揺れる心
そうはっきりと誘われたものの、次の週も私は別れを告げて家に戻った。その翌週もそのさらに翌週も。これ以上サリウスさんとの関係を深めるのが怖くなってしまったのだ。
彼に抱きしめられる度に、このまま身をゆだねてしまいたいと感じはする。でもどうしても決心がつかない。彼はあれ以来、私を誘うこともないし、帰ってしまう私を責めることもない。けれども、また彼をじらすことになるのかと思うと、会いに行くのも辛くなってきてしまった。
今日はまた図書館に行く日だ。終業時間が近づくと落ち着かない気分になってきた。
思い切りがつかない原因ははっきりと分かっているんだけど、だからと言って解決策は見つからない。私はため息をついて、レイデンの背中を睨んだ。
「どうかしたんですか? あの、私が何かやりましたか?」
タイミング悪く振り向いたレイデンが、おずおずと尋ねた。
「ん? どうもしないけど」
そう答えたけど、それは嘘だ。どうもしないどころか、今のこの状況はなにもかも全部あなたのせいなんだよ。
『失恋の薬』はレイデンへの想いはきれいに消してくれたけど、彼に与えられた傷までは癒してくれなかった。突然に別れを告げられた事がどれほどの深い傷を私の心に残したのか、今になってはっきりと感じられる。
描いていた幸せな未来は一瞬にして消え失せてしまった。消えてなくなって、どんなにあがいても取り戻すことはできない。
同じことがまた起きるんじゃないかって、またあの絶望を味わうことになるんじゃないかって、そんな不安がどうしても拭えない。
サリウスさんを信じていないわけではないし、この不安が理不尽なのも分かってる。それなのに、彼に誘われてからというもの、眠っていた痛みの記憶が折に触れて蘇るようになってしまった。愛せば愛すだけ、失恋の痛みは強くなる。痛みへの恐怖がこれ以上彼には近づくなと私を引き留める。
でも……いつまでサリウスさんは我慢できるの? 彼はもう十分待ってくれたのだ。初対面でも関係を持つのが普通のこの国で、恋人からいつまでも拒絶されっぱなしでは気分も悪いだろう。
これ以上待たせては愛想を付かされてしまう。破局の苦しみを恐れるあまりにフラれてしまっては本末転倒だ。いつまでも迷っている余裕なんてない。今日こそは彼のところに泊りに行こう。
心を決めて顔をあげると、レイデンが緑の瞳に不安を浮かべてこちらを伺っていた。
「……ハルカ、やっぱり怒ってますよね?」
「うん、怒ってる。レイデンの馬鹿」
「え、え?」
「冗談だってば。あなたに怒る理由なんてないでしょ? ちょっと考え事してただけ」
おろおろする彼を見て、思わず吹き出してしまった。
「気持ちはわからんでもないが、あんまりからかってやるなよな」
突然に背後から大声がして私は飛び上がった。振り返ると矢島さんがニヤニヤ笑いを顔に張り付けて、開け放した窓から覗きこんでいる。
「見てたんですか?」
「見てたよ。お前が怖い顔してるのもな。何かあったのか?」
「いいえ、何もないですよ」
「そうか? それにしちゃ、深刻そうだったぞ」
彼は窓から顔を引っ込めて、今度はドアを開けて入ってきた。
「かわいそうに、ハルカにいじめられてるんだな」
そう言って、座っているレイデンの頭をくしゃくしゃとなでる。
「ハルカはそんなことしませんよ」
レイデンは慌てて否定したけど、純粋すぎる彼は矢島さんにからかわれてるのにも気付かないらしい。
「今からわざわざ王都まで行くんだろ? 歴史の授業って、そんなに楽しいものなのか?」
「は、はい。めちゃくちゃ面白いんですよ」
「そうか。ま、趣味があるのはいいことだな」
「そう、そうなんです。ところで矢島さん、今日は仕事で来たんですか?」
「いや、こいつと飯に行こうと思ってな。もう店じまいの時間だろ?」
矢島さんが壁のカッコー時計を見上げながら、ソファにどっかりと腰を下ろす。
「後は私がやりますから、ハルカは準備をしてください」
いつものようにレイデンが気を利かせて、机の上を片付け始めた。
「うん、お邪魔みたいだからさっさと私は消えるね」
「そ、そんな意味で言ったのでは……」
「わかってるってば。ありがとう」
顔を赤くしておたおたするレイデンに後を任せて私は二階に上がった。
矢島さんを見張るなんて決心はしたものの、彼は私のいない時を狙ってやってくる。週末はレイデンの所に泊ることが多いようだけど、もちろん覗きに行くわけにもいかないし、結局のところ、彼の動向はさっぱりわからない。
さっきレイデンの髪に触れた時、矢島さんは『ミョニルンの目』を真正面から覗き込んだはずだ。あれを見て動揺の色も見せないなんて、やっぱりレイデンの相手が務まるのは彼しかいないのかもしれない。彼がレイデンを利用してるなんて、杞憂に過ぎなければいいんだけど。
でも、今は矢島さんの事を考えている場合ではない。サリウスさんの所に泊まる準備もしないといけないし。だめだ、また緊張してきた。
「なんだ、今日は泊りか?」
支度を終えて階下に戻ったら、矢島さんが目ざとく外泊用のバッグに目を留めた。
「はい。王都まで出たついでに……ええと、ニッキの所に寄って来ようと思って……」
「タプタイ村まで行くのか? 明日も仕事だろ?」
「間に合うように戻ってきますよ」
「お前ら、いつまでも離れて暮らすつもりなのか? 代理店勤めだと村を離れるわけにはいかんだろうが、このままじゃ大変だろ? これから先の事は考えてるのか?」
「いえ、まだそこまでは……」
矢島さん、プライベートに遠慮なく踏み込んでくるな。頃合いを見計ってニッキとは別れたことにしないと、そのうちにボロが出てしまう。ああ、もう、今はサリウスさんの事で頭がいっぱいだっていうのに。
ずっしりと重く感じられるお泊りバッグを肩から下げて私は事務所を後にした。
****************************************
王都の停留所に降り立ったところで、モッヘルにばったり出会った。暖かい日だというのにトレンチコートを羽織り、山高帽をはすにかぶっている。彼ご自慢の外界風ファッションだ。巨大なイタチかフェレットのように見えるけど、吊り上がった目と上唇からはみ出した犬歯でのせいで人相は凶悪だ。
国軍が警察を兼ねるエレスメイアではマフィアのような大規模な犯罪組織は存在しない。でも彼のようなチンピラっぽい存在は、街を歩けばちらほらと見かける。
「これは代理店の姐さん、お久しぶりです。貴族の旦那と逢引ですかい?」
「え? なんでわかったの?」
「ご一緒に王都を歩いてるのを何度かお見掛けしました。貴族ってのは王都をうろつくもんじゃねえですからね。あの方、目立つんでさ」
「モッヘルさん、あの人が誰か知ってるの?」
「お恥ずかしい話、あっしにはわかんねえんですよ。姐さんに会ったらお尋ねしようと思ってたんです」
そうなんだ。モッヘルは情報屋もしていると聞いたことがある。彼が知らないってことはサリウスさん、よっぽどうまく正体を隠してるんだな。
「ごめん、それは話せないんだ。急いでるからもう行かないと……」
大イタチは私の行く手を塞ぐように足を一歩踏み出して、太いひげを前足できゅっとひねった。
「おやおや? もしかして姐さんも知らねえんですかい?」
「そんなはずないでしょ?」
慌てて否定したけど、図星を刺されて動揺が声に出る。
「へへ、嘘が下手だね。姐さんが知りたいと言うんでしたら本気で調べてみますけどね。あっしも気になるんで、情報料は勉強させてもらいますよ」
「いえ、結構です。本人がそのうち教えてくれるって言ってるから」
「ま、姐さんがいいってんなら構いませんけどね」
モッヘルは短い両腕を広げて、肩をすくめてみせた。
「うん、じゃあね」
「おっと、もう一つだけ。余計なお節介でしょうが、あたしゃ、姐さんが気に入ってるんでね。警告させていただきやす」
「なんなの?」
「あの御人、只者じゃありませんぜ。近づくとあっしのひげがビリビリするんだ。やべえ秘密の匂いがする。あの人と付き合うのなら、よっぽどの覚悟を決めることですな」
****************************************
モッヘルと別れて私は図書館へ急いだ。彼の警告は本心からのものだろう。あそこで嘘をついても彼に得があるとは思えない。
サリウスさんが只者じゃないのは分かってる。分かってるけど好きなのだ。でも、このタイミングでよっぽどの覚悟と言われたら、せっかくの決心もぐらぐらと揺らいでしまう。
図書館に近づいたら、入口の前にサリウスさんが立っているのが見えた。私の姿を認めて長いローブを羽織った長身がこちらを向く。今日の服装は黒とグレーで統一されていて、いつもよりも渋めだ。何を着ていても驚くほどに格好いい。
「こんな所でどうしたんですか?」
「いや……君に会うのが待ちきれずに出て来てしまったのだ」
そう照れたように言いながら、私を抱き寄せて髪に顔を埋めてくる。心から嬉しそうな笑顔を見たら、揺らいでいた決心が再び固まった。
この人と一緒にいるためなら、どんな覚悟だってしなくっちゃ。この先、彼よりも好きになれる人なんて現れっこないんだから。




