1 斜向かいが変わったらしい。
「……どちら様ですか」
出迎えてくれたのは一般的に「かわいい」と称されるであろう女の子。ほんのり茶色がかった黒のロングヘアをふわりと揺らし、柊の目線よりも幾段か低いところから、その声は放たれた。
「……あー、やっぱり多かったか」
用意していた二枚の皿に、絶妙に盛りきれない量の野菜炒めを生産した男子高校生、白藤柊は、いまだ冷えきらないガス焜炉の前でそう小さくぼやいた。
冷蔵庫に残っていた野菜と特売の豚肉を、タレで適当に炒めただけの簡素なものなのだが、どうも量が多かった──炒めている最中に気づいた──ようだ。
そのガス焜炉に乗せられたフライパンには、一食にするには少なすぎるけれど分けてしまうには多すぎる、何とも言いがたい量の野菜炒めが残されている。
「ま、余ったら余ったで……お、このタッパーいい感じ」
二枚の皿のうち一枚は今晩の夕食用、もう一枚は明日の朝食用。
そして、この余った野菜炒めをどうするかと思案した末、とある人物が思い浮かぶ。
片方の皿を冷蔵庫にしまうついでに、耐熱機能のある小さめなタッパーを手にした柊。
(いつも通りなら……まぁいい感じの時間か)
その「とある人物」のことを片隅に考えながら、彼はそのままフライパンを空にする作業に移った。
***
数分後、同室の玄関先には、水蒸気で真っ白になっている小さな箱を左手にたずさえた柊の姿があった。
靴を履くついでにそれを落としそうになりながらも、無事に玄関をくぐることに成功。そのまま自室の斜向かいにあるドアへと直進、一切の躊躇いなく呼び鈴を鳴らす。
『とある人物』とはここの住人であり、いつも通りいるであろう友人、藍空夕李のことだった。
柊と同じ高校に通う夕李は、この一室に身を置いている。とは言ってもすぐ近くに実家はあるらしいが。
最近は色々とあり機会は減っているが、以前からこうして、たまに余った料理を渡すくらいのことはしていた。ゆえに大体の時間は把握している。
いつも通りなら既に帰ってきている時間だろう。
なのですぐにドアが開けられる。そのはずなのだが……
(……遅くないか?)
いつもならすぐに出てきてもおかしくないのだが、今日はやけに遅い。
(基本的にはこっちで生活しているらしいけど、もしかすると今日は実家の方に帰っているのかも……)
可能性が、ないとは言いきれない。
「多いけど、食べるかぁ……」
周りと比べると食が細い方である柊にとって、あまり嬉しくのない夕食の増加。少し気分は落ち込むが、まぁ仕方のないこと、と割り切るしかないだろう。
小さなため息を漏らしながら、来たところを戻るべく後ろを振り返る。
瞬間、夕李の部屋から、とたとたと足音が聞こえた。
どうやらいたらしい。あわて気味な音が近づいてくる。
数秒後、ドアの内側からガチャ、と解錠の音。
久々、と言うには早いが、ここ数日会っていない、数少ない友人が出迎えてくれる──
「遅い、夕李。ほら、飯余ったから持って、き……」
──はずだった。
開いたドアの隙間から覗き込み、微かに透明になりかけている小さな箱を見せるように左手を上げつつ言葉をかける。が、チェーンロック越しに帰ってきた視線は、本人の想像とは異なり……
出迎えてくれたのは一般的に「かわいい」と称されるであろう女の子だった。
「……どちら様ですか」
「は、え……?」
ほんのり茶色がかった黒のロングヘアをふわりと揺らし、柊の目線よりも幾段か低いところから放たれたその声は、彼を動揺させるには充分なものだった。
声も容姿も夕李とは真反対。予想だにしていなかった事態に頭が追い付かない。
「……どちら様?」
「それは私が訊いているのですが」
混乱の末に辛うじて口から出てきたのは、その一言だった。
***
「……な、なるほど……」
チェーンロックが外され、ドア枠越しに向かい合う形で行われていた情報共有は、柊のその言葉でひとまずの区切りとなった。
どうやら柊が少し家に籠っていた間に夕李はこの部屋を解約したそう。そこに彼女が越してきたという話だ。
スマートフォンに入っているメッセージアプリを起動してみると、通知が重なっていただけで、その旨を伝える連絡自体は入っていた。
なぜ急に、とは思ったものの、夕李も元々「ここは逃避場所みたいなもの」という話はしていたし、そういう意味であれば、いつここを解約してもおかしくないことではあったのだ。
「えと、いつからここに?」
「金曜日、なので一昨日ですね。少し事情がありまして」
「そ、そうだったのか……」
向かいの部屋に越してきていたのなら多少は音がするものなのだが、今回の場合は単純に柊の注意力が欠如していたのだろう。
(なにせ、夕李の連絡に気がつけなかったくらいだしなぁ……)
ある程度の整理をすることができた柊。無意識のうちに口元にあった手を下ろすと同時、ふと正面からの視線に気がついた。
「ほ、他にもなにか……?」
「……いえ、近隣の部屋に住んでいる方々を全く把握していなかったもので。ご挨拶に伺えていればよかったのですが……」
でも、と彼女の言葉が続けられる。
「即座に通報しなかったことには感謝してほしいですね」
「……おっしゃる通りです」
このマンションには、各室にインターホンが設置されている。よって「部屋の前に知らない男がいる」と言って通報することも容易だったのだ。説明が難しいわけではないのだが、面倒なことに変わりはない。
ありがとうございます、と伝えつつ、通路の突き当たりにある時計にちらりと目をやると、針は既に夜の十時を回っていた。
そろそろ自室に戻って明日の準備をしなければならないし、彼女もすることがあるだろう。
「改めて、お騒がせしてごめんなさい。それじゃあ僕は……」
失礼します、そう言おうとした瞬間、きゅう、とかわいらしい音が耳に入った。
途端、ものすごい速度で目が逸らされる。
(今のって、この子のお腹の音、だよな……?)
初対面の人にお腹の音を聞かれて恥ずかしくない者などいないだろう。女の子であればなおさら。彼女をよく見ると、ぷるぷると震えている。
その震えた肩越しに、今まで見ないようにしていた段ボールだらけの部屋が覗いてしまっていた。開けられていないものもいくつか残っている。
未だに整理が終わっておらず、料理などもままならない状態なのだろう。
しかし幸いか、いま柊の手元には余分に生産してしまった野菜炒めがある。
このまま持ち帰って余らせてしまう可能性があるよりも、もし食べてもらうことができるのならその方が良いだろう。
(気まずいことにはなってしまったが、もし貰ってくれるならこちらとしても助かる)
見てしまった、という若干の罪悪感に苛まれながらも、柊は口を開いた。
「ええと……もし良かったら、食べます? ただの野菜炒めですけど……」
先程の憶測が合っていることを祈りつつ、声をかける。
もちろん確証を持てはしないが、その場合は元の通り持ち帰ることにすればいいだけだ。
「……えっ」
彼女の顔が、驚きと恥じらいを6:4でかき混ぜたようなものになる。
このまま柊が帰ると思っていたのだろう。
数瞬の間の後、彼女の表情が遠慮がちなものになる。
「いえ、そんな、貰うわけには……」
しかし柊、彼女の反応も相まって、ここでようやく気付いた。「これ以上はまずい」と。
「……あ、知りもしない人からこんなもの渡されるのも怖いですよね。す、すみません、忘れてもらえると助かります」
これ以上は本当に警察のお世話になりかねない。よく考えなくともわかることだったのになぜ気が付かなかったのだろう。
ぱっと思いついて口にしてしまったことに後悔しながらそう謝罪するも、彼女からの返答は意外なものだった。
「い、いえ、別に怖いとかそういうことではなくて……ただ、迷惑ではないかな、と」
「あ、えっと、実はこれ、余り物なので。貰ってくれるなら嬉しいなと」
柊の返答に、彼女は目をちろちろと動かし始める。どうしようかと考えているのだろう。
そしてそのまま、瞳をまぶたの間で四周ほどさせた後、傍目から見ても分かるほどに耳を赤らめながら、「それなら、頂きます……」と小さく頷いた。
こんにちは。天守熾空です。初心者も初心者です。筆はとても遅いですが、頑張って書きます。
読んでいただきありがとうございます。「こうした方が読みやすい」などありましたらご指摘のほどよろしくお願いします。
初投稿です。慣れないながらも書き続けていこうと思っていますので、引き続き読んでいただけると幸いです。