満月の夜、うさぎを想う
時々、おはぎとか、稲荷ずしとか、食べたくなってしまうことがあります。
それほど、大好き、というわけでもないのだけれど……。
思い出した時に、いつものお店へ。
それは、幸せなことなのかもしれません。
アポロ11号が月面着陸を果たしたのは、1969年7月20日20時17分。
この時、ひっそり幻と消えた者がいる。
そう、月で餅をついていたウサギである。
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ここ、桂木町には、宇紗宜堂という和菓子屋があった。
現在の主人で5代目だというから、そこそこの老舗だ。
売っているのは、昔ながらのおはぎ。
柔らかくて、でもちゃんと、もち米の存在感はあって、塩味が効いている。
粒餡はちょっと甘め。
でも、もたれる感じはせず、ぺろっと食べれてしまう、そんな、おはぎである。
お客さんも、昔馴染みやご近所さんがほとんど、という塩梅で、特別に珍しいという店ではなかった。
僕が、この店を利用するようになったのは、3年前のまだ寒さの残る春先、急に降り出した雨を避けるため、軒下を借りたのがきっかけだった。
靴が濡れ、足元が冷えて、薄手の上着を後悔していたところに、店から奥さんが声をかけてくれた。
「よかったら、中に入りませんか?」
僕は、最初、そこが何の店か分からず、濡れた靴のまま入ることを躊躇った。
しかし、奥さんは、引き戸を開けて手招きすると、店内の片隅の、小さな電気ストーブの前に木製の丸椅子を置いてくれた。
「足元が冷えると、つらいからね。あったまりなさい。」奥さんはそう言って、お茶も出してくれた。
僕は、お茶をありがたくいただき、やや薄暗い店内を見回した。
ガラスのケースに、並べられたおはぎ。数も多くはなかった。そして、それ以外に売り物は見当たらなかった。
「うちは、ずっとこれだけなんよ。店も古くて小さいし。ご近所さんが買ってくれる分で、細々とやってるの。」
僕が、足元を乾かしている間に、客は、2人来た。
1人は、こざっぱりとした品の良さそうな老婦人で、遊びに来る孫に食べさせるのだと言っていた。
「最近のお菓子はよく分からないのよ。でも、孫は、これが気に入ってるみたい。のどにつかえないよう、切り分けて、ゆっくり食べさせるようにしてるけど、1個分、全部食べちゃうのよ。」
奥さんに話しながら、老婦人は、渡された包みを大事そうに抱えた。
奥さんは、出口のところまで付いていき、老婦人の代わりに雨傘をゆっくりと広げて、手渡した。
「ありがとう。また来るわ。」
もう1人の客は、くたびれたジャンパーを着たやはり高齢の男だった。
「今まで、世話になったなぁ。今日で、もう、この店に来ることもないだろうよ。婆さんの好物だったから、最後に2つ貰いに来た。」
男は老人ホームへの入居が決まったのだという。
奥さんは、やはり、包みを渡すと、男の歩調に合わせて付いていき、引き戸を開けて送り出した。
「雨、上がりましたね。」
奥さんは、そう言って空を見上げた。
ガラスのケースには、おはぎが1つ残っていた。
僕は、残ったおはぎを買って帰った。
部屋に入り、テレビをつけ、買ってきたおはぎを皿にのせ、ペットボトルの茶を飲みながら、ソファーに腰をおろした。
おはぎなんて、どれくらいぶりだろうか?
それは、懐かしい味だった。
その後、僕は、時々思い出しては、おはぎを買って食べた。
しかし、新型コロナの影響で、僕の会社もテレワークへと方針を変え、宇紗宜堂へは足が遠のいた。
しばらくぶりに、宇紗宜堂の前を通りかかった時、その引き戸のところに、1枚の紙が貼られているのに気が付いた。
閉店を知らせる紙だった。
僕は、呆然として、その場に立ち尽くした。
すると、「あら、こんにちは。」と、聞き覚えのある声がかけられた。
「あの、お店、やめちゃうんですか?」
「そうなの。主人が腰を痛めちゃってね。もう、いつ閉店にするか、時間の問題だったのよ。」
奥さんは、笑って言った。
「本当はね、祖父の代で閉めるはずだったの。月からウサギもいなくなっちゃったし、おはぎなんか、もう時代遅れだってね。そこから50年、よくもったと思うわ。」
奥さんは、閉店後も、掃除のために時々来ているのだと言った。
月からウサギが消え、この町から宇紗宜堂が消えた。
いつの間にか、馴染みだったものが消えていく。僕は、少し、肌寒さを感じた。
種類は違うのですがね。
それなりに利用していたお店が閉店してしまいました。
それはもう、ひっそりと。閉店セールも無しです。
コンビニとか通販は便利だけど、なんだかなぁ。寂しい限りです。