料亭にて
図書館の後、サリウスさんは表通りの大きな料亭に連れて行ってくれた。人気のある店のようで店内は混みあっていたけれど、予約をしてあったのか奥の方の比較的静かな席に通された。
座るとすぐに見た目では何でできているのか判断のつかない料理が運ばれてきた。こういう時は、食材が何なのか知らない方が食事を楽しめることは学習済みだ。けれども、この後彼の家に泊まるのだと思うと、料理の味にも集中できず、ますます何を食べているのかわからない。
やっぱり無理かも。もうちょっと、もうちょっとだけ待ってもらったらまずいかな……。情けないことに固まったはずの決心がもうすでに揺れ動いている。
彼は食べ物を口に運びながら、ちらりちらりと私の顔を見る。目が合うとちょっと照れたように笑顔を浮かべる様子に胸がぎゅうっとなる。
彼との今のこの距離が心地いいと思っているわけではない、私だって、もっと彼の事を知りたい。彼と愛し合いたい。でも、この目の前にいる大好きな人を失ったら私はどうなってしまうんだろうって、そんな不安が心の奥にこびりついている。
デザートを食べ終わったところで、料亭の主人がやってきた。
「お食事はお済みですね? お部屋のご用意はできておりますよ」
そのまま慇懃な笑顔を浮かべて私たちが立つのを待っている。
え? まさか、サリウスさん、我慢ができなくなって部屋を借りちゃったの?
「ハルカ、行こう」
サリウスさんはさっさと席を立ち、主人の後についてたくさんのドアが並ぶ店の奥の狭い廊下へと入っていく。
「あ、あの……」
「今は何も言わずについてきて欲しい」
そう言われれば従うしかない。通り過ぎる空き部屋のドアから鮮やかな色の布をかけられたベッドが見える。村のカフェの貸し部屋と違い、見るからにラブホテル仕様だ。
有無を言わさず部屋に連れ込むつもりなの? いつも私が逃げるように帰ってしまうのだから、彼にしてみれば他に手段がないのかもしれないけど、こんなの強引すぎるよ。
けれども案内された部屋は小さくて、真ん中に毛足の長い敷物が敷かれているだけだった。部屋に入り扉を閉めると、サリウスさんは敷物にどっかりと座り込んだ。
「あの、サリウスさん?」
「案ずるな。誰にも邪魔されず話をしたかっただけだ。君も座りたまえ」
話って? 言われた通りに腰を下ろした。魔法がかけられた敷物はふわりと弾力があって座り心地がいい。
彼は居住まいを正して私と向かい合った。表情は少し悲し気に見える。まさか……別れ話じゃないよね?
「ハルカ」
「はい……」
「君が私に好意を持ってくれているのは知っている。だが、君の昔の恋人への想いを断ち切れるほどの魅力は私にはないのだろうか?」
え? レイデンの話なんて一度もしていないのにどうして知ってるの?
「彼の事は『魔法院』で聞いたのだ。君の婚約者だったのだな」
顔に驚きが出ていたのか、質問されるのを待たずに彼は私の疑問に答えた。確かにあそこに出入りしているのなら私の話を聞くこともあるかもしれない。それにしても、今になってレイデンの話が出てくるなんて……。
「確かに彼とは『婚姻の契約』を結ぶ予定にしていました。でも、ずいぶん前に別れたんです。もう未練なんてありません」
誤解を解こうとはっきりとした口調で話したのに、彼の表情はさらに曇った。
「……そうか。それではやはり私のせいなのか」
「え?」
「付き合ってみたものの、重荷になってきたのだろう。私は……その……君が好きでたまらないのだ。だからつい抱きしめたくなるし、口付けたくもなる」
彼は視線を膝の上で握った自分のこぶしに落とし、大きく息をついた。
「……本当は鬱陶しかったのではないのか? それなのに君の気持も考えず、家にまで誘ってしまった……」
サリウスさん、初デートの日にもこんなこと言ってたけど、案外、自分に自信がないのかもしれない。私の優柔不断はやっぱり彼を悩ませてしまっていたのだ。
「あの、それは誤解です。私の話を聞いてもらえますか?」
「いや、嘘はつかなくてもよいのだ」
「だから正直に話すから、聞いてくださいってば」
私は身を乗り出して、いきなり唇にキスしてやった。レイデンを黙らせるのに使ったテクニックだけど、サリウスさんにも効き目はてきめんで、彼は目を見開いたまま口を開こうとはしなかった。
「聞いてくれますね?」
彼がこくりとうなずいたのを見て私は話し始めた。
「……私もあなたが好きです。すごく好きです。……でも、好きになっても、また捨てられちゃうんじゃないかって怖くなってしまったんです。レイデンは……私の婚約者はずっと一緒にいてくれるって言ってたの。私もそれを信じてた……」
あの時の苦しみが溢れだし、喉の奥を締め付ける。私は言葉を切って息を継いだ。
「今度もどこかでうまくいかなくなるかもって思うと、不安で前に進めなかったんです。もう、あんな思いはしたくないから……」
「ハルカ……」
サリウスさんが両腕を伸ばして私の肩を掴んだ。
「……私は君を捨てなどはしない。いつまでも一緒にいると誓おう」
「でも、あなたが誰なのかも知らないんですよ?」
「信じてほしい。私は君を伴侶として迎えたいのだ」
彼はそのまま私を抱き寄せた。杖を握っていると私には相手の強さが感じ取れる。それと同じように彼が真実を語っているのだと触れ合った肌を通してはっきりと伝わってきた。
「辛い思いをしたのだな」
優しい声が耳をくすぐる。
「もう何も案ずるな。君が私を信じて受け入れてくれるまで、いつまでも待とう。こうやって君と共に過ごせるだけで私は嬉しいのだ」
熱い腕に力強く抱きしめられて涙が溢れて来た。
「ハルカ? 泣いているのか?」
「……別れ話かと思ったんです」
「別れ話? どうしてそんな事を?」
「私に拒まれてると思ったんでしょ?」
「少し寂しくは思っていたが、そんなことで君と別れるはずがないではないか。そこまで私は信用がないのだろうか?」
「……ごめんなさい」
「いや、私こそ、君の悩みにもっと早くに気づくべきであった。すまなかった」
彼はしばらくそのまま抱いていてくれたが、やがて立ち上がり、私を助け起こした。
「いつもよりも遅くなってしまったな。さあ、停留所まで送ろう」
「いえ、いいです」
「だが、もう暗いぞ」
「今日はあなたと一緒に帰ります」
「……よいのか?」
サリウスさんは一瞬固まったのちに、ゆっくりと確認した。
「はい」
この人が好きだ。どうしようもなく好きだ。今さら躊躇したって何一つ変わるわけじゃない。とうの昔に後戻りのできないところまで来ていたのに、どうして今まで気づかなかったんだろう?




