狗賀拓海(1)
思えば昔から、勉強にしろ運動にしろ、それなりに出来る側の人間だった。
人の期待に応えるのは、それなりに気持ちがいい。
だから振ってくるものをそれなりにこなしていたら、いつの間にか後には引けなくなっていた。
常に結果を出すことを求められるようになると途端に息苦しさが増す。
けれど簡単に辞めることも出来ない。何故なら周囲がそれを望んでいると知っているから。
だからその日、心身ともに疲弊していた俺はどうしても一人になりたかった。
珍しく部活を早退し、頼んでもいないのに目ざとく話しかけてくる奴らを躱し。
家に帰る気分でもなかったがゆえに辿り着いた無人の第二資料準備室に立てこもった俺は、内鍵をかけてソファーに寝っ転がった。
普段なら絶対にとらない行動、選択。
しかし、だからこそ――思いがけない出逢いがあった。
『……よく寝てたから起こさなかったの。ごめんね、迷惑だった?』
部屋の中に自分以外の人間が居たことにも驚いた。
が、それ以上に驚いたのは、そう話しかけてきた女子が明らかに俺に対して距離を置こうとしていたからだ。
むやみに起こさず放置してくれていた辺り、根が親切なのは間違いない。
だが、それ以上に俺とはあまり深く関わりたくないという気配が強かった。本人は意識していないのかもしれないが、目線やちょっとした声の揺れからそれが明確に伝わってくる。
この年代の女子からは大抵の場合、憧れの眼差しを向けられたり積極的に絡まれたりしていることが多いため、かなり珍しい反応と言えた。
三毛島寧々子と名乗った彼女は終始、俺に対してある種の壁を作りながら接していた。
何やらこの部屋を根城にしているらしい。学年は一つ上。
当然、同じ高校に通っているというほかに接点はない。
薄茶色の柔らかなセミロングの髪と柔和な顔立ちは一見すると地味だが、服越しにも分かるスタイルの良さも相まって隠れファンが多そうなタイプの外見だった。
少し会話を続けてみれば、言動も容姿に見合ったように穏やかで。
声のトーンも落ち着いているので耳に馴染みが良い。
そんな彼女に半ば誘導されるまま、部屋を出ることになった俺は。
ほんの少しだけ「惜しい」と感じていた。
それはたぶん、彼女が俺自身に何も期待していなかったから。
ただ俺がそこに居ることを受容するだけの彼女に、奇妙な居心地の良さを感じていた。
しかしこのまま別れれば、きっともうこんな風に会話を交わすこともないだろう。
そんな中で、彼女は最後に俺を真正面から見上げると、若干ぎこちない笑顔で言った。
『じゃあ、気を付けて帰ってね。もし避難が必要になったら、いつでも来て良いから』
瞬間、欲が出た。今にして思えばこれがターニングポイント。
僅かに迷った俺だったが、ここでも普段ならばとらない選択肢を敢えて選んだ。
つまり、
『……良いんですか?』
彼女の社交辞令をそのまま受け取り、退路を断ってみせたのだ。
途端に引きつる彼女の顔が面白くて思わず吹き出しそうになるのを堪えつつ、あくまで平静を装う。
ほんの十数分の付き合いだが、彼女が嘘の付けない性質であることは十分に分かっていた。というか、なんでもかんでも顔や態度に出過ぎなのだ。察するなという方が難しい。
案の定、言質を取られた彼女は表向きには快諾、内心では渋々といった様子で応じた。
そして足早に俺から物理的な距離を取るために廊下を歩き出してしまう。
その華奢な後姿を眺めながら、俺は声を出さず笑った。そして予想する。
明日、俺が訪ねてきた時に彼女はきっと、今日以上に引きつった笑みを浮かべるのだろうなと。
明けて次の日。これほどまでに放課後が楽しみだったのは久しぶりだった。
たまたま部活が休みだったことも幸いし、俺は自分でも分かるくらいには意気揚々と第二資料準備室の扉を叩く。勿論、周囲を念入りに撒いて一人きりで、だ。
するとすぐに中からガタガタッと動揺を体現したような音がした後で、
「……い、いらっしゃい」
内鍵を開けて扉を半分ほど横にスライドさせた彼女が、やはり予想通りの半笑い顔で出迎えてくれた。俺は期待通りの反応に満足しながら、
「お邪魔します」
と、勝手知ったる我が家のような気安さで部屋の中へと踏み入る。
言うなればここは彼女のテリトリーだ。しかし、だからといって遠慮するつもりは毛頭ない。
むしろ早く俺という存在に慣れて欲しい。そんな気分だった。
どうやら彼女は昨日と同じく、部屋の奥の作業机にノートPCを広げながら何かをしていたようだ。机の上に置かれたステンレスボトルのコップからは、湯気と共に珈琲の微かな香りがする。と、その時、
「……今日も、何かから避難してきたの?」
作業机に向かう椅子にちょこんと腰かけた彼女は、明らかに平静ぶってそう問いかけてきた。俺も手荷物の鞄を適当に床に下ろすと、昨日昼寝をした二人掛けソファーに座りつつ正直に答える。
「いえ、今日は貴女に会いに来ました」
「……ごめんちょっと良く聞き取れなかったからもう一度聞いて良い?」
「三毛島先輩に会いに来ました」
「聞き間違いじゃなかった……っ!」
彼女は額に手を当てながら、大きく天井を仰いだ。意外とリアクションがデカい。興味深く観察していると、そんな俺の視線に気づいたのか、すぐに態度を改めた。わざとらしく咳払いをした彼女は、姿勢を正すと思いのほか真剣な表情を向けてくる。
「あのー……もしかして、私のこと揶揄ってる? もしくはこう……罰ゲーム告白的な?」
「どちらも違います。単に、昨日先輩と会話して興味が湧いただけです」
「いやいやそれこそ嘘でしょ……私なんかどこにでもいる平凡女子代表みたいなものだもの」
本気でそう思っているのだろう。彼女は真っ直ぐにこちらを見つめながら断言した。
しかし俺からすれば、その態度こそが珍しいと感じる。何と表現すればいいのだろう。
そう、例えるなら――彼女は俺に対して自分をむやみに飾らないのだ。
媚びることもなければ、あからさまに卑下することもない。自然体で会話が出来ている。
それこそが俺にとっては貴重だった。
俺に寄ってくる女子は大概、自分をよく見せたいのかアピールしてくることが常なので。
しかしそれを説明したところで理解してもらえるかは未知数のため、
「じゃあ、その平凡女子っぽい先輩に興味が湧いたってことで」
適当に話を合わせることにする。
「ということで、先輩について聞かせて貰いたいんですけど」
さらに畳みかけるように要望を口にすれば、
「ええぇー……」
彼女はあからさまに迷惑そうな顔をした。
もはや俺に対して取り繕うことを止めつつある。いい兆候だ。
「別に答えたくない質問には答えなくていいです。俺への質問も勿論、受け付けますし」
「え、私からも質問していいの?」
妙なところで食いついてきた彼女に首肯すれば、何やら顎に手を当てて俯き、思案を始めてしまう。
かなり真剣な表情をしていたので、いったいどんな質問がしたいのかと不思議に思っていると。
「じゃ、じゃあ……公平に交互に質問し合うってことで、いい?」
パッと顔を上げた彼女は、やや緊張した面持ちでそう提案してきた。
俺はすぐさま「いいですよ」と返す。質問を交互に、という辺りにどこか彼女らしさを感じた。
「どっちから質問します? 俺は後でも先でもいいんですが」
「んー……じゃあ、狗賀君の方から先に質問してくれる? その度合いによって私も質問内容を調整するから」
「調整?」
「うん、せっかくならこの機会をちゃんと活かそうと思って……こう、取材的な」
何やら意味深なことを言った彼女は、まだ起動中のノートPCをパタリと閉じた。どうやらこちらとの会話に集中してくれるつもりらしい。こういうところもかなり律儀だ。
彼女は改めて俺と対面するように椅子の位置を調整し、
「……本当に答えられない質問には、答えないからね?」
と念押しした。
おそらく本人的にはやや凄んでいるつもりなのだろう。
軽く眉間に皺を寄せているが、全く怖くないどころか小動物の威嚇にすら勝てていない。
俺はそんな彼女のコロコロ変わる表情を楽しみながら、とりあえず一つ目の質問を口にした。