通学路のケルベロス
サリウスさんにも伝えた通り、来週には選考に受かった留学生たちが、『門』の外界側にある『ICCEE本部』に世界中から集まってくる。ホームステイ先の手配は終わっているし、特に今更やることもないのだけど、この週には 『ICCEE』の職員と最終の打ち合わせをする決まりになっている。うちの事務所にはいつも通り矢島さんがやってきた。
「今朝は早いんですね」
私はパジャマのまま事務所のドアを開けた。厳格に見えて割とちゃらんぽらんな矢島さんが始業時間前に現われるとは思ってもいなかった。
「レイデンのところに泊ってたんですか?」
「いいや、『本部』から来たよ。面倒な仕事を押し付けられそうなんで、逃げて来たんだ」
「研修会の準備の手伝い?」
「まあな」
「 『ICCEE』って交流委員会なんでしょ? 交流のお手伝いをするのが職員の仕事じゃないんですか? 矢島さんの印象がどんどん悪くなるんですけど」
「職員はたくさんいるんだから、いいじゃないか。そうだ。今回はジョナサンが来るんだぞ」
「ええ? 研修にくるなんて珍しいですね」
あからさまに話をそらされたけど、ジョナサンと聞いて喰いついてしまった。
「木下の付き添いでくるんだよ。正体を現したときに、『魔素部屋』当番だったのがジョナサンなんだ。いろいろ世話を焼いてやったから、頼られてるみたいだな」
木下さんというのは、選考会で『鬼』に変身した生徒さんのことだ。
「研修中もずっといれるんですか?」
「ああ、木下はすぐに体調を崩すんでな。入国を見届けるまで付き添うってさ」
「それなら、ニッキに会う時間はありますよね。ずいぶん会いたがってましたよ」
「そうだな。晩なら暇だしいいんじゃないか。あいつの代理店に連絡しておくよ」
彼は壁のカッコウ時計を見上げた。
「……なあ、もう事務所を開ける時間だろ? レイデンはどうしたんだ?」
「あれ、おかしいですね。遅刻なんてしたことないのに」
「大丈夫かな?」
矢島さんが顔を曇らせる。
「恋人の心配ですか?」
「だってあいつ、真面目だからな。遅れるなんてよっぽどのことがあったんじゃないのか?」
そう言われると私も心配になってきた。『魔法世界』でも人は病気になるし、交通事故だって起きるのだ。
「見てきます」
上着を羽織ってドアを開けると、広場を横切ってレイデンが走ってくるのが目に入った。長い黒髪が乱れている。何があったんだろう?
「ハルカ、困ったことになりました」
中に入るなり、彼が言った。服のあちこちにべったりと泥がついている。
「何があったの?」
「ケルベロスです。タンペリョンさんのお宅で飼い始めたんです」
「ええ! タンペリョンさん?」
乗合馬車の停留所の斜め前の家だ。
「それはまずいんじゃ……」
「それが、まだ子犬なんですよ」
「ええ、ますますまずいじゃない。もうすぐ生徒さんが来ちゃうのに……」
私は立ち上がった。
「行くんですか?」
「うん。どれだけまずいか見てくるの。留守番お願いね」
「待て、ハルカ。俺も行く」
「矢島さんも?」
「ああ、留学生活の支障になるというのなら、『ICCEE』職員として確認しなくてはな」
真顔でうなずくと、彼は先に立って事務所を出た。
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ケルベロスはケンタウロスたちと同じで南の方が原産地だ。かなりの昔に旅人にくっついてエレスメイアにやってきたらしい。
『地獄の番犬』の異名は伊達ではなく、こいつが道に繋がれていると、簡単には通り抜けられないのだ。
タンペリョンさんの家の前にはすでに人だかりができていた。みんなケルベロスがいると噂を聞きつけたようだ。
まだ子犬のケルベロスは、思わずおかしな声が出てしまいそうな愛くるしさだった。短い尻尾をぱたぱたと振って、三つの首でキューンキューンと愛想をふりまいている。相好を崩したオルレイロがぺろぺろと顔を舐められていた。
「こ、こりゃあ、かわいいな」
子犬を一目見て、矢島さんが甲高い声を出した。
我も我もと村人たちがケルベロスを触りに行く。構わずにはいられない可愛さなのだ。
村にも成犬が二頭いるのだけど、とにかく人懐こくて道で出会ってしまうと三つの頭で、「なでて、なでて」と寄ってくるので急いでいるときには困る。「ごめんね、またね」と立ち去るときの悲し気な表情には罪悪感を覚えずにはいられない。
それがコロコロでモフモフな子犬の姿をしているのだ。常人の精神力では抵抗なんてまず不可能だ。
だめだ。ここは生徒さんが通学に使う停留所だ。こんなに可愛らしいものがいたら絶対に遅刻してしまう。
「私にも触らせて」
とりあえず私も矢島さんもケルベロスと遊びながら対策を練ることにした。
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「ずいぶんと長かったですね」
私たちが事務所に戻ると、責めるでもなくレイデンが言った。
「あれはまずいな」
矢島さんがタオルで顔についた汚れをぬぐい取った。まずいと言いながらも恍惚とした表情を浮かべている。
「はい、まず過ぎますね」
真ん丸な子犬のモコモコの手触りを思い出しながら私も同意した。
真面目を絵に描いたようなレイデンですら遅刻させてしまうほどの魔獣なのだ。外界人の生徒さん達があらがえるわけがない。
「入国までになんとかしてくれるよう、タンペリョンさんと話してみます」
けれども、村人たちもみんな同じことを考えたらしい。私が交渉するまでもなく、通勤通学時間だけケルベロスは裏庭に閉じ込められることになったのだった。




