三毛島寧々子(7)
狗賀君を待っている間、私はいかにして自分の気持ちに蓋をするかを考えていた。
狗賀君は色恋の気配に敏感だと思うから。
せっかく手に入れたこの避難所が私の芽生え始めた恋心の所為で使えなくなるのは、理不尽だし可哀想だ。
大丈夫。本音を隠すのには幸か不幸か慣れている。大丈夫。
そうやって上手く立て直そうと気持ちを落ち着かせていたところに、
「……っごめん、待たせた」
いつもより勢いよく扉を開けて、待ち人はようやく現れた。
私は気にしていないことを示すように笑顔を作り、大丈夫だよと和やかな音にする。そんな私の応答にホッとしたように息を吐いた狗賀君は、後ろ手に扉を閉めて鍵をかけた。
その動作に一瞬、今までにない緊張を覚えたのは私自身の感情の変化によるものだろう。
気になる人と密室で二人きりだと改めて意識してしまえば、平静を取り繕うのにも一苦労。
やっぱり厄介だな、と自己分析しながら私はいつものアイスコーヒーが入ったカップをソファーに座した狗賀君の前へコトリと置いた。
「とりあえず飲んで落ち着こ? 時間はまだあるから」
「……ありがとう。いただきます」
ぐいっと呷るように飲み干した狗賀君は、それでようやく人心地がついたのかソファーに身体を沈めて目を閉じた。心なしか顔色が悪い気がする。こんなに疲弊している彼を見るのは、この部屋で初めて会った時以来ではないだろうか。
「……ありがとね、狗賀君」
「は……? え、なんの話?」
「この部屋のこと、彼女達たちに秘密にするの大変だったでしょう?」
「ああ……いや、むしろこっちこそ気ぃ遣わせて悪かった。ちゃんと話付けたし今後は大丈夫だと思う」
狗賀君がそう話すように、当然ながら先ほどまで彼と一緒に居た女の子二人組の姿はここにはない。
おそらく何らかの形で説得して引き離してきたのだろう。
彼女たちとの関係や、あれからどういう経緯を辿ったのか聞きたい気持ちがあるのも事実。
だが今ここで優先されるべきは狗賀君がこれ以上、煩わされないことだ。
「ねぇ狗賀君……私に出来ること、何かある?」
深く考えることなく口をついた私の曖昧な言葉に、狗賀君がゆっくりと目を開ける。彼はそのまま緩慢な動作で姿勢を正すと、こちらを真っ直ぐに見据えた。やけに真剣な表情で。
「そういうことは、あまり軽々しく口にしない方がいいですよ」
「どうして?」
「相手によっては簡単に付け込まれるから」
「それはちゃんと分かってるよ。狗賀君だから言ってるの」
「あー……信頼してくれんのは嬉しいけど、むしろ俺が一番危険かもしれない」
最初とは打って変わって狗賀君はどこか茶化すように笑ってみせる。彼としてはこのままいつもの軽口で終わらせるつもりだろう。その方が変な空気にならずに済むから。私が気まずくならないようにしてくれているのだ。きっと。
だけど……だからこそ。私はその流れには敢えて乗らなかった。
「……それでも、私は狗賀君に何かして欲しいって言われたら喜んで引き受けるから」
せめてこの部屋にいる間だけは、私が彼の一番の味方でありたかった。
この、完璧に見えて想像以上に気を張っていて、どこか疲れや寂しさが見え隠れする年下の男の子の肩の力を抜いてあげたい。
私と居る時は少しでも素の状態でいて欲しい。空気なんか読まなくていい。楽にしてあげたい。
本当はこんなことを考えること自体がおこがましいと理解している。けれど紛れもない本心だった。
と同時に、そんな私の身勝手な希望を彼に押し付けるのもまた違うので、
「――さてと! じゃあ、時間も惜しいしお昼にしようか? 狗賀君の力作、楽しみにしてたんだよ」
私は場の空気を切り替えるように明るめの声を出す。
そして購買の袋から自分用に買った焼きそばパンを出そうとして――阻まれた。
掴まれたのは右手首。そこから視線で自分のものではない腕をなぞっていけば、
「本当に」
どこか焦燥感を覚えたような、熱の籠った強い瞳とぶつかって。
「俺のして欲しいこと、叶えてくれんの?」
余裕のない掠れた低い声には、言外に拒絶することを赦さない凄みがあった。
私は誘導されるみたいに一度だけ、首を縦に振ってみせた。すると彼は私から手を離し、自分が座っているソファーの横を軽く叩いた。
「こっち、来て」
命令ともお願いともつかないそれに無意識のうちに喉がごくりと鳴る。私はゆらりと立ち上がって言われたとおりの場所に移動した。そして慎重にソファーの指定位置へと腰を下ろす。
と、そこで狗賀君が私の耳元に唇を寄せた。
「――触って」
「っ……どこ、を……?」
「どこでもいい。先輩から、俺に触れて欲しい」
ぶわっと、全身が燃えるように熱くなった。こんなにも甘ったるい彼の声を聞いたのはもちろん初めてで、触れられてもいないのに背筋がぞくぞくする。
しかも狗賀君が私に触れるのではなく、私から狗賀君に触れる――あくまでも選択権は私に委ねるという彼のスタンスがあまりにも予想外だった。それでも望まれた以上、私はそれを実行するほかない。
覚悟を決めた私はそっと両手を伸ばして、ひとまず狗賀君の黒髪に触れた。
距離が近いから否応なく熱や匂いが伝わる。さっきから自分の心臓が煩い。
すると彼は撫でやすいようにか、少し頭を私の方へと傾けてくれる。
それがまるで撫でるのを催促する犬のようで、こんな状況なのにただただ可愛いなんて思ってしまった。
だからだろうか。時間が経てば経つほど離れがたいとすら感じてしまう。
この指先から伝わる髪の感触が私への信頼の表れのようで――途方もなく、愛しい。
「狗賀君」
「……なに?」
「嫌なら断ってね? ……その、ぎゅって、してもいい?」
「――むしろして欲しい。先輩にならいくらでも」
私の肩口に額を乗せながら、狗賀君が催促するように距離を詰めてくる。
意外と甘え上手な態度と仕草に胸の奥がきゅうっと疼くように高鳴った。これだけかっこいいのに可愛いなんて、ズルい。反則だ。こんなの好きにならない方が無理。
私は狗賀君の背中に腕を回すと、思い切ってぎゅっと抱きしめた。
自分とは全然違う身体の硬さがダイレクトに伝わってきて恥ずかしい。そして彼はやっぱり男の人なんだなと実感する。そしてまた際限なくドキドキしてしまう。それの繰り返しだった。
対する狗賀君は本当に私にされるがままだった。私が彼を離すまで、ずっと。
まさかこの日から、部屋に来るたびにこの儀式めいたやり取りが行なわれることになるとは。
この時の私は想像だにしていなかった。