竜の表紙の本
停留所で乗合馬車に乗りこむと、私の後ろからケロがピョンと飛び込んできた。
「え? ケロも行くの?」
「うん」
「どうして? 図書館通いは飽きたって言ってたでしょ?」
「今日はでれでれしてるハルカを見に行くんだよ」
「でれでれなんてしないけど」
「ふうん」
ケロは伸びをして私の隣で丸くなる。嫌な猫だなあ。サリウスさんとは二人きりで会いたかったのに。
乗合馬車はいつもの時間に図書館前の停留所に着いた。平日でも王都の人通りは多い。図書館前の広場には屋台が立ち並び、入口へと続く石段の上では年老いた男性が、私の翻訳魔法では理解のできない詩のようなものを詠唱している。
図書館に一歩足を踏み入れると突然に町の喧騒から切り離され、静寂に包まれる。建物全体に防音の魔法がかかっているのだ。
受付の前を通ったら、ウィテニトアさんが私に声をかけた。
「あの、ハルカさん。伺いたいことがあるんですが……」
「なんでしょうか?」
「ハルカさんはサリウスさんとお付き合いなさっているのですか?」
「は、はい。先週からなんですけど……」
口にすると実感が湧いてきて頬が熱くなる。
「やっぱりそうでしたのね……」
「あの、ウィテニトアさん……?」
彼女の顔に明らかな失望の色が浮かんだので、私は慌てた。
「いえ、とても博識で素敵な方だと思っておりましたので……。やはり、わたくしの伴侶は本しかありませんのね」
そこまで極論に走らなくてもいいと思うんだけどな。けれども、失恋の痛みを知っているだけに、彼女の恋を終わらせてしまったことには罪悪感を覚えた。
「……すみません」
「ハルカさんが謝ることはないんですよ。不躾な質問をしてしまいましたけど、気を悪くなさらないでくださいね」
彼女は寂しげに微笑むと、手元に積まれた本に目を戻した。
『人間検索エンジン』のウィテニトアさんに博識だと認められるなんて、サリウスさんって凄いんだな。同じ図書館で働いている彼女なら彼についてくわしく知ってるんじゃないかと思ったんだけど、質問しにくくなってしまった。
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大きな本棚の列を抜けて、窓際のこじんまりとした空間に足を踏み入れる。丸い大きな机が三つ並んでいるのだけど、図書館の奥に近いせいか、使っている人を見たことがない。
いつもの席でサリウスさんが待っていた。私の姿を見て笑顔で立ち上がる。貴族は衣装持ちなのか今日もまた見たことのない服を着ていた。相変わらず地味な色合いだけど、彼の髪の栗色と瞳の緑がよく映える。この人、やっぱり格好いい。今までここで講義を受けていても、そんな風に感じたことはなかったのに、近づいただけで心臓の鼓動が早くなる。
「こんにちは、サリウスさん」
デートでの出来事を思い出すと照れ臭くなって、挨拶の声も自然と小さくなる。
「あ、ああ……」
私と同じように感じているのか、彼の顔も心なしか赤い。それだけ言うとすっと椅子に腰を下ろした。
「なんだよ。それで終わり? ねえねえ、それでも付き合ってるの?」
ケロが机の上に飛び乗って、失望した様子で私たちの顔を眺め回した。
「今日は講義を受けに来たの。ねえ、サリウスさん」
「ああ、その通りだ」
私が同意を求めると、彼は真面目腐った表情でうなずいた。
「ふうん。つまんないの」
ああ、なんでこんな猫、連れてきちゃったんだろう?
私が向かいの席に座ると、サリウスさんは机の上の分厚い布の包みを私の方に押しやった。
「それは何ですか?」
「我が家に昔から伝わるものだ。ハルカに進呈しよう」
包みを開くと大きな本が入っていた。赤い表紙に翼を広げた竜の姿がエンボス加工されている。
「……竜の本?」
重い表紙を持ち上げると、ページ一杯に描かれた美しい竜の絵が目に飛び込んできた。
「うわ、きれい」
「エレスメイアと近隣国の空を飛んだとされる竜が、この本にはすべて記録されているのだ」
文字は読めないけれど、ページを順にめくっていくと様々な色や形の竜たちが姿を現す。一頭の竜に関してかなりの枚数が割かれているようだ。
「こんなにたくさんいたんですね。あれ、この派手なの、ドレイクかな?」
私はページをめくる手を止めた。大きな竜の絵には金箔が貼ってある。特徴のある四本の角も正確に描かれていた。
「うん、ドレイクって書いてあるね」
ケロが読んでくれる。
「こんな凄い本、貰っちゃってもいいんですか?」
「もちろんだ。『ドラゴンスレイヤー』の蔵書にふさわしい本だとは思わぬか?」
「え? ……ええええ?」
どうして彼が知ってるの?
私の狼狽にサリウスさんがにやりとした。
「私も『魔法院』に出入りする身だ。そのぐらいは知っている」
「……サリウスさんも『魔法院』に通ってるんですか?」
考えてみれば貴族は『魔法院』では専用の建物を与えられているのだから、本館で見かけた事がなくても不思議はない。私だって週に数時間滞在するだけなんだし。
でも、私が『スレイヤー』だと知っているのは一部の『上級魔法使い』だけだ。彼もそのうちの一人なんだろうか? 『魔法院』認定の『魔法使い』は全員杖を持っているはずなんだけど、彼が杖を持っているのは見たことがない。貴族は別なのかな? それとも院長みたいに杖は使わないだけかもしれない。大きな銀の指輪だけでもかなりの事ができそうだし。
「私の正体が気になるようだな」
考え込む私を見て、彼が微笑んだ。
「うん。すごく気になります」
「その時がくればすべて話す。私を信じてくれ」
レイデンがいい人だというぐらいだから、彼の事は信頼している。でも、その時ってどんな時なんだろう?
「それっていつなのさ? 来週? 来月? それとも一年先?」
私を代弁するかのようにケロがずけずけと質問した。
「それもまだ話せぬ」
「ふうん、怪しいなあ。僕のハルカを泣かせるような真似はしないでよね」
猫は耳を三角に寝かせて、金色の目でサリウスさんをねめつけた。
「案ずるな。そのような事にはならぬ……と約束しよう」
「……わかったよ。約束だからね」
ケロは不満げに尻尾をパタンパタンと振っていたけれど、それ以上追求しようとはしなかった。
一瞬、サリウスさんが言い淀んだように聞こえたのだけど……気のせいだよね?
「その本は君の猫に読んでもらうとよいだろう。さて、今日は第五代エレスメイア王の治世の続きであったな」
彼は手元の本を広げ、何事もなかったかのように、講義に入った。もっと彼の顔を見たかったけど、見るとドギマギしてしまうので、ひたすらノートを取る。低く柔らかな彼の声が耳にくすぐったく感じられて、話の内容に集中するのが難しい。
しばらくして彼の声が止まったので顔を上げた。
「今日はずいぶんと静かだな。質問はないのかな?」
確かにいつもは問答の形で講義が進んでいくのだけど、今日は無理だ。質問なんてしようものなら、講義の内容が頭に入っていないのが速攻でばれてしまう。
「ええと、ありません」
机の上で寝転がっていたケロがいきなり顔を上げた。
「じゃあ僕から質問なんだけどさ。北部の『門』の数を増やしたのは次の王様の代になってからじゃなかったっけ?」
「そ、そうであったな。すまない」
サリウスさんは頬を赤らめて、素直に間違いを認めた。
「二人とも全然集中できてないね。そんなので勉強になるの? 僕は散歩に行ってくるから、ちょっと休憩しなよ」
ケロは机の上から飛び降りると本棚の間に消えた。
「君の猫が正しいようだ。このままでは集中などできぬ。講義は後にしよう」
彼が立ち上がり、ぐるりと机を回って私の前に立った。
「今日の私は講師の立場であるのだが……」
「構いません。気にしないでくだ……」
言い終わらないうちに抱き寄せられてキスされた。雷に打たれたようなキス。やっぱり焼けるように熱い。その上、いつまでも終わらなくて気が遠くなりそうだ。
「今日も死にそうなのか?」
私を腕に抱いたまま彼が尋ねた。
「はい、死にそうです」
「ならば、こうしよう」
彼は私をひょいと抱え上げ、机の上に座らせた。うっすらと笑みの浮かんだ顔を近づけてくる。
「まだキスするんですか?」
「ああ、耐性を付けてもらわなくてはな。なにか問題があるのだろうか?」
「問題はありませんけど、人が来ちゃいそうで落ち着かないです」
「案ずるな。ここには誰も入っては来られぬ」
「え? 結界……ですか?」
私はきょろきょろとあたりを見回した。もしかして今まで誰も見かけなかったのはそのせいだったの?
「そんな大層なものではない。棚と棚の間にちょっとした目くらましの魔法をかけてあるのだ。君のおせっかいな猫には効き目はなさそうだがな。邪魔は入らぬから、これからも安心して講義を受けに来るとよい」
「はい……。あ、そうだ」
これからと聞いて、彼に伝えることがあったのを思い出した。
「私、しばらく図書館には来られなくなるんです」
「なぜかな?」
「もうすぐ次の留学期間が始まるんです。来週は 『ICCEE』本部での研修があるので、私も外界に戻らないと。生徒さんが入国してからも週に一度の『魔法院』通いは休めないから、ほかの日に休みは取れなくなっちゃうんですよ」
「この図書館は遅くまで開いている。仕事を終えてからではどうだろう?」
「でもかなり遅くなりますよ。あなたは構わないんですか?」
「もちろんだ。講義の後に夕食に付き合っていただけるのであればな」
彼はにやりと笑うと再び私の唇を塞いだ。
しばらくしてケロがのっそりと戻ってきたので、私たちは慌てて講義に戻ったのだが、結局この日はいつもの半分も進まずに終わった。
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「ねえ、ハルカはあの人と『婚姻の契約』を結ぶの?」
帰りの馬車の中、唐突にケロが尋ねた。
「ま、まだ付き合い始めたところだよ。そんなことまで考えてないよ」
「でも、かなり惚れこんでるよね?」
「それはそうなんだけどね」
「レイデンを好きだったぐらい好きなの?」
「わかんないよ。薬のせいで付き合ってた頃の気持ちが思い出せないんだ。本当に好きだったのかなって思うぐらい。……なんでそんなこと聞くの?」
「サリウスに騙されて、また前みたいに落ち込んだら僕が困るだろ」
「やだなあ。おかしなこと言わないでよ。レイデンにもいい人に見えるみたいだし、大丈夫だってば。ケロもサリウスさんならいいって言ってたでしょ?」
「だって、付き合い始めたのに正体を明かさないなんて怪しすぎるだろ? いい人だからって無害だとは限らないんだよ」
ケロがここまで心配するのも珍しいな。
「私もちゃんと気を付けるよ。おかしな事になりそうだったらさっさと手を切るから」
ケロの前ではそう言ったけど、もう手遅れだって自分では分かってる。たとえサリウスさんが本物のテロリストだったり、例の美人と二股かけられていたとしても、彼を憎むなんてできそうにない。別れるような事態になれば、また『失恋の薬』のお世話になるしかなさそうだ。
膝の上の本の包みがずっしりと重い。私の正体を知っていたなんて、彼は一体何者なんだろう?




