士の話にしよう。いや、ファンタジー世界なら騎士でもいいかもしれない。
創作意欲が湯水のように湧き出てきて止まらない。
この感動と興奮を読者にも共有したい。
狗賀君の試合から得られた熱量に浮かされるままに私は陶然と息を吐いた――と、その時。
「……せい……先生? せんせー?」
「あっ! はい、なんでしょう!?」
肩を強く揺すられ、ようやく我に返った私に大河さんが目線だけで促す。見れば、数十メートル離れた距離ではあるものの狗賀君がこちらを見ていた。先ほどまでいたマネージャーの姿はなく、一人のようだ。
私はまだ抜けきらない高揚感のまま、思わず笑みを零しつつ控えめに手を振ってしまう。
すると狗賀君は驚いたように目を丸くした後で、肩に掛けていたタオルを持ち上げるとそこに顔を埋めてしまった。
常にはない彼の反応に私が首を傾げていると、
「先生……そんないきなりデレ全開にしたら相手も戸惑いますって……」
「え?」
「火照った顔と潤んだ目で微笑みながら手を振るとか、なかなかの手管ですよ?」
そう言った大河さんは何故か同情的な目で狗賀君を見ている。
「人目さえなければ近寄りたいだろうに……不憫……でもそこがむしろ萌える……」
「……あの、大河さん? なんの話ですか?」
「んー、高校生の思春期青春恋愛ものって甘酸っぱくて本当にいいですよねって話ですかねー」
訳知り顔をしながらもはぐらかしてくる大河さんに眉根を寄せていると、別の試合がすぐに始まる。
短いスパンで繰り返される試合は全国大会ということもありレベルが高くどれも白熱していて、狗賀君の試合でなくとも思わず手に汗握った。
けれどやはり、私の目には狗賀君の試合が一番美しいものとして映るのも間違いではなく。
そんな狗賀君はなんと四回戦まで危なげなく勝ち上がり――明日の準々決勝へと駒を進めたのだった。
それが決まった瞬間、我慢しきれなかったのだろう我が高の女子グループの面々が「きゃあああああ!!!!」と悲鳴に近い歓声を上げていた。褒められることではないがその気持ちだけは分かってしまう。
声は出さない代わりに私も精一杯の拍手でもって狗賀君を祝福した。彼はそんなこちらに気づき、目だけで軽く笑って見せる。そしてそのまま場内から颯爽と出て行ってしまった。
「いやー、私も剣道ってちゃんと見たの初めてでしたけど、面白かったですねー! 映像資料もたっぷり撮れましたし大満足ですー」
ホクホク顔の大河さんが帰り支度をする横で、私はスマホを弄ってメッセージを送る。
相手はもちろん狗賀君で、お疲れさまの言葉と試合に感動したということを簡潔に添えた。
「先生、この後どうします? もしよければお茶して帰りません?」
「あ、はい。大河さんさえ良ければぜひ」
バレるリスクが高まるだけなので長居は無用。
私たちはそそくさと会場を出て、駅からほど近い落ち着いた雰囲気の喫茶店へと足を向けた。
事前に調べておいた私チョイスのお店である。
「っはー、生き返るぅ」
通された奥まった席でクリームソーダを啜りながら、大河さんがふにゃりと笑う。私もアイスコーヒーに口を付けつつ、大河さんへと話しかけた。
「今日は本当にありがとうございました、大河さん」
「いえいえこちらこそですよー。仕事でイケメン男子高校生の剣道見れるとか、むしろご褒美でしたー」
本気でそう言ってるのが分かる口調に、思わずこちらも笑みが零れる。
「それなら良かったです。あの……それはそれとして、一つお願いが」
「ん? なんでしょー?」
「実は狗賀君が大河さんに挨拶したいらしくて……ここに呼んでも大丈夫ですか?」
「え!? あのイケメンここに召喚するんですかっ!? やったー!!」
「や、やったー!?」
諸手を挙げて喜ぶ大河さんに面食らう私。
「ほら流石に会場ではなかなか至近距離ってわけにはいかなかったんで、むしろ近くで拝みたいっていうか! ぜひぜひ呼んじゃってください!」
「あはは……ありがとうございます」
ハイテンションの快諾を受け、私は改めて狗賀君に追加メッセージを送る。
喫茶店の場所と共に大河さんの歓迎ぶりを伝えると、数分後に【ごめん、一時間くらい掛かる】と短い返信があった。私は了解の猫スタンプのあとに【気にしないでいいよ。ゆっくり来てね】と打つ。
「一時間ほど掛かるみたいです」
「全然オッケーです! じゃあ来るまで何か話しましょう。そうだなぁ、恋バナとか?」
「……いえ、仕事の話がいいです」
「えぇ~」
やや渋る大河さんに対して、私は真剣な表情でもって告げる。
「次回作なんですけど、少女騎士の話って駄目ですかね?」
「…………ほう? 先生がファンタジーを提案してくるとは珍しいですね?」
「実はさっきの試合で凄くインスピレーション湧いちゃって……」
「うんうん! いいじゃないですか、少女騎士! それだと相手役は? やっぱり同じく騎士とか?」
「迷ってますけど、主人公の少女騎士と敵対する組織に所属する剣士とかにしようかなって」
「あ~いいですよねぇ敵同士で恋が芽生えるやつ!」
「それで少女騎士は任務中に一度、敵組織に捕まる展開とかも考えてて――」
そこからはほぼ通常の打ち合わせの様相を呈していた。
私の取り留めのないアイディアに対して相槌を打ちながら時折、設定面や世界観への疑問点や展開への要望などを次々と出してくれる大河さん。彼女と話すと頭が整理されていくのが分かって、ぼんやりとしていた物語にきちんとした輪郭が生まれるのが分かる。この瞬間が私はとても好きだった。
互いに自然と鞄から出したメモ帳とペンがテーブルの上で忙しなく踊る中、ある程度の方向性が固まったところで大河さんが「そういえば」と話題を変えた。
「先生、推薦入試っていつ頃の予定でしたっけ?」
「え? えーっと……確か十一月の半ば頃だったかと。合格発表も十一月末までには出るはずです」
「じゃあ今話した新作は、早くても十二月以降ですねー」
「そうですね……受験が上手くいけば、ですが」
「いやぁ、十二月以降も色々と予定出来ちゃうんじゃないですかぁ?」
「……ん? それは、どういう――」
「――クリスマスとか正月とか、大事な日の予定はちゃんと空けて欲しいってこと」
割り込んできた低くでも甘やかな声に弾かれるように顔を上げれば。
剣道着から私服に着替えた狗賀君が、すぐ近くに立っていた。
次回は狗賀視点です。