狗賀拓海(8)
一学期最後の登校日。
弱冷房が掛かってるとはいえクソ暑い体育館の中で行なわれる地獄の終業式を乗り越えた全校生徒は、誘導の声に従って三年から順に各教室へと戻らされていく。
今日は授業がなく、この後のホームルームが終われば解散。明日からは晴れて夏休みという具合だ。
誘導待機の間、俺はぼんやりと退出していく三年の列を眺める。あわよくば先輩の姿が見えないかな、という短絡的な思考で。
だがお目当てはそう簡単には見当たらない。ほどなく二年の移動になり、俺も人の流れに沿って歩き始めた。
と、そこで隣を歩いていた狐寺が「あ」と小さく声を上げた。
「ねこ先輩だ」
俺は反射的に狐寺の視線を追う。
すると案の定、人の流れから外れて廊下の端で立ち止まっている先輩の姿が目に飛び込んできた。
真剣な表情でスマホを弄っている彼女は当然こちらには気づいていない。
そんな中、狐寺は吸い寄せられるように先輩の方へと近づいていく。俺も狐寺の後方に続くが、途中でわざと先輩の視界に入らない位置で立ち止まった。二人の会話が聞き取れるギリギリの距離を見極める。
「ねこ先輩、久しぶり~」
ほどなく狐寺が笑顔で先輩に話しかけた。
正面から降ってきた気安い声に反応して顔を上げた彼女は、ひらひらと手を振る狐寺に対して驚きつつも、すぐに親しみを込めた笑みを浮かべた。
「あー狐寺君、久しぶり。三月の図書委員会以来かな?」
「そーっすね! 今年は俺、ジャン負けして美化委員なんすけど先輩はまた図書委員?」
「うん。でも三年はかなり優遇されてるから最低限の当番だけ」
「やっぱそっかー……くそぅ、俺やっぱ今年も図書委員が良かったなー!」
「図書委員、他の委員と比べるとかなり楽だからね。どんまい?」
「いやそれもあるけど先輩とまた同じ委員会が良かったなーって」
「あはは、ありがとう。私も狐寺君とはやりやすかったから、一緒じゃなくてちょっと残念」
繰り広げられる会話から察するに、どうやら二人は委員会繋がりでの知り合いのようだ。
先輩と狐寺に接点があったことにも驚きだが――それよりも何だ、この親しさは。
狐寺は元来社交的な奴だから分かるが、先輩が同年代の男相手にこんなにも打ち解けている様子に名状しがたい焦りと苛立ちを覚えてしまう。
俺との会話ですら、時折緊張を滲ませるのに。まったくもって面白くない。
本音を言えば今すぐにでも第二資料準備室に連れ込んで狐寺との関係を一から全部聞き出したい。
……分かっている。これはただの子供じみた嫉妬というやつだ。別に俺と先輩は付き合っているわけでもないのに、こんなことを実行したがるなんて身勝手にもほどがある。
「……ところで、ねこ先輩」
そんな俺の内心など知る由もない狐寺が、少しだけ声を潜めて先輩に言う。
「アイツ、最近どうすか? 元気してる?」
「あー……うん、元気だよ? その、私が知る範囲ではだけど」
「そっか。なら良かった……すんません、変なこと聞いて」
「ううん、こっちこそ。狐寺君も元気そうで安心した。でも明日から夏休みだし、あまり羽目を外さないようにね?」
「りょーかいっス! 先輩も受験頑張って!」
二人は終始穏やかな雰囲気で会話を終了させた。先輩から離れようと踵を返した狐寺は、そこでようやく俺が近くで待機していたことに気づき、僅かに瞠目する。
「とっくに教室戻ってると思ってたわ。え、待っててくれたん? 拓海らしくな――」
「え、狗賀君?」
先輩は発言した瞬間にあからさまに「しまった」という顔をした。そして次の瞬間には周囲の反応を気にする。
移動中の生徒の大半は俺たちを一瞥するだけで去って行くが、中にはわざわざ足を止めてこちらに聞き耳を立てている女子の姿があった。といっても、数人程度だが。
先輩も当然、その存在に気づいたのだろう。所在なさげな彼女は俺と狐寺を交互に見て、若干迷う素振りをした後―――俺の方へと視線を向けた。
「その……ごめんなさい。初対面なのに、いきなり名前呼んじゃって……」
その発言で俺は先輩の望む流れを正しく理解する。まぁ想定内だ。
ここで彼女を困らせるのは本意ではないため、誘導に従って会話を続ける。
「別に気にしてないんで謝らなくていいですよ。……ところで狐寺」
「ん?」
「お前、この人と知り合いなんだろ? 流れで紹介くらいしろよ」
「は? ……はぁ!?」
俺の言葉に狐寺が今度こそ驚愕の表情を向けてくる。それもそうだろう。未だかつて、俺がこいつに知り合いの女を紹介しろと言ったことはない。むしろ常日頃から余計な女を紹介するなと釘を刺しているくらいだ。
普段とは真逆な俺の言動に面食らう狐寺だが、そこは持ち前の機転の良さですぐさま切り替えてくる。
わざとらしく咳払いをしてから、狐寺は先輩を指し示すように掌を向けた。
「この人は三年の三毛島寧々子先輩。通称ねこ先輩。一年の時に同じ図書委員で、よくペア組んで作業してたんだよねー」
「……ペア、ねぇ」
自分でも大人げないくらい低い声が出た。そんな俺の態度に何かを察したのだろう。
途端に目をきらりと光らせた狐寺がいつもの調子を取り戻したように口を滑らかにしていく。
「そう、ペアで! ねこ先輩めっちゃ親切でさぁ! あと先輩なのに全然偉そうじゃなくて俺が一方的に懐いたわけよ!」
「こ、狐寺君! そんな変に持ち上げなくていいから!!」
「いやいや本音ですよ本音! あ、ねこ先輩はたぶん知ってると思うけど、こいつ狗賀拓海。俺の中学時代からの親友!」
「……どうも、狗賀です」
狐寺に肩を組まれたのを雑に払いのけながら軽く頭を下げる。先輩は色んな感情がごちゃ混ぜになっているのか、手元のスマホを固く握りしめながら「み、三毛島です」と居たたまれなさそうに俯いた。
「ねこ先輩、大丈夫ですよ! 拓海はちょっと愛想ないけど根はいい奴なんで!」
「あ、あはは……」
先輩が取ってつけたような乾いた笑い声を微かに漏らす。目はどう見ても虚ろだった。
これ以上は流石に可哀想だなと判断して、俺は狐寺の肩を小突いた。
「狐寺、そろそろ戻るぞ」
「うぃー……じゃあね、ねこ先輩!」
「あ、うん! またね狐寺君…………狗賀君も」
最後にとても小さな声で俺の名を呼んだ先輩が、あの二人きりの部屋で見せる、ちょっと困ったような笑みを浮かべる。
これが今の外での俺たちの距離。知り合いですらない、ただの同じ学校の先輩後輩。
正直、もどかしい、と思う。
けれど同時に、自分たちの本当の関係は、自分達だけが知っていればいいとも思う。
日に日に肥大化する独占欲。遅れてきた初恋に振り回されている自覚はある。
こんな面倒な感情を知られたら、彼女は俺のことをどう思うだろうか?
考えるだけで思考がネガティブな方へと傾きそうになる。
もし先輩から少しでも拒絶の意思を見せられたら、きっと俺は平静ではいられない。
返事がないことに不安そうにする先輩を見下ろす。
そしてようやく俺は目線だけで挨拶をし、彼女から離れた。当然狐寺もついてくる。
ちらりと背後を振り返れば、どこかホッとしたように肩の力を抜いた先輩の姿があった。
仕方がないこととはいえ結構ダメージを食らう。今日ほど、周囲から視線を集める自分の立ち位置を煩わしいと思ったことはなかった。
「……拓海ぃ」
「煩い黙れ」
「そんなこと言って、どうせ俺とねこ先輩の関係が気になってしょうがないんだろ~痛ッ!?」
声を潜めながらも全力で揶揄ってくる狐寺の脇腹に軽く肘鉄をお見舞いする。
大げさに脇腹を押さえた狐寺だが、それでも満足げな笑みは崩さなかった。
「いやぁ夏休み前に面白いもん見れたわ~。なるほど、拓海のタイプはああいう感じか~」
「……狐寺」
「まぁ確かにねこ先輩めっちゃ可愛いし性格いいし胸もでか――」
「それ以上言ったら殺す」
俺の本気を感じ取ったのか、狐寺の発言がピタリと止まる。
後でこいつには先輩との関係をじっくり問い質すことが確定しているが、今はその時ではない。
誰が聞いているか分からない状況で不用意に先輩の話はしたくなかった。
俺はもう一度、背後を振り返る。すると先輩が誰かと話しているのが目に入った。
遠目からだが、おそらく日本史担当の若い男性教師。名前は思い出せない。
廊下を曲がると当然ながら先輩の姿は見えなくなる。
俺は午後からの部活前にやるべきことを頭に描きながら、ポケットの中のスマホを取り出した。