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それぞれのゴール、これから

 昼下がりの陽気は清々しい風に乗って、わたしたちに新緑の記憶を届けてくれる。わたしたちはそれをあと何回感じることができるだろうか。限られた生の途上で、繰り返される日々が二度とは経験できないものだと知りながら、わたしたちは今日を昨日の延長線上に感じて、明日も同じように迎えられると信じている。幸福な瞬間は得難いものであり、美しさはいつだって掴もうとする手をすり抜けて、揺らめく木漏れ日のように不確かに明滅している。その輝きは、すべてを鉱物に変える光であり、また新しい生がそこから始まるための光なのである。



 自分の足で前に進むためには、大地と触れ合い、反発し、繰り返されるその衝撃を推進力に換えなければならない。かかとからつま先へと伝わるインパクトの流れは、鼓動となって全身を震わせる。

 ウサギは丘陵地帯におけるゴール前の最後の平坦な道のりを軽快に駆け抜けている。辺りはカルスト台地となっており、ところどころに隆起する石灰岩質の白い岩肌を除けば見渡す限り開けた草原である。どこまでも続く緑と白のコントラストの中をゆるやかな尾根筋に沿って続いていく道。眼下にはうっすらと青色に染まった街並みが空気遠近法の向こう側に沈んでいる。


 そんな平穏な道のりは眼前に見える小高い丘によって終わりを迎えている。地相が変化し、高地性の落葉樹が涼し気に林立するその丘には、頂上付近の開けた空間に一本の大きなミズナラの木が生えている。まるで山を掴むかのようにそびえるその木は一面にしだれた薄緑色の花を咲かせ、辺りにかぐわしい香りを漂わせていた。

 一足早く丘の頂上にやってきたカメラは、その萌え盛る緑の気配の中でじっと息を潜めていた。丘を通り過ぎる道は大樹の陰に入り、半透明な光の粒が辺りいっぱいに絨毯のように敷き詰められている。

 飛び交うハナカミキリとゼフィルスの仲間たちが、風にそよぐ草葉と一体になって、寄せては引いていく波のような悠久のリズムを刻んでいる。繰り返されるものがもたらすもの、春、そして生、形のないものが形を得てはまた空へと還っていくかのような、儚げで耐えがたく切ないもの。

 カメラにはそのすべてが、幻想的で嘘かもしれなくて、もう二度と感じられないような特別な瞬間に思われた。幸福であるのに心がなでつける風でさえもひりつくかのように剝き出しになって、全身の知覚が鋭敏になり、時間がゆっくり流れているかのように感じられる。彼はウサギが来る前に、その景色に向かって数度、シャッターを切った。


 ウサギは峠を過ぎ丘を登り始めた。緩やかな弧を描く道は、爽やかな葉音をたてる広葉樹林の中を進んでいく。林の中では春の蝉がケケケケケケ......と合唱している。山からの清水が道路沿いの小川に流れ込み、大きめの岩の間を縫って進むそれらが微細なしぶきをあげながら、せせらぎを伝えている。

 呼吸と大地を踏みしめる音が通り過ぎていく。ときおり驚いた蝉がギッ!と鳴いて飛び去って行くが、それもつかの間の出来事であり、林は通り過ぎる者に構わずしめやかにそれぞれの唄を歌っている。それは、その場所で休息をしようとも、見向きもせずに走り抜けようとも、同じように悠然と受け入れてくれるおおらかな唄であった。

 確かに、この中でする昼寝は最高だったな。ウサギは少しだけ昔のことを思い出していた。今思えばあのときあんなに寝過ごしてしまったのも、この場所があまりに優しい場所だったからなのかもしれない。暗く、苦しい記憶として彼を責め続けたこの場所は、実のところはあまりに明るく、美しい場所であった。そしてウサギは、そのことをありのまま感じ取ることができた。

 今や彼の身体は、彼の意志によって動いているのか、それとも何か大きな存在が動かしているのかわからないような不思議な状態になっていた。彼は確かに走っており、全身を把捉しているのだが、それ以上に彼は過去から未来に吹き付ける追い風に乗っているかのようであった。その風はいつだって彼を無慈悲に前に進ませ、老いと後悔を与えてもきた。しかし今は、後ろを振り返らずとも通り過ぎてきた景色や自分の足跡が彼を祝福していた。

 

 まもなく丘の頂上に着く。

 ウサギは少しだけ緊張で僧帽筋が張るのを感じたが、呼吸を整え軽く腕を回し、追い風に身を任せてギアを上げ加速した。

 彼はゴールまで残り1キロ強のこの地点からスパートをかけることにしていた。頂上はもはや曲がり角を二回ほど曲がったらすぐに訪れる。

 一度目の角を曲がった。ウサギの鼻に、ミズナラの花の何とも言えない香りが感じられた。少しだけむせかえるような空気をいっぱいに吸い込んで、アスファルトを力強く踏みしめた彼は、二度目の角を曲がった。

 道が開け、彼の目の前に大きな木と木漏れ日の絨毯で敷き詰められた道が姿を現した。その刹那、彼は彼のすべてが一瞬になって走馬灯のように彼の世界を回転させ、それが万華鏡の剝片のように鮮やかに昇華されるのを感じた。

 彼はその黄緑色の世界を鮮やかに切り裂く新しい風となった。そして、あっという間に丘の頂上を走り抜けると、下り坂になったその道を、さらに加速して進んでいくのであった。


 カメラは曲がり角からウサギが出てくるのを見た。それは彼の身体、彼の目であるファインダーを通してであった。彼はコマ送りにも見えるように感じられるその姿を逃すまいとシャッターを切った。夢中でシャッターを切った。

 大樹の陰、かつて昼寝をしたその場所の前を、ウサギは前だけを見つめて駆け抜けていった。その瞬間を、かつての自分を超えていく瞬間を、彼は写し取った。

 その衝撃は、彼をしばらくここではないどこかに置き去りにしてしまった。それまで感じていたこの場所の空気というものがもはや意識の彼方へと引いてしまい、それを再び感じられるようになったときにはウサギはもうとっくに見えなくなっていた。

 終わってみればあっけなかった。いや、まだレースは終わっていないのだが、自分にとって撮りたいものはもうほとんど終わってしまった。ここからゴールまでのウサギの様子は他の撮影班に任せることにしたカメラは、しばらく心を落ち着けたのちに、カメの方へと山を下って行った。


 一方カメはそのころ、ようやく第二給水地点の前の森までたどりついていた。

 第一給水地点で摂取した水分と、ひんやりとした森の空気が彼に活力を与えた。彼は未だに表情は苦しそうではあったが、ペースは落とさず、山間部に差し掛かってもそのリズムは崩れなかった。

 彼はふと、自らの重荷である甲羅を背負い、幾度となく山を登っては降りているかのように生きていくその様について、ある種の責め苦のように思っていたことを思い出した。それは賽の河原に石を積むがごとく、山に持ち上げた石が転がり落ちていってしまうがごとく、繰り返されること自体の不条理のように思われたのであった。

 しかも彼にとっての甲羅は取り外すことができないし、石が転がり落ちていくかのように自らと離れて動くこともかなわない代物であった。自らの存在と一体化した重荷について考える度に彼は、自らが他者と比べて劣った存在であるかのように思われた。それゆえ、彼は常に挑戦する側であったし、人よりも努力しなければならない存在であった。

 今回の勝負もまた、そのような重荷の一つであった。快く引き受けはしたし、自らの挑戦のためと位置づけはしたものの、このような案件を断れるわけがないのは明白だった。この勝負を断れば世間からは勝ち逃げだと罵られ、空気の読めない自己保身に走るつまらない存在だとされることで、自らの人生をめちゃくちゃにされてしまう。そもそも自分自身が中味のない甲羅のように空虚な存在であるカメにとって、世間の印象やウサギとの関係性で成り立っているという価値を破壊することは最も忌避すべき事柄である。

 それゆえに、今カメは走っているのだ。これまでとこれからのすべてを冷静に考え、計算し、何が何でも生き延びていくために。カメは自分が高尚な理念を掲げて挑戦者としてふるまうことで、ある一定の大義名分を掲げているという状況に安堵と欺瞞を感じていた。彼は世間が考えているほどにきれいな存在ではないし、本心では今現在だって走ることを苦痛に感じている。何で走らなければならないのか、何で世界に恥をさらさねばならないのか、懸命に走る姿で希望や勇気を与えるというきれいごとを支えるのは、いつだって汚い仕事を引き受けて陰ながら仕事をしている苦しみがあってのことなのだ。

 カメは全身に行き渡る乳酸を感じながらウサギに対しての憧憬と怨恨を噛みしめた。ウサギはあっという間に走っていてしまった。その人生を糧にして生きてきたのがわたしだ。結局カメはウサギ無くしてはカメたり得なかった。この物語の主人公は結局ウサギなのだ。いくらその後わたしがもてはやされたところで、真に偉大なのはウサギだったのだ。現に彼は今頃風のように走り、美しい世界を見ていることだろう。自分の過去を払拭して、今日という日を素晴らしいものにしているに違いない。だがわたしはどうだ。彼が一息で過ぎ去る場所を牛歩のごとく進み、いや、こういうと牛にも失礼なほどにゆっくりとしか進めず、一歩進むごとに内心恨み言を吐き、死にそうな表情で一生懸命走ることでお涙頂戴をしているだけの矮小な存在じゃないか。わたしはウサギが羨ましい。ウサギが憎い。彼はいつだってわたしにないものを持っているのだから。わたしはそう生きることはできない、わたしはカメとしてしか生きることができない。世間の人々がカメのようにゆっくりとでいいから着実に進んでいくように生きることを一種の道徳のように語り継いでいることも我慢ならない。彼らはわたしとは違った生き方ができるはずなのに、わたしはそうしかできないからそうしていただけなのに、皆何もわかっていない、わかろうともしていない。だからわたしは証明する。わたしの身体で証明する。わたしがわたしであることを。わたしがこんなに醜い存在で、何にも美しくなくて、地べたをはいつくばっているただのカメであり、それ以上でもそれ以下でもないことを。わたしの真実を。証明するんだ。わたしは、わたしになりたい。


 ウサギは下り坂を跳ねるように進む。より強い衝撃が両足にかかるのを受け止めながら、彼はゴールへ向かう。

 さすがに疲労の色が見えてきた彼であったが、これもスパートにつきものの感覚であり、彼は残された距離における心身のエネルギーの出力を出し切ることにのみ集中していた。

 下り坂はすぐに終わり、ゴールまでの最後の上り坂となった。この先にそびえるひときわ大きな山の麓の台地がゴール地点となっている。ウサギは残りの力を振り絞り坂を登った。

 レースには必ず終わりが来るものだ。この道のりを走るということ、ゴールにたどり着くということ、それがあまりに困難な企てに思えていた10年間。それはあまりにも長いように思えた。しかし、今こうして走り切らんとするその距離は、一時間強で到達できる距離に過ぎなかった。走り出してからは一瞬だった。道のりだって、景色の良いいい道だった。

 その道を違えてしまったもの。自分の人生の道というものがもしあるとしたら、そこから踏み外してしまったような何か。それらでさえも、今はもう、すべて、間違いとか、失われたとか、そんなことを想わずにすべてが自分の道だったと、そう思える。

 沿道にはゴールが近づくにつれて大勢の人々が応援に詰めかけ、ウサギに対してあらん限りの声援を送っていた。ウサギはその中を一心不乱に駆け抜ける。緑の中を振り乱れる人々の手や羽や尻尾がこれ以上ない密度であたりを埋め尽くす。それが頂点に達し緩やかなカーブを曲がると、ウサギの眼前100メートルにゴールが見えた。株式会社アキレウスのロゴが刻まれた真っ白なゴールテープめがけて吸い込まれるようにウサギは最後の加速をする。

 中継画面はゴール側からの映像に切り替わった。左右の群衆と横断幕の中をウサギがまっすぐにこちらに向かってくる。

 彼の表情は晴れやかだった。速度は落とさぬまま徐々に近づいてくるその身体は、誇らしげに胸を張って、柔らかな抵抗を断ち切り、ゴールテープがひらりと宙を舞った。

 ウサギは自らの慣性に則り駆け抜けた後徐々に減速し、大きく息を吸ってから顔を上げて、詰めかけた観客たちに手を振った。


 中継はゴール後のウサギの様子を映していた。ウサギは大きなタオルを肩にかけ、軽く水分を補給して、辺りの歓声に応えながら、レースの余韻に浸っていた。

 画面の隅のワイプではカメの様子が映されていた。カメは今ようやく森を抜けて第二給水所まで来ていた。ここからしばらく平坦な道のりであるが、彼の身体はもうあちこち悲鳴をあげている。それでも給水し、頭から残りの水をかぶったカメは再び少しだけ元気を取り戻し、走り続けた。

 ウサギがすでにゴールしたということは観客の反応や給水所でのアナウンスによって把握していた。ここからはカメがゴールするまでの消化試合のようなものだ。ここでもしウサギが昼寝をしていたら、まだ見どころがあったのかもしれない。しかし、今回はそうではない。ウサギは当然の走りを完遂し、カメはすでに敗北しているのだ。

 この先は自分との勝負でしかない。いや、初めからこれは自分との勝負でしかありえなかった。それはウサギにとってもカメにとっても、同様であった。カメはあたりまえの敗北を噛みしめ、これまでの勝者という幻想を破壊するために走った。観客の熱狂も、カメがゴールするまでには醒めてしまうかもしれない。エンタメにとってはいささかテンポが悪すぎる展開かもしれない。ここから先中継の尺を稼ぐのも大変かもしれない。変な注目ばかり集めて、無様な姿をさらすかもしれない。

 それでもカメは走った。カルスト台地の広々とした空間の中を、丘の上への道を。カメは辺りの景色の美しさにいくばくかの癒しを得ていたのかもしれないが、それ以上に走ることに精いっぱいで周囲にあまり気を配る余裕はなかった。10年前この道を走った時も同じような感覚であった。一度レースでないときにゆっくり歩いてみたいものだと思うが、なかなかそんな機会もないのだから仕方がない。

 丘の上まで来たカメは、房状になって落花しているミズナラの花を踏みしめながら、ここでウサギを追い抜いたことを思い出した。そうは言っても10年前はあまりにも必死であったため、ここでウサギが寝ていることにも気づかずに、ゴール直前で周囲の反応からそれを察したくらいであったのだが。


 カメラはカメの走る姿を中継車で追いながら、ところどころでシャッターを切った。カメラにとってはウサギの走る姿を収めることが第一の関心ではあったが、カメのことをとらえることもまた同じくらいに重要なことであった。

 それはスポンサーだからとか、カメも撮らないと絵として成り立たないとかいうことももちろんそうなのだが、なによりもカメラはカメに対してウサギとは違った意味で尊敬の念を抱いていたからであった。

 カメラは自らの人生を他者を写すことに費やしてきた。これは彼の生まれ持っての性質によるものであり、天職を全うしたともいえる。しかし、カメラはもし自分がそうではない生き方をしたらどうだったろうか、という可能性についてしばしば考えるのであった。アスリートや音楽家、研究者や別業種での会社員だっていい、何でもいいから自分の運命というものに抗って生きてみた世界を夢想してみることが常だった。

 カメはカメラにとっての「抗うもの」の象徴であった。カメは自らの運命を挑戦によって切り拓いていくことを体現していた。長年カメと付き合ううえでカメラは、カメがそうした自分自身の生き方を欺瞞的で虚飾的だと認識していることも知っていた。しかし、カメラにとってその姿は、自らの力で自らではないものへと変容し続けようとする泥臭く力強い生き方として映っていた。

 いうなればカメラにとってカメは変容への強力な力を表しており、ウサギは自らの純粋性への希求と突出した才能を表すものとして双方が憧れの対象であった。ウサギとカメが走っている姿はカメラにとってどちらも特別な意味を持つものであり、それはそれぞれの尊厳をかけた闘いの表現としてそこにあるのである。

 

 カメは丘を下り、最後の上り坂に差し掛かった。きつい、しんどい、もう体も限界だ。朦朧とする意識を鼓舞しながら彼は必死に坂を登って行った。

 辺りにはウサギがここを駆け抜けたときにはいなかった観客たちが坂道の両側に押し寄せてきており、カメに対して声援を送っていた。

 「がんばれ」「もう少しだ」「最後まであきらめるな」

 カメは重たい身体が少しづつしか進まないことを恨みながらも、そうであるがゆえに浴びせられる言葉の雨をより長く感じられるということに不思議な高揚感と恥ずかしさを感じていた。普段であれば、頑張れと言われても素直に受け取れない自分がいた。口では対外的に受けの良い対応を心掛けていたが、内心他者からの声を疎ましくも思っていたし、自分はわかってもらえないのだと思っていた。

 しかし、今は声ともならない押し寄せる波のような声援が、自分の身体を前に進ませてくれるのだということが理解できた。それは、自分が走っているからそう思えたことであったし、自分が敗北者であったとしても本当にそう思えることなのであった。

 坂を登りきり、残り100メートル、再度掲げられたゴールテープが目前に見えてきた。レースの終結をこの目に収めようと、その場の熱狂に参加しようとする観客たちがこの地に集まってきていた。カメがゆっくりと進んでいる間に、彼らは先回りして待ち構えていたのである。

 カメラはそんな恐るべき熱気を、奇跡のような瞬間を、自分の最期の仕事を成し遂げるべく、残り少なくなったフィルムにその光景を焼き付けていた。ひと時の喧騒、祭り、蕩尽。世界の特異点はいつだって何かからの解放、カタルシスであり、終わりに向かう物語の頂点なのだ。

 中継画面がゴールからの映像に切り替わる。カメはウサギがその距離を駆け抜けたようにはすぐにこちらへと進んでこない。ゆっくりと、ゆっくりと、しかし彼の全速力のスパートでもってカメは走った。その表情は、涙と疲れとでぐしゃぐしゃになっていたが、とても晴れやかなものであった。

 カメは残りの力を振り絞って胸を張り、静かにテープを切った。

 カメはもう息も絶え絶えで、すぐに倒れこんでしまった。辺りの喧騒は彼には届かず、ぼんやりとした午後の日差しが感じられるだけであった。

 ふと、目の前に手が差し伸べられた。それは白い毛の生えた肉球のある小さな手だった。カメはその手を掴み立ち上がると、そこには曇りない眼でこちらを見つめるウサギの姿があった。

 カメは何か声を出そうとしたが、疲れと歓声によってそれはかき消えてしまった。しかし、そこでは言葉はいらなかった。二人は改めてしっかりと握手をし、何かを確かめ合ったあと、カメは救護班に連れられてしばしの休息へと向かったのであった。



 あのレースから3か月が経った。

 レースの結果はしばらく世間を賑わわせたが、それももう落ち着きをみせている。

 ウサギとカメはその後各メディアにそろって出演し、レースを終えた感想や、これまでの思い、今後の抱負などをひとしきり話すことになった。

 ウサギは、これまでしていたような道化じみた反面教師としての講演会ではなく、自分の失敗を乗り越えてなお進んでいくということの大切さを説くようになり、これまでできなかった後進の指導にも携わるようになった。これからは、スポーツの振興とそれを通した教育活動に精を出していくとのことである。

 カメは、相変わらず忙しい実業家としての日々を過ごしている。彼はかつての成功者としての立ち振る舞いというよりも、自分の等身大の存在を認め、そこから何ができるのかということを意識するようになった。彼は新しい本を執筆中であり、そのタイトルは『カメはいかにしてウサギに負けたのか―負けてなお得られる大切なもの(仮)』だそうである。

 カメラはというと、レースの写真を現像し、報道各社がそれでもって素晴らしい瞬間を報道するのを見届けた後、静かに息を引き取ったとのことである。葬儀にはウサギとカメも出席し、長年の付き合いであったカメは弔辞を読んだ。

 生前の彼の仕事が、式場には数点飾られていた。そこには、全盛期のウサギの雄姿や、今回のレースでのミズナラの木の前を駆け抜けるウサギの姿、カメが大勢の観客に声援を浴びて懸命に走る姿もあった。

 その中でも一番目立つところに飾られていたのは、彼のフィルムの最後に焼き付けられていたという、レースを終えて固く握手をする、晴れやかなウサギとカメの姿なのであった。

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