魔犬と青鬼の朝
ニッキはもぞもぞとパジャマに着替え出した。私が目の前にいてもお構いなしだ。もっともエレスメイアには裸体を見せることに抵抗のない人が多い。村にも全裸おじさんがいて、事務所の前が毎朝のジョギングコースになっているのだけど、目のやり場に困っているのは私だけだ。
「そのパジャマ、どうしたの?」
「最初に外界に来た時に貰ったんだ」
水色の少し大きめのパジャマを着たニッキは、いつもに増して艶っぽい。パジャマを着たエルフだなんて眼福だな。
「なんで見てるんだよ?」
「可愛いなあって思って」
「だろ?」
ちょっとは謙遜することを学んでほしい。
「お前も寝支度しちまえよ。部屋が暗いと眠れねえだろ」
彼はさっさとベッドに入って目をつぶった。
「ええ? 一緒に寝るつもり?」
『魔素部屋』は狭いのでベッドも小さめだ。カップルでの宿泊は想定していないのだろう。
「いいじゃないか。俺とお前の仲だろ?」
「私が床で寝ろって言ったら?」
「ああ、ずるいぞ!」
「僕になりたがったのはあなたでしょ?」
「こんな固い床で寝れるか」
「もう、仕方ないなあ。狭いけどくっつかないでよ。私にはサリウスさんがいるんだからね」
「分かってるって」
そうは言ったものの、ニッキと二人きりでも罪悪感は感じない。ドレイクにキスしたときは罪の意識に押しつぶされるかと思ったのに、何が違うんだろう? 『主従の契約』が関係してるのかな?
ベッドの反対側から布団に潜り込んだら、何かがぷにゅっとお腹に触れた。
「ちょっとニッキ」
「何だよ?」
「くっつくなって言ったとこでしょ?」
「ああ? 俺は何もしてねえぞ」
布団をめくると真っ白い毛玉が顔を出した。そういえばこの子がいたんだった。
「あの、すみません。眠っちゃってたんです。お布団から出たほうがいいですか?」
白い犬は眠くて仕方がないらしく、今にも目が閉じてしまいそうだ。
「ううん、いいよ。一緒に寝ようよ」
犬はまた丸くなってすーすーと寝息を立て始めた。
「明かり消すぞ」
「うん。今日は疲れたんじゃない?」
「部屋も用意してもらったから、そうでもねえよ」
「矢島さんにお礼言ったほうがいいよ」
「何でだよ?」
「この部屋、手配してくれたんだよ」
「あいつ、俺をおい返そうとしただろ?」
「え?」
あの時、何が起こっているのかニッキには分かってないと思ってたのに。
「お前らの顔見りゃわかったよ。だからそれでチャラだ。礼なんか誰が言うか」
まあ、そう言うだろうとは思ったけど。
「ジョナサンに会えてよかったね」
「あいつは俺たちのとこには来れねえからな。こっちから会いに行ってやらねえと」
「昔の話、面白かったよ。三人で色んなことしたんだね」
「ああ、あん頃は規則も緩かったしな。やりたい放題だったんだ。……ほんと、楽しかったな……」
彼の言葉は私に向けられたものではなかった。もう戻らない遠い思い出を慈しんでいるかのように、声の響きは暖かい。その頃からずっと恋心を引きずり続けているんだ。
「ねえ、ニッキ。告白するつもりはないんだよね?」
「ああ? 何言ってんだよ?」
「好きだけど嫌われたらいやだから告白しないって言ってたじゃない?」
「え?」
「ほら、私を縛って言いなりにさせた夜にさ」
「そんなこと言ってねえ」
「覚えてないだけでしょ?」
「お前の聞き違いだ。さっさと忘れろ」
「あんな切ない声で言われたら忘れられないなあ」
「おい」
「一生片思いしてるつもりなの? 余計なお世話なのは分かってるけど、さっさと忘れて次の恋をした方が楽になれるよ。告白するつもりがないのなら、失恋の薬を貰ったら?」
さっき飲んだビールの助けもあったのか、ずっと心の奥底にわだかまっていたものが一気に溢れ出てしまった。こんなにきらきらした素敵な人が、年に一度も会えない人への想いに縛られ続けるなんて、見ているのは辛いのだ。
同僚のフイアから聞き出したのだけど、ジョナサンは女性にしか興味がないし、現在、交際相手がいるらしい。一縷の望みもないのなら、少しでも早くニッキを解放してあげたい。
「ほんと、余計なお世話だ。お前は自分の心配だけしてりゃいいんだよ」
彼は声を荒げて私に背を向けた。
「しー、わんちゃんが起きちゃうよ」
今夜は諦めたほうがよさそうだ。少しずつ説得していくしかない。ふわふわの犬は私の胸に顔をうずめて眠っている。無邪気な寝顔に癒されるなあ。
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朝起きると私の胸に顔をうずめているのは明るい色の柔らかな髪の毛だった。
「ちょっとニッキ!」
「ああ? 朝からなんだよ?」
ニッキの声はベッドの向こうの端から聞こえる。じゃ、これは誰?
布団をはがすと白い肌の全裸の男が姿を現した。
「うわ!」
「おはようございます」
ほわんとした顔で男があいさつした。
「あなた、誰?」
「ピャイですけど。忘れちゃったんですか?」
「ピャイは犬だよ?」
「ああ、朝起きるとこの姿になってる事があるんです」
「質量は?」
「はい?」
「質量はどこから来たの?」
「意味が分かりませんが」
「なんであんな小さい犬が、あなたの大きさになるのって聞いてるの!」
「魔法っていうのはそういうもんなんだよ」
外界に何度も行っているだけあって、ニッキは私の戸惑いをすぐに理解したようだ。
「お前はまだ外界人の常識に縛られてんだな」
彼が鼻でふんと笑う。こんなの、びっくりするに決まってるでしょ? 腹が立つなあ。
裸の男は私に顔を近づけて鼻をひくひくさせた。
「ハルカさんはとてもいい匂いなんです。今度、お相手願えませんか? 時間があるなら今からでもいいですけど」
うわあ、こいつ、セクハラ犬だ。
「ダメ。心に決めた彼氏がいるから」
「俺だ」
ニッキが笑いながらもそう言ってくれたので、犬男は残念そうな顔をした。
「味も匂いもタイプなのになあ。気が変わったら教えてくださいね」
「ええと、犬に戻らないんだったら服を着たら?」
「人になるつもりはなかったので、持ってこなかったんです。ハルカさんの匂いで興奮しちゃったんだと思います。発情期はまだなんですけどねえ」
「もういいから」
私は犬男の腰に毛布を巻き付けた。
「犬の時は裸でも平気なのに、どうしてなんですか?」
真面目に答えようとすると難しい質問をぶつけて来たな。
ちょうどその時、ベルが鳴ったので、私は問いに答えずに済んだ。ドアを開けると、ジョナサンが顔を出す。
「ええ? 三人でか?」
何か誤解してるようだ。
「ちょっと木下君を入れてやってくれよ。昨日の疲れが取れてないみたいなんだ」
「もちろんです。入ってください」
木下さんは部屋に足を踏み入れた途端、細マッチョのイケメン鬼に姿を変えた。額の上から十センチほどの一本角が突き出ている。体格も二倍に膨れ上がり、頭が天井に届きそうだ。やっぱり質量が気になるけど、ニッキに馬鹿にされるのは嫌なので黙っておこう。
肌は青いけど、青鬼というより水色鬼だ。人との混血のせいで色が薄くなったのかもしれない。今っぽいというか、ソーシャルメディア映えしそうな色合いだな。
「楽になったかい?」
ジョナサンが優しく声をかけた。
「はい、ご心配ばかりおかけしてすみません」
「君のせいではないからね。君の身体は『魔素』がないとうまく働かないんだよ」
木下さんは謝ってばかりだな。ジョナサンは少しでも彼の気を楽にしようと心を砕いているようだ。
「身体が楽なのは嬉しいんですけど、鬼ってやっぱり悪役っぽいですよねえ」
彼はもじもじと恥ずかしそうに、壁の鏡に映った自分の姿に目をやった。
「格好いいけどなあ。ねえ、ニッキ」
「おう、いいじゃねえか」
ニッキに同意を求めると彼も大きくうなずいた。
「ああ、エルフだ!」
木下さんが彼を見て感動の声を上げた。昨日も空港で会っているのだが、疲労困憊で周りに気を配る余裕もなかったのだろう。
「ちげーよ」
「褒め言葉だってば」
「格好いいなあ。でも、耳はとんがってないんですね」
「ああ、耳だと!? お前は何を言ってやが……」
「ニッキ、黙って」
命令されて、彼は悔しそうに私を睨んだ。外界と関わっている限り、この先もエルフ扱いされるのは目に見えている。格好いいエルフの出てくる映画でも見せて納得してもらうかな。
「あの、おじゃまでしたね……」
ベッドの上の裸のピャイに気づいて木下さんが頬を赤くした。肌が水色なので、ほんのりと紫っぽい色になったという方が正確かもしれない。
「そこの人は乱入してきた変質者だから気にしなくていいよ」
「ハルカさんが一緒に寝ようって……」
「それはかわいいわんちゃんに言ったの」
「ねえ、木下さんは僕のことを忘れちゃったんですか? 飛行機では可愛がってくれたのに」
裸の男は木下さんに寂しそうな視線を向けた。
「え?」
「ほら、やっぱり忘れてる。ピャイですよう」
「ええ?」
今度はジョナサンも声をそろえた。
「君はピャイなのか?」
「この犬、興奮すると人になっちゃうみたいなんです。飛行機でシホちゃんに変な事してないでしょうね?」
「いいえ。シホさん、優しいんですけど、なぜだか狼の匂いがするんで、萎えちゃうんですよね」
よかった。シホちゃんは痴漢被害に遭わなかったようだ。もっとも彼女にちょっかいを出すようなことがあれば、こんな犬、嫉妬深いゼッダに八つ裂きにされてしまうだろうけど。




